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『万葉集 秘密の用字法』の出版

2023-01-02 16:46:55 | 古典の解読

万葉集 秘密の用字法の出版

永井津記夫(ツイッター:https://twitter.com/eternalitywell)

 

  新たな万葉関係の本を出版することができました。タイトルは『万葉集 秘密の用字法』でキンドル本として出版しました。サブタイトルは、

◇◆人麻呂・家持の秘密用字法◆◇まちがいだらけの万葉集歌の訓みと解釈

としています。

  残念ながら万葉集はまだ完全にはよめていません。万葉仮名が正しく訓めていない場合と、音的には正しくても、その解釈がまちがっている場合があります。また、どちらも間違っている場合もあります。また、まだ、歌の全部ではありませんが、一部において万葉仮名で書かれている文字をどのように訓むのかほとんど手のつけられていない歌も数十もあります。その意味で万葉集は未知の〝宝庫〟です。

  以下はキンドル本『万葉集 秘密の用字法』の「まえがき」です。

 

まえがき

  万葉集にはいくつかの未知の用字法(=仮名づかい)があり、その用字法に気づいていないために万葉仮名でかかれている歌の訓みを誤ったり、解釈を誤っていたりする場合が稀ではなく存在します。

  未知といってもその程度はさまざまで研究者の何名かは一つの歌に対してその用字法に先鞭をつけ、言及しているのに残念なことに一般化されず、用字法としての足場をもたず他の歌に応用されることもなくおわっています。

  また、今までほぼ気づかれることなく埋もれたままになっている用字法もあります。私は本書でそれらの用字法を示し、埋もれたままで多数の人の共通認識になりそこねている用字法を明らかにしたいと考えています。万葉集の秘密用字法というように「秘密」という言葉を用いていますが、これは万葉歌人たちが故意に秘密にしたものではなく、現在の私たちが気づかないだけだと考えられます。

  ただし、一部には本当に(時の権力者側に)秘密にして伝えようとする用字も少数ですが存在すると思われます。

 拙書『万葉難訓歌の解読』(一九九二年 和泉書院刊)にこれらの用字法の説明を(一部を除いて)ほぼしていますが、本書では読み誤っている考えられる歌と用字法をセットにするかたちで新用字法の説明をしていきたいと考えています。

 副題の中に「まちがいだらけの万葉集歌の訓みと解釈」としています。少し言い過ぎの表現かもしれませんが、万葉集には部分的にまだ訓めていない歌が多数ありますし、音的には正しくとらえていても、正しく解釈できていない歌も少なくないと私は考えています。万葉集全体を正しくとらえた場合を百点満点とすると現在は八十点くらいの段階かもしれません。

  本書において、用字法の説明をしていく場合には、万葉仮名を示すことが不可欠になりますのでやや読みづらい部分もあると思われますが、その点、ご承知おきいただければと思います。

**************************************************************************

  以上が「まえがき」の部分ですが、次に「万葉の副用字法」という名称で、用字法の説明を(列挙するだけになるものが大部分ですが)簡単にしたいと思います。

  これらの用字法は万葉歌人たちが故意に隠しているものではなく、私たちの認識がその用字法に到達していないだけだと思われます。私は本書でそれらの用字法をできるだけわかりやすく説明していきたいと考えています。①はすでによく知られている用字法ですが、②から⑦は、私が初めて命名して示す用字法になります。

  本書の中で、

◆万葉の副用字法

同音借意(仮借)… 是=氏、留=流

はめ込み熟語(隠れ熟語)… 留別(離れ語)、小豆(アヅキ[なし])、當不←不當=不当(逆語)

重用文字… 朝東風(あさごちのかぜ)、淡海(あふみのうみ)

明頭文字・明尾文字… 散動、為形、斎祈、嘆久、恐見

構成要素用字法

背景用字法

二重用法連用形(連用形二重用法)…同音同義(同一語)の掛詞

などの説明をしています。

  ⑦に関連して、掛詞(かけことば)は同音異義語を原則とし、同音同意語、つまり、同一語の掛詞を無視してきたため、正しい訓みと解釈ができていない歌がかなり存在します。

 その代表の一つが「かひこ」、現代語で「かいこ:蚕」です。

 日本では魏志倭人伝に出てくる卑弥呼の時代から、絹織物があり、「蚕(かいこ)」もいたことは確実ですが、万葉集では従来の読み方では、「かひこ(=かひこ:蚕)」という語は出てきません。その代り、「かふこ」という言葉がでてきます。しかし、上代語として「かひこ=蚕」は存在します。『新撰字鏡』や『和名類聚抄』という辞書のなかに「蚕 加比古かひこ」と出てきて、上代語として「かひこ」という言葉は存在しています。が、万葉集では蚕に言及する歌は三首ほどあるのに「かひこ」ではなく「かふこ」という形に今は読んでいるのです。

 しかし、同音同一語の掛詞と二重用法連用形を認めれば、「かふこ」と読むのは誤りで「かひこ」と読むのが正しいということになります。「かふこ」は誤りです。今までどの研究者もこの誤りを正しませんでしたが、本書ではじめて正すことができたと考えています。

 「かふこ」と諸本が訓んでいる歌を次に示します。

  足常 母養子 眉隠 隠在妹 見依鴨 (万葉集巻十一・2495)

 この歌の「母養子」を諸家、諸本は「母がかふこの」と訓んでいますが、私は「母がかひこの」と訓みます。

  たらちねの 母が飼ひ蚕の 繭まゆこもり 隠こもれる妹いもを 見むよしもがも

  (たらちねの)母が飼っている蚕かいこの繭ごもりのように こもりきりのあの娘を見るすべがないものか

  ※「母がかひこの」の「かひ(飼ひ)」の部分を二重用法連用形とし、同音同語の掛詞と見て、「飼ひ→飼ひ・飼ひ」で、「母が飼ひ・飼ひこ の」と見ます。意味を取りやすくするために「母が飼ふ・飼ひこ の」とするとよく理解できます。つまり、〝母が〟という主格を示す言葉が「飼ひ」という動詞の連用形にかかり、「母が飼ふ」という〝主格語と動詞〟の動作、動的関係を維持しつつ、「飼ひ」は次の名詞の「こ」に結合して、動作性を失い「飼ひこ(かいこ 蚕)」という虫に変身します。つまり、「かひ」は二重に使われている連用形で、言葉をかえれば、同音同義の掛詞となります。この〝二重用法連用形〟と〝同音同義語〟の掛詞を認めることによって歌の解釈や訓みに変更を加えなければならない歌が複数存在します。

※「足常」を「たらちね」の音転として文字に即して「たらつね」と訓む本と、「足常」を「たらちね」と一般的に母の枕詞として使われるかたちに訓む説が対立しています。私は「常」は後の「隠」と結合するはめ込み熟語の中の〝離れ語〟で「常に隠れている」か「母が常に隠している」という意味を表すために故意に「常」を使っていると見ます。したがって、「足常」は「たらね」と訓みます。

 この2495番のほかに、2991番、3258番の歌も「母がかこの」と諸本訓んでいますが、「母がかこの」と訂正すべきでしょう。

* 母(はは)我(が)養(かひ)蚕(こ)乃(の)… 母がかこの (2991)

* 母(はは)之(が)養(かひ)蚕(こ)之(の)… 母がかこの (3258)

となります。驚いたことに、万葉集の歌の中に、通説による訓みではかひこ(蚕)」は存在しません。蚕かいこに関連する言葉が出てくる歌は、ここに示した二四九五番、二九九一番、三二五八番の歌の中だけですが、いずれも「かこ」と訓んでいるのです。これは前に「母が」という主格に合わせるために、動詞の持つ躍動性を失って静止的な意味が強くなる連用形ではなく(というより、この場合、カイコという虫になってしまう「かひ」ではなく)、より動詞の躍動性を保持する「連体形」を選んだためでしょう。この誤りは同音同義語(つまり、同語)による掛詞の存在を無視していた(知らなかった)ことによる当然の帰結です。

 本書ではこのような今までの訓みや解釈の誤りをいくつか指摘し、正しい訓みと解釈を提案しています。

 

 


二人の皇后の挽歌の訓み誤り

2022-06-18 22:48:32 | 古典の解読

  前回ブログ『「令」は「今」の誤りではないのか』では万葉集中の誤字について書きましたが、万葉集では誤字も含めて訓みの誤りや解釈の誤りがまだ多数(4500首の中の数%)あると私は考えています。

 万葉集の解読、解釈に間違いが含まれているのは、優秀な学生が教科の試験で完全に勉強したと思っても100点満点を取ることがなかなかできないのと同じです。しかも、万葉集には数学の難問以上の難問(難訓歌)が存在します。

 数学の最先端の領域は“新しい枠組み=言葉による新しい枠組みの提唱”が必要なようです。つまり、説明の“言葉”が重要で“数字・数式”以前の問題であり、その意味では言葉の問題である万葉集の難訓歌を解くことと似かよってきます。ポアンカレ予想は百年にもわたる難問でしたが、ペレルマン氏によって解かれました。そして、今、脚光を浴びているいるのが“ABC予想”で、問題を解いたとする日本の望月新一氏の解法の“言葉”、つまり、「新しい枠組みを説明する」言葉が、論争を呼んでいるようです。

 数学の未解決問題を解くことは数学者にとって大きな楽しみだと思われますが、それと同等かそれ以上の“難問”である万葉の難訓歌や解釈に“数学者”が参加すれば面白いことになるかもしれません。

 

 

二人の皇后の挽歌の訓み誤り

持統天皇と倭大后の夫の天皇への挽歌(153番と160番の歌)

永井津記夫(ツイッター:https://twitter.com/eternalitywell)

 

【持統天皇の挽歌】 

  まず、持統天皇(鸕野讃良うののさらら皇女)の挽歌(160番)を先に取り上げたい。160番の歌の原文は次のようになっている。

    燃火物取而裏而福路庭入澄不言八 面 智男雲  

そして、この歌の第四句まで、つまり、「燃火物取而裏而福路庭入澄不言八(面)」はほぼ完全に読まれていて、

燃ゆる火も 取りて包みて 袋には 入ると言はずや(も)  (燃えている火も取って包んで袋に入れてしまうと言うではないか)

となっている。ただ、第四句の最後の文字「面」を第四句に入れるのか、入れずに第五句の最初の文字にするかで諸家の見解が分かれている。それで、最後の二句を示し主要な説を紹介すると、  

① 入澄いると不言いはす 八面やも 知しると曰いは男雲な くも(賀茂真淵『万葉考』)

② 入澄いると不言八いはすや 面知おもしる男雲なくも (契沖『万葉代匠記・初稿本』)

③ 入澄いると不言八いはすや 面知あふよし男雲なくも(井上通泰『万葉集新考』)

④ 入澄いると不言八いはすや 面知あはむ男雲をくも(澤瀉久孝『万葉集注釈』)

⑤ 入澄いると不言八いはすや 面智おもしるを くも  (中西進『講談社文庫本万葉集』)

というような訓みがある。もちろん、これ以外にもいくつかの訓みが存在するのだが、それらの訓みは、①~⑤も含めて、第五句と前四句とのつながりに、かなり大きな無理や飛躍があるように思われる。

 「男雲」を「なくも」と訓むことは、mとpの唇内韻尾を有する漢字の後には必ずm・b・pの子音を持つ文字が続くことによって前の唇内韻尾のmやpの音を読むことを省略するとする木下正俊氏の説に反することになる。木下説に従う限り、「男」は「な」とは訓めないことになる。

 ナクモと訓む場合、「ナク」を「等伎乃之良奈久ときのしらなく」(巻十五・3749)などの打消しの助動詞「ず(ぬ)」の未然形「な」に名詞化して“~こと”の意味を加える準体助詞ともよばれる「く」のついた形と考えるのであるが、その「ナク」に詠嘆の終助詞「も」の付く例はない。澤瀉久孝氏は『万葉集注釈 巻第二』の中で「男雲」について、発音的常道からも語義の点でも「ナクモ」とする説をつよく否定されており、今ここではその詳細は省略するが、私は澤瀉氏の考えに同意する。氏は“男雲”はをくも(招くも) ※をく=招き寄せる;“も”は詠嘆の終助詞であることをほぼ断定的に主張されていて私もこの見解に大賛成である。ただし、「招き寄せる」という意味に意欲、願望の意味合いが付加されていると考えた方がよい。つまり、「をく=招き寄せたい(want to invite)」の意味と考えるのが適当である(*注1)

 ただし、澤瀉説はその前の語句の捉え方に誤りがあると私は考えている。澤瀉氏は「面」を第五句の最初の文字とし「面知あはむ男雲をくも」とする。「智」を「知日」に分解するのは前回のブログ「卑弥呼と大日孁について」の注3での「合字」で述べているように万葉集中では稀でなく存在する現象なのでかまわないのであるが、氏も「逢はむ日」に関して説明の中で述べられているように“をくも”ほどの不動性がなく言葉としても直接端的な言葉であってほしいような気もせられるのであるが、今はこれ以上の案を得がたいので檜嬬手の説に従って後考を俟つとされ、「面知日=逢はむ日」にはそれほど自信がないことを吐露されている。後生である私は澤瀉先生の言葉をうけて「面」は第四句の最後の文字とし、「智」を「知日」(*注2)で「日を知る→ひじり=聖」と訓む。前回のブログで“構成要素を読む漢字”について説明したが、一般的に知られている漢字は「娶=取女=めとる」である。つまり、結句の第五句に「智」はヒジリと訓めて、全体は、

    ひじり招くも

となる。歌全体は、

  燃ゆる火も  取りて包みて  袋には 入ると言わずやも  ひじり招くも

燃えている火も取って包んで袋にいれてしまうと言うではないか。(そのような法力を持った奇跡を行なえる)仙人ひじりに来て欲しい! (そして夫を生き返らせてほしい!)

Don’t they say that there is someone who can hold a burning flame and put it into a bag?  I do want such a superman to come (and revive my beloved husband)!     ※私は難解な万葉歌などの古文の意味をしっかり把握しようとする際に英語に訳すことがある。そうすると、解釈の不備や弱点が見えてくることがある。この英語の“superman”は“miracle worker”の方が良いかもしれない。※「ひじりをくも」と結句をよめば、六音の“字足らず”となる。格助詞の「を」を読み添えて「ひじりをくも(聖招くも)」として七音にして字足らずを解消することも可能であるが、対格(目的格)を示す格助詞「を」を加えないほうがより力強さ、切実さが表現されるように感じたので「を」の読み添えは避けた。

 亡くなった夫の天武天皇が法力(超能力)を持った仙人(ひじり)の力で生き返って欲しいという切なる気持ちから、「法力のある聖を招き寄せたい」、「ひじりが欲しい」、「聖よ、あらわれてくれ!」との悲痛な叫びがこの160番の歌、天武天皇の皇后 鸕野讃良うのさらさの皇女、のちの持統天皇の歌である。これで澤瀉氏が不安視していた“面知日=逢はむ日”の意味の弱さ、曖昧さが消滅する。

 「面」を第四句に入れると、「入澄不言八面=入ると言はずやも」と八音の字余り句となるが、第四句に字余り句になる歌は多数あり異様なことではない。「やも」というように助詞が連接する場合、一番よく使われる用字は「八方やも」であるが、「八面やもも他に4例がある。八方も八面もこの用字自体が意味を持つ熟語であり(“四方八方”、“八面六臂”など)、私はこのような用字を“隠れ熟語”と呼んでいる。万葉集にはこの“隠れ熟語”が非常に多い。万葉歌人はわざと隠しているのではないが(その意味では“隠れ”は適切な命名ではないが‥)、現代人の私たちには気づきにくい場合もある。ここで私が言いたいのは「八面」という連接からも八と面を切り離さない方がよい。

  天武天皇の没年は686年で、このころには仏教と山岳信仰が集合する形で山で修行(山岳修行)する僧侶または、仏教の在家信者がすでにいた。山伏の祖とされる役行者(えんのぎょうじゃ)は、役小角をづのとも言われるが、彼は634年の生まれとされ701年に没した。文武天皇3年に、妖術をもって人々を惑わせたとして、伊豆島に流された。そして、『続日本紀』には「小角よく鬼神を使役し、命令に従わなければ呪で鬼神を縛る」という記述がある。668年には、後に民衆救済の社会事業や墾田開発指導等をして人々から圧倒的な支持を集めた行基も生まれている。

 つまり、天武天皇が没した時には山で修行し大きな力(法力、超能力)を身につけた役行者のような“特別な能力”を持つ人物が何人かいて、人々の間でもてはやされたり、うわさになっていたと思われる。持統天皇はこのような背景の中で「ヒジリをくも」と叫んでいるのである。彼女の悲痛な叫び、夫に対する深い愛情、哀惜の念がこの歌を通じて私の心にひびいてくる。

 

 

【倭大后(天智天皇の皇后)の挽歌】

  153番の倭やまと大后の挽歌もその解釈が大きく間違っている、それゆえ、皇后の天智天皇に対する哀惜の念おもいが私たちにそれほど伝わってこない。

 どこが間違っているのか。それはこの歌の最後の句「若草乃之念鳥立」の解釈である。「嬬つま=妻」を「夫つま」と解し、私の知る限る一人を除いて諸家、「鳥」を「念おもふ=愛する」のは亡くなった夫・天智天皇と解しているのである。が、これは失考と断じてよいのではないか。“若草乃嬬”は文字通り“若草の妻”のことであり、天智天皇の“妻”の倭大后である。そのように解して、この歌の挽歌としての痛切な妻の叫びがよくわかるのである。「嬬」はツマ(妻)を意味する漢字であるが、旁の「需」は“柔らかい”を意味し、柔らかい“若草”とよく呼応する意味を持つ漢字である。

 とりあえず、原文とその通常の訳を示そう。 

大后御歌一首      鯨魚取 淡海乃海乎 奥放而 榜来船  邊附而 榜来船  奥津加伊 痛勿波祢曽   邊津加伊 痛莫波祢曽 若草乃 念鳥立

大后おほきさきの御歌みうた一首  鯨魚いさな取り 近江あふみの海を 沖放けて 漕ぎ来る舟 辺きて 漕ぎ来る舟 沖つ櫂かい いたくな撥ねそ 辺つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の つま 思ふ鳥立つ

鯨(くじら)をとる海ともいうべき淡海の海、その沖遠く漕ぎ来る船よ、岸近く漕ぎ来る船よ。沖船の櫂、ひどく波を立てるな。岸船の櫂、ひどく波を立てるな。若草のようだったがいとしんだ、あの鳥が飛び去ってしまうものを。       [講談社文庫本本万葉集(中西進著)より]

となっている。最後の三句「若草乃 嬬乃念 鳥立」の「嬬」をほとんどの注釈書が「夫」の意味とし、「(若草の)夫の君がいつくしんでいた鳥が飛び立つから」(日本古典文学全集本万葉集)とか、「(若草の)夫の愛している鳥が飛び立ってしまうから」(万葉集全注)、「わが夫つまの思いの籠もる鳥、夫の御霊の鳥が驚いて飛び立ってしまうから」(新潮日本古典集成本万葉集)と解している。

 ただ、万葉集全講(武田祐吉著)だけが「妻である私の思っている鳥がおどろいて立つから」と解している。ただ、全講は「嬬」を「夫」とする説も紹介し、強く“嬬は妻で倭大后である”と主張されているようには見えない。

 しかし、「若草乃」という用字が常識的に考えて「夫」を表し得るだろうか。万葉歌人達がいくら多彩な用字をしたからと言っても、よほど特殊な意図がある場合を除いて「若草乃嬬」という用字で「夫」を表すことはなかったと見るべきであろう。

 仁賢天皇六年のところに「弱草吾夫=弱草わかくさの吾が夫つまとあり、その割り注に「弱草と言ふは、古いにしへに弱草を以て夫婦に喩たとふるを謂ふ。故、弱草わかくさを以て夫つまとす」とあり、「古くは弱草という言葉で夫婦を喩えたので“弱草わかくさの夫つま”」と言ったのだという説明がある。つまり、日本書紀編纂時にはそのようには(ワカクサを夫に対する枕詞のように)ほとんど使わないので書紀編者は割り注をつけたとも考えられる。ただ、巻の九の1742番の歌に「(赤裳裾引き~ただ独り い渡らす児は) 若草乃わかくさのつま香有良武かあるらむ~」とあり、「若草乃夫」という用字、表現はあると認めることができる。 「若草乃という用字、表現は認めるが、「若草乃という用字で「若草乃夫」という意味を表すことは決してない、というのが私の立場である。

 万葉集には多数の種類の用字法があり、まだ、一般には普及せず(理解されず)常識にはなっていない用字法がいくつかあり、“義訓”のような難しい用字もあるが、わざと正反対の意味を持つ漢字を使う用字法は他にない。

 =天智天皇の妻=倭大后=この153番の歌の作者、と確定し、歌の意味を考えていきたい。

「若草乃 嬬乃 念鳥立」の意味は、

(沖を行く船も岸辺を行く船も櫂でひどく水を撥ねないでおくれ) 若草の妻の私が愛している(夫の魂の乗り移った) 鳥が飛び立ってしまう!

ということである。当時は“死者の魂は鳥に乗り移って運ばれる”という思想が広く普及していたようである。記紀とも“日本武尊やまとたけるのみこと”が白鳥となり飛び立ったことを記している。

 飛行機に乗って簡単に空を飛ぶことができるようになった現代人の私たちは“空を飛ぶ”ということに対する畏怖の念を失っているが、日本だけではなく世界の多くの地域で人が死ぬと魂が鳥となって昇天するという思想がある。古代エジプトでは死者の魂は、鳥や、人間の頭部をもつ鳥「バー」の姿で描かれ、死後、鳥となって昇天するという考えがあった。アイルランドの民話にも同様な話がある。

 つまり、日本においても鳥が死者の魂を乗せて飛び立つのであり、天智天皇の皇后・倭大后は、「夫の御霊が宿る鳥」は夫そのものであるから、いつまでも留まっていて欲しいのである。つまり、「若草乃 嬬乃 念鳥立」は「(若草の)妻の私が愛する夫の(魂が乗り移った)鳥が飛び立ってしまう(から)」であり、このように解してこの哀切の挽歌の意味、私たちの胸に迫る挽歌の意味が分かるのである(*注3)

 付言すれば、他にも「嬬」を「夫」と解する歌があるが、素直に「嬬=妻」と解釈できないか再検討すべきものがあるように思う。

 160番と153番の歌に対する私の“正解だとする”確信度は95%を超えている。前回のブログ「令は今の誤りではないのか」では「今」に対する確信度は50%をやや超えた程度であるが、今回の確信度は九割を超えている。万葉集の難訓歌などにおいて研究者は自分の訓みの確信度を率直に示すことは少ないが、160番の歌に関しては澤瀉氏の「をくも」の前の語に対する訓みの不安表明を受けて正解にこぎつけることができたのではないか、と考えている。

 万葉集巻二は141番から最後の254番の歌まですべて挽歌が並べられているが、この中には難訓歌もあり、正しく解釈されていない歌もいくつかあると私は考えており、そのいくつかは自著『万葉難訓歌の解読』で示している。興味のある方はお読みいただければと思う。また、ブログ「令和と万葉集」(2019年4月)のなかで簡単に取り上げている。

 

 

(*注1) 澤瀉氏も言及しているが、日本書紀の神代上に「奉招禱」とあり「招禱たてまつら」と訓んでおり、古事記伝ではこれを「遠岐をきとは招き寄せむとする事」とあり、「をく(招く)」は単に「招き寄せる」ということではなく、意志を示す助動詞「む」が加わった意味と解した方がよい。もう少し分かりやすい言葉を使えば「招き寄せたい」という願望、欲求の加わった意味を有する。単に「招き寄せる」というような平坦な意味ではないと考えるべきだ。ただし、日本語の“終止形”は単に“無色透明”のその言葉が示す意味を持つのではなく、たとえば、「招待する」なら、

  彼を明後日わが社に招待する。 I will invite him to our company the day after tomorrow.  I intend to invite him ~.  I want to invite him ~.

と社長が言えば、この「招待する」は、社長の強い決意や意欲を表していることになる(英文が示すのような意味に近い表現になるだろう)。したがって、「をく」を「招き寄せる」と訳すのは間違いとまでは言えないのだけれども不正確な面を有し、読む人に誤解を与えることになる。

(*注2) この「智」を誤字ではないと私は考えている。つまり、「智」のままで構成要素の「知」と「日」に分解して訓む。これは前回のブログ「卑弥呼と大日孁」の(*注2)で示しているように、

娶:め(女)+とる(取)[取女]

袷:あはせ(合)+の+ころも(衣) [つるはみの袷衣~(万葉、巻十二・2965)]

艤:ふな(舟)+よそひ(義) [義舟(義=儀よそふ)][(万葉、巻十・2089)]

のような漢字と同様である。「炎」の語源は“ほ(火)のほ(穂)”とされているが、そうではなく「炎」の中の二つの「火」をそのまま訓んだのではないかと私は考えている。つまり、「火の火」である。「合あわせの衣ころも」と同じように構成要素の漢字で訓んだ言葉になる。

 藤堂明保氏の『漢字語源辞典』によると「智」は語源的には「知」と同じで、「ズバリと当てる」という基本義を持つ{TEG}・{TENG}という単語家族に属する語である。この単語家族には「聖」も含まれている。

 「ひじり」という和語は、万葉の昔から主として「聖」という漢字に対応する訓として用いられているのであるが、聖={TENG}=智であるとすると、和語「ひじり」は「智」を構成要素に分解して「知日(ヒシル→ヒジリ)」から造られた「翻訳語」であったが、語源的にも意味的にも関連のある「聖」に対して主として使われるようになった可能性がある。

 漢字に対する訓は、時代が下るにつれて簡略になっていく傾向があり、逆にいうと、時代をさかのぼるほど複雑であることが多い。現在、英語の liberty の意味を英和辞典で見ると、「自由、解放、勝手、特権」などの訳語が載っているだけであるが、幕末から明治にかけての辞書類には「自由」のほかに「自主、自専、自得、自若、自主宰、任意、慣用、従容」などの訳語もあり、現在よりも複雑である。私自身は逆に古い時代ほど訳語は単純で時代が下がるほど複雑になるのではないかと漠然と考えていたのであるが、多数の語において、実際は古くなるほど訳語が多くて複雑なのである。この理由は最初のうち訳語がいろいろと試みられ、安定せず、その結果、多くの訳語が生じるのであろう。これと同様に、漢字の読み(訳語)の場合も、万葉時代よりも推古期、それ以前とさかのぼるほど、多くの場合、複雑であったと思われる。

(*注3) 倭大后の父親は、舒明天皇と蘇我馬子の娘・蘇我法提郎女ほほてのいらつめの間に生まれた第一子・古人大兄ふるひとのおほえ皇子である。古人大兄皇子は皇位継承の最有力候補であったが、大化の改新で権力の座を失った蘇我氏が没落する中で、身の危険を悟り、僧侶となり吉野に隠棲したが、権力の座にあった中大兄皇子(後の天智天皇)に謀反の疑いをかけられて死に追いやられた。ふつうに考えると、倭大后にとって、天智天皇は父の仇であるはずだが、153番の挽歌にはそのような雰囲気は微塵もないように思われる。彼女が天智天皇に捧げた愛情のみが私に伝わってくる。 (2022年6月18日記)

 


「令」は「今」の誤りではないのか

2022-06-09 11:30:34 | 古典の解読

  わたしは自分のブログ『「令和」と万葉集』(2019年4月)の中で、万葉集から採られたことが明らかにされている元号「令和」について、その意味などに言及しています。その時に、「この文字は間違っているのではないか」という一つ大きな疑問が湧き起こったのですが、確信が得られないためブログの中で言及することは避けました。

 なぜそのようにしたのかということですが、確信がなかったことと、「令和」という元号にケチをつけることになるのを恐れたからです。私は「令和」という用字は令と和の立派な結びつきで素晴らしい意味を持っていると考えています。

 が、私の抱いた疑問をそのまま放置しておくことは、いくつかの万葉集の難訓歌を解読してきたという自負のある私には耐えがたいことのように思われ、ここに疑問の形で提出することにしたいと思います。

 

「令和」の「令」は「今」の誤字ではないのか

永井津記夫(ツイッター:https://twitter.com/eternalitywell)

 

  現在の年号の「令和」(* 注1)は万葉集の歌の題詞から採られたことが明らかにされている。万葉集巻五 815番からはじまる32首の歌の題詞の漢文の中に「令」が出てくる。原文は次のようになっている。

梅花歌卅二首并序

天平二年正月十三日 萃于帥老之宅 申宴會也

  于時初春月 氣淑風梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香  加以 曙嶺移雲 松掛羅而傾盖 夕岫結霧鳥封穀而迷林 庭舞新蝶 空歸故鴈   於是盖天坐地促膝飛觴 忘言一室之裏 開衿煙霞之外 淡然自放 快然自足  若非翰苑何以攄情 詩紀落梅之篇古今夫何異矣 宜賦園梅聊成短詠

武都紀多知 波流能吉多婆 可久斯許曾 烏梅乎々岐都々 多努之岐乎倍米 (815番) (正月むつきたち 春のきたらば かくしこそ 梅を招きつつ 楽しき終へめ) 

 この文章の前半をこなれた現代語に訳にしてみたい(* 注2)

梅の花の歌32首 あわせて序  天平2年(730年)正月13日、帥老(大宰府の長官の大伴旅人)の家に集まって 宴会を開いた。   時は、初春令月、気は良く風は穏やかである。梅は鏡の前で使う白粉のように白く咲き、蘭はにおい袋のような香りをただよわせている。(後の訳は省略し、32首の最初の歌、815番の歌とその現代語訳を次に示す)

正月むつきたち 春のきたらば かくしこそ 梅を招きつつ 楽しき終へめ (815番) (正月となり、春がきたなら、このように梅を招き寄せつつ楽しくやろう)

  「令和」という言葉が万葉集からとられたという報道を受けて、万葉集の著作(『万葉難訓歌の解読』(泉書院刊 1992年))もある私は万葉集815番の歌とその題詞を原文で読み、手元にある数冊の万葉集の本(日本古典文学大系本万葉集など)の解説を精読した。その第一印象は「あれ、この“令月”はおかしくないか?」ということだった。  

 「仲春令月」という言葉がある。旧暦では1月(初春)、2月(仲春)、3月(晩春)が春にあたる。そして、「令月」は仲春の2月を指す言葉として使うのが普通である(と私は考えている)。『文選』の張平子の帰田賦に「於是仲春令月、時和気清」とあり、“仲春”とは2月のことであり、“令月”のことである。つまり、仲春=2月=令月ということになる。

 『文選』は朝廷での文書報告等をしなければならない当時の高級官僚にとっては必須の“辞書(用例辞典)”である。大友旅人や山上憶良などの“高級官僚歌人”にとっては日常的に使う“文章辞典”と考えられ、「仲春令月」の用例などは知っていたのではないか、と私には思われるのである。「仲春令月」を知っていたが敢えて「令月=良い月」の意味で使ったと考えられないことはないが、それなら別の表現でもよかったはずである。「よい」や「うるわしい」や「うつくしい」を意味する漢字から適切なものを選べばよいのに、と私は考えてしまう。たとえば、万葉集には使われていない漢字であるが、「劭」や「琇」を“うるわしい”や“うつくしい”の意味で使えばよい。(※「劭月」や「琇月」という言葉が漢語として用いられたことがなければ使うことは避ける可能性がかなりあるが・・・)

 万葉集の815番の歌のところでは「令月」は文字通り「良い月」の意味で使われており、“2月”を意味してはいない、と諸家は見ている。が、その考え方と「令」という用字に対する取扱いは果たして正しいのだろうか。

 初春と同じ意味で「孟春」という言葉があるが、現代の私たちは「初春」という言葉をよく正月に用いる。“初春=正月=(旧暦の)1月”である。諸家は「令月」の「令」が単に「良い:good、excellent」の意味で用いられており「令月」という二文字の結合で「2月:February」を意味していないとする。が、もし、“令月=(旧暦)2月”と言う意味で用いることが通常であるとすると、「初春令月」は、「初春(1月)は令月(2月)だ」ということになり、奇妙な並びになる。このため、諸家はこの場合「仲春令月」という連接の「令月」は「2月」を意味せず、文字通りの意味(=良い月)とする。

 当時の歌人たちは政府の高級官吏であり、文章には非常に敏感な(うるさい)人たちであったと考えてよい。彼らは文章(漢文)を書く仕事が多かった、というよりそれが彼らの主要な仕事であった者も多かったはずである。彼らの手元には詩文集の『文選』や字書の『玉篇』や百科事典に相当する『芸文類聚』などがあったと思われる。これらの辞書類を参照しながら万葉歌人たちは漢文を書き、万葉仮名で和歌を書いたのだ(『玉篇』の原本の完全なものは中国にはなく日本にしか残っていなかった)

 したがって、「仲春が令月で2月」であり、「1月は正月で初春、または孟春」であることはここの題詞(序)を書いた人物は十分理解していたはずである。当時文章に敏感でうるさいと見られる歌人たちが「初春(=1月)令月(=2月);1月は2月」という意味になりかねない言葉の連接を選ぶだろうか? これが私が「令月」に対して最初にいだいた疑問である。

 では「令」ではないとしたら何が正しいか? すぐ思いつくのは“令”ではなく“今”である。令と今は非常によく似ている。楷書体でも酷似しているのだから、少しくずした書体になれば見分けはつかない。令と今の誤字を示している万葉関係の本は、『万葉集 本文篇(塙書房刊)や日本古典文学本『万葉集(2)』などでは、3070番の歌の「今不有十方」の“今”が『万葉集童蒙抄』では「令」となっていることを指摘している。『万葉集総索引 漢字篇』(平凡社刊)では“今”が5箇所ほど“令”の誤字として扱われている。つまり、今と令は非常によく似ていてお互いに間違われる可能性が高いということである。

 では、815番の題詞(序)の漢文中の「令月」が「今月」の間違いとしたらどうなるのか。意味が通るのか。

天平2年(730年)正月13日、帥老(大宰府の長官の大伴旅人)の家に集まって 宴会を開いた。

 時は、初春の今月、気は良く風は穏やかである。梅は鏡の前で使う白粉のように白く咲き、蘭はにおい袋のような香りをただよわせている。 (後略)

 今月の後に日付(13日)を入れたほうが安定した表現になるような気もするが、「今月」だけでもおかしくないだろう。

 さて、ここで「初春今月」のような言葉の連接が可能なことを、現代の日本語の表現から類推してみたい。   

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昭和58年3月5日午後、自宅に私の友人三人を招き食事会を催した。この三名は私の友人であるとともに吉田の友人でもある。

 早春の今月(の5日)、私と三名の友人はインドへと旅立つ吉田を空港で見送った。まだ少し肌寒いが、明るい陽光のさすなか、彼の乗る飛行機は雲間へと消えていった。あと、何年かはもう吉田にあって親しく話をすることができないのだ、と思うとなぜか涙が浮かんできた。

 吉田を見送ったあと、残った4人は我が家に直行し、妻の手料理を楽しみながら、皆で短歌を作ることにした。

  ① 早春の陽光をうけ 君はゆく ジェット機の音 雲間に残し  (友を見送るという架空の設定をし、拙い歌を詠んだのも、梅花の作歌の状況を理解してもらうため。御寛容にお願いします)

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 上の状況設定は私が仮につくたもの(フィクション)である。この中で「早春の今月」という言い方、つまり、早春と今月の結び付きは異様なものではなく、可能な表現である。「晩秋の今月」という言い方もできる。ということは「初春の今月」という言い方は可能であるということになる。上の「早春」はもちろん現代の私たちが使う早春で3月のことである(早春は昔は初春と同じ意味で陰暦1月を意味した)が、時を万葉の時代に移したとき、この「初春今月」という言い方が可能であるか、もう少し検討してみたい。   

 「今月」という用字は万葉集では題詞の漢文に2回ほど出てくる。4073番の題詞に、

  今月十四日を以て深見村に到来し、~状を奉ること不備。

    三月十五日 大伴宿禰池主

また、4132番の歌の題詞に、

  駅使を迎ふる事に依りて、今月十五日に部下加賀郡に到来~~何をか思はむ。短筆不宣。

    勝宝元年十二月十五日

というように万葉集の中で使われている。「今月」は題詞の漢文中で使われているので「コンゲツ」と音読みしても「このつき」と訓読みしてもよい。4073番の歌では、大伴池主が3月15日にこの文章を書き、前日の出来事に対して「今月14日を以て」と書き記し、3月の代わりに今月としている。4132番の歌では勝宝元年12月15日にその日の出来事を記述し、その日を「今月15日」と表現している。これらの「今月」は現代の私たちが使う「今月」と同じである。

 歴史書である日本書紀や古事記では「今月」は用いられていないが、「是月このつき」は頻繁に出てくる。たとえば、日本書紀の仁徳天皇の十三年のところに、

 冬十月、造和珥池。是月、築横野堤。(冬十月に和珥池わにのいけを造る。是の月つきに横野堤を築く。※「是月」は訓読みでは「このつき」となる)

とあり、「是月」はその前に出てきた「十月」をさしている。これは、歴史書の編纂は事件の起こったずっと後に編纂するので同時的に(同じ月の中で)使う「今月」は使えないということである。英語で言えば、“是月=that month”で“今月=this month”ということになる(英語ではthatをつかうべき場合でも日本語では「この」や「これ」を使う方が適切な場合がある。「是月」を「この月」とするのもこの用法である)。

  さて、万葉集815番の歌の「初春令月」を(私以外の)全ての研究者は、「令」は正しい文字であるとし、「時初春令月」を、 

時に、初春しょしゅんの令月れいげつにして  (日本古典文学全集本万葉集の訳)

時に初春の令き月にして  (万葉集全講より)

時に、初春の令月にして  (日本古典文学大系本万葉集の訳)

時に、初春しょしゅんの令月れいげつにして  (新潮日本古典集成本万葉集の訳)

というように読んでいる(訳している)。私が見た諸本では「令月=良き月」として疑うことはない。

 万葉歌人たちの多くは先にも少し述べたように漢字・漢文の熟達者たちである。山上億良は遣唐使となり唐に留学しており、中国語の通訳もできたという(「□◆□◆英検1級」の資格があってもビジネス英語が書けない者がいるという。外国語の習得で最も難しいのはきちんとした文章を書くことである。山上億良らの万葉歌人の多くは今で言えば、“漢文検定の超1級”の保持者であろう)。当時、漢文を書くということは国の役人としての彼らの仕事である。今で言えば、文部官僚も財務官僚もみな報告書や通達書を英語で書いていたのと同じである。彼らの手元には前述した『玉篇』や『芸文類聚』などの字書類が(仕事上ぜひとも必要で)あったはずである。当時は遣唐使が派遣され、民間の貿易船も往来していたと考えられる。朝鮮半島との交流もある。文物がかなり自由に取り引きされていた時代と考えればよい。当時はかなりインターナショナル(国際的)な時代だった。

 この傾向は、筑紫歌壇の歌人たちが活躍した時代(730年を中心とした前後数年間)をもっとさかのぼる時代から続く傾向である。大化の改新(645年)に成功した中大兄皇子(のちの天智天皇)の新政権は、中国流の律令国家の建設を目指す中、朝鮮半島とも緊密に接触しており、白村江の戦い(663年)の大敗北と百済、高句麗の滅亡の中で両国から多数の亡命者を受入れた。この時代に百済と高句麗からの亡命文化人の助言、協力によってはじめて学校制度がつくられた(このような時代背景の中で“歌聖”と称される“用字の達人”柿本人麻呂が登場した)。665年に遣唐使が再開され、唐との交流も正常化されていく方向にすすんだ。この国際的(インターナショナル)な時代が続く中で旅人、億良の筑紫歌壇が形成された。

 梅花の序と32首の和歌を見ると、万葉歌人たちは仕事で漢文を用い、余暇には和歌をつくり息抜きをしていたように私には思われる。

  さて、当時は漢文の時代であり(現在は英語の時代であろう)、多数の万葉歌人たちが漢文、漢字を駆使して作歌していた時代である。彼らが「仲春令月」を知らないようには思えないし、その言葉の連接を無視して「新春令月」と言うだろうか、という疑問がこの小文を書いた理由である。

 日本人の漢字・漢文・漢籍に対する能力は飛鳥・奈良時代をピークに平安時代に遣唐使が廃止されて以降、下がりはじめたと考えられる。そして、明治時代になり英語などの欧米語も入るようになり、さらに、日本人の漢文力は低下し、戦後、漢文の読める優秀な人が亡くなっていく中で現在の状況があるように思う。 

 

(* 注1) 「令和」の意味は、2019年4月に書いたブログ『「令和」と万葉集と漢文』の中で、

令和  令(よい good, excellent;うるわしい beautiful)  和(平和、調和、協調 peace,  harmony)

令和=excellent peace(優れた平和); beautiful harmony(美しい調和)  

② 令和  令=make(~させる); 和=get on well(仲良くする)

令和=令v和=和せしむ=make~get on well (with each other)=~を仲良くさせる

 *(May) God and Buddha make all the nations get on well with each other!

令和 令(よい good, excellent;うるわしい beautiful)  和(=倭=大和=日本 Japan)

令和=beautiful Japan(美しい日本) ※この③はブログのコメント欄に追加記入したもの

 ※「令」という文字は万葉集中では「令節(良い時節)」というように「令=よい(良、佳、好)」の意味で使われており、「令」が「今」の誤りとしても、「令和」という文字は万葉集から採ったということになる。

(* 注2) 本文中では煩瑣になるため避けたが、この注で原文の用字をできるだけそのまま使って題詞を現代語に訳してみたい。

 梅花の歌32首 併せて序   天平二年正月十三日、帥老(大宰府の長官の大伴旅人)の邸宅に萃あつまって 宴會を申ひらいた。  時は、初春令月、気は淑く風は和やわらぎ、梅は鏡の前の白粉のように(白く)披き 蘭は珮後の香りを薫らせている。  加以さらにあけぼのの嶺に移なびく雲、 松は羅うすぎぬ(のベール)を掛けて盖きぬがさを傾けている(ように見える)。 夕ゆうべの岫ほらに霧を結ぶ。  鳥は穀ベールに封じこめられて林に迷う。 庭には舞う新蝶しんちょう。 空には歸える故鴈こがん。  是ここで天を盖きぬがさにし、地を坐席として、 膝を促ちかづけ觴さかずきを飛ばす。一室の裏うちに言ことばを忘れ 衿えりを煙霞の外に開いて淡然として自らを開放する。 快然として自ら足る。  若し翰苑(=文章)(* 3)で非ければ何を以て心情こころを攄(=述)べられようか。漢詩には落梅の篇を紀しるす。古と今と夫れ何どこが異なるのか。 宜よろしく園梅の賦(=詩)をつくり聊いささか短歌を詠もう。 (※できるだけ原文の漢字(用字)を残して現代語訳をしよとしたが、今では使わない難解な漢字も多く、その漢字を残すこととわかりやすい現代語訳は相反関係にあり、残念ながら、こなれた訳になっていない。)

(* 注3) 「翰苑」を「文章」としたが、当時、おそらく唐から輸入されていたと考えられる百科事典の『翰苑』と掛けているのではないだろうか。大宰府天満宮に平安時代の貴重な写本『翰苑 巻第三十』が保管されている。『翰苑』の写本は中国には皆無で、日本にのみ“巻第30”が奇跡的に残った(残りの29巻は日本でも散逸した。散逸した理由の一つは翰苑が当時よく使用される辞書で残しておくほど貴重なものと考えられなかったためかもしれない)。これは1954年に国宝指定された。当時からすでに日本にもたらされていたと思われる『翰苑』も万葉歌人たちは参照したのではなかろうか。 (2022年6月9日記)

 


宮本武蔵の「観の目」と「見の目」*格闘技やスポーツなどへの応用*

2019-07-11 20:56:25 | 古典の解読

宮本武蔵の観の目と見の目

永井津記夫(ツイッター:https://twitter.com/eternalitywell)

 

  5月8日の大津市の直進車と右折車の衝突による園児2名死亡事故以来、私自身の運転時の“目付(周囲の状況の見方)”についていろいろ考えてきました。 

  前回のブログ「大津市の園児死亡事故」の中で運転技術と運転時の注意の仕方に言及したのですが、自分の運転に関して、前から気になっていたことが一つあります。それは対向車や左右の危険物を見るときの私の“目付めつけが他のドライバーと異なるのではないか、ということです。

  私は低速で車を運転しているときでも、対向車であってもドライバーの顔などは見ないのですが、他の人たちはわりにドライバーの顔を見ている人が多いことに気づいたからです。

  私は対向車を見る場合、その車の運転手を見ることはまずせず、車全体を見て、安全に通過できると見たら、その車から意識は次の車、または左右の危険物(自転車、子どもなど)に移しています。もちろん、対向車も完全に横を通過するまでは視界には入っています。

  車の運転で一点にとらわれたら、他のものは見えないか、見えにくい状態になります。私はそんな怖い(恐ろしい)運転はしないようにしています。運転中は基本的に前を見ており、右折、左折、バックするとき以外に頭を左右に動かして視線を移動することはしません(たとえ、横に友人や魅力的な女性が乗っていたとしても)。よくテレビや映画(外国製も含む)などでドライバーが助手席の同乗者に視線を向けながら長い場合には4、5秒話しかけているシーンがありますが、(演出上このようにしているのでしょうが、実際、こんな運転をしているとしたら)信じられないほど危険な運転です。横から子どもや自転車などが飛び出してきたら避けられません。

 

  さて、ブログの本論に入りましょう。

  宮本武蔵は人生の最後に『五輪書』を著し、命をかけての真剣勝負において六十数度の勝負に無敗であったことを述べ、その秘訣を明らかにしました。

原文)兵法の目付ということ 

目の付けやうは、大きに広く付る目也。観見かんけんの二つの事、かんの目つよく、けんの目よはく、遠き所を近く見、ちかき所を遠く見る事、兵法の専せん也。敵の太刀たちを知り、聊いささかも敵の太刀を見ずと云事、兵法の大事だいじ也。工夫あるべし。此この眼付めつけ、小さき兵法にも、大なる兵法にも同じ事也。目の玉動かずして、両脇を見ること肝要かんよう也。かやう事、急がしき時、俄にわかにわきまへがたし。此書付かきつけを覚え、常住じょうじゅう此眼付になりて、何事にも眼付のかはらざる所、能々吟味有べきもの也。

(『五輪書』宮本武蔵著 渡部一郎校注 岩波書店刊、より)

  それでは原文を再度示し、それに私の現代語訳(解説的な訳)を付けてみます。武蔵は対象物(敵)を“みる”場合に「観」と「見」という用字で対象物の“見方”の相違を示しています。意識的に物を見る場合に「視」と使って「視る」とする方がよいかも知れませんが、私たちがふだん使う「見る」という用字にしたいと思います。

原文)

 兵法の目付という事 

兵法における目の付け方 (どの部分に重点を置いて見るか、見張り方、見方)

 目の付けやうは、大きに広く付る目也。

目の付け方は大きく広く見る見方である

 観見かんけんの二つの事、かんの目つよく、けんの目よはく、遠き所を近く見、ちかき所を遠く見る事、兵法の専せん也。

観と見の二つは、観の見方は強く、見の見方は弱く、(観の見方で)遠き所を近くに見て、(見の見方で)近き所を遠くに見ることであり、兵法における専心事項である。

 敵の太刀たちを知り、聊いささかも敵の太刀を見ずと云事、兵法の大事だいじ也。工夫有るべし。

敵の太刀(筋)を知り、いささかも敵の太刀を見ずということ、兵法における大事なことなのだ。工夫(よく考えて習得)せよ。

 此この目付めつけ、ちいさき兵法にも、大きなる兵法にも、同じ事也。目の玉動かずして、両脇を見る事肝要かんよう也。

この目の付け方は、小さな兵法(一対一の戦い)にも、大きな兵法(一対多の戦い)にも同じ事である。目の玉を動かさずに、両脇を見る事が肝要なのだ。 

 かやう事、いそがしき時、俄にわかにわきまへがたし。此書付かきつけを覚え、常住じょうじゅう此目付になりて、何事にも目付のかはらざる所、能々吟味有べきもの也。

このような事は危急の時にはすぐには実行できない。この書いてある内容を記憶して、常にこの目の付け方(見方)をして、何事にも目の付け方が変わらない点を、よくよく吟味(検討・考究)せよ。

 

  私の口語訳をまとめてみましょう。

兵法における目の付け方   (どの部分に重点を置いて見るか、[物の]見張り方、[物の]見方)

 目の付け方は大きく広く見る見方である。 

 (その見方には二種類有る。) 観カンと見ケンの二つで、観の見方は強く、見の見方は弱く、(観の見方で)遠き所を近くに見て、(見の見方で)近き所を遠くに見ることであり、兵法における専心事項である。 

 敵の太刀(筋)を知り、いささかも敵の太刀(そのもの)を見ずということ、兵法における大事なことなのだ。工夫(よく考えて習得)せよ。 

 この目の付け方は、小さな兵法(一対一の戦い)にも、大きな兵法(一対多数)にも同じ事である。目の玉を動かさずに、両脇を見る事が肝要なのだ。

 このような事は危急の時にはすぐには実行できない。この書いてある内容を記憶して、常にこの目の付け方(見方)をして、何事にも目の付け方が変わらない点を、よくよく検討・考究せよ。

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  泊瀬光延氏の『宮本武蔵「五輪書」の技を解説する』[https://ncode.syosetu.com/n6168h/3/]には次のような説明があります。

(現代語訳)

 兵法には目付めつけということがある。それは、視野を大きく広く見ることである。

 目付には、観かんと見けんの二つの目付がある。観は心で見て見は眼まなこで見る事である。

 兵法では、心で察知するということを重要視して、実際に目で見ることはその次ぎにし、近いところも遠いところも同様に感じなくてはならない。

 敵の太刀の振られようを察知し、それをいちいち見なくとも良いようにすることが重要だ。工夫せよ。

 この目付の重要さは一対一でも多数同志(あるいは一対多数)の戦いでも同様だ。目玉を動かさないで両脇を見るようにせよ。これは戦況がせわしくなると出来なくなる。よってこの書き付けを覚えておいて、常にこの目付を取り、どんな状況でもそれを忘れてはならない。よくよく吟味せよ。

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  泊瀬氏は観は心で見て見は眼まなこで見る事である」とし、解説では「“観・見”の目付で敵の心の動きを察知し先を取る」としています。「心眼」という言葉がありますが、武蔵はそのような抽象的な高度な(超能力的な)心眼を用いる剣法を説いてはいないと思われます。私は武蔵の文章と自分の運転経験から「観と見」を次のように考えます。英語の「みる」に相当する“look(意識的に)見る”“see見える”“observe観察する”“watch見守る”などの意味を援用しながら考察したいと思います。

   *観の目…observe(観察する)、watch(見守る):「観察」というと「じっくり視て考える(判断する)」というような意味合いですが、武蔵の「観」は「見る」のとほぼ同時に「判断する」ことを意味すると思われます。本当の攻撃かフェイント(フェイク攻撃)なのかを瞬時に判断しないと勝負には勝てないでしょう。観の目は英訳すると“look and detect (見て検知する)”が適当かもしれません。つまり、「観の目」は攻撃してくる対象を“見て(瞬時に)検知する(そして対処する)目付(=見方)”と考えられます。

      *見の目…英語の“see”は「見える、見えている」という意味でよく使われ、漢語の「見」も類似した意味を持ちますが、武蔵の「見」は、「観」を際立たせるために“弱く(遠く)みている”見方(目付)で、単に「見えて」いる状態ではないと考えられます。いわば、“半観”の目付で、いつでも「見」から「観」に切りかえることが可能な見方です。全ての範囲(広範囲)を“観の目”で見ることは人間の目の構造、視神経との関連において無理があると思われます。観(強)と見(弱)を使い分けて、見る範囲に強弱のリズムを付けることが肝要だと武蔵は考えているようです。 

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   狭い道(5mほどの幅)で(ある程度スピードを出して)対向車とすれ違うとき、私は対向車が7、80mほどに近づいた時点で車を左側に寄せます。観の目で視ているのは左端の安全(横道、歩行者、子ども、自転車などの有無と道路の左端と私の車の左サイドの距離)と、対向車がどの程度センターライン(実際にはラインは引かれていません)を超えていて右端がどの程度空いているか、右端の歩行者、自転車、横道などの有無)の三点(三つのライン)です(ただし、後方もバックミラーで時々見ていますので、これも入れると四点です)。

  どのように見ているのかというと、頭を動かさず、進行方向に対し左40度、右40度、合わせて80度くらいの範囲を見ていますが、道路状況によっては70~60度くらいに狭くなっている場合もあると思います。“目の玉”をまったく動かさないということではなく、重要度に応じて、左、中、右、中というように少し“視点”は移動していると思います。重要度の高い部分(危険性の高い部分、通常、対向車のセンターライ沿いのサイド)に視点はありますが、他の部分も見ています(見えています。この他の部分を見る目が武蔵の説く「見の目」だと私は思います)。この時、対向車(敵)と安全にすれちがうことができると判断すれば視点の中心は次の敵、つまり、次の対向車や歩行者、自転車に視点の中心は移ります。道路の右端も見ていますが、左端を見る目よりは“少し弱い”と思います。

  52年間走行距離百数十万キロ、(二輪車での数回の転倒事故を除いて)四輪車では無事故であり、おそらく数百回の危ない(ヒャッとする)状況(≒真剣勝負)を克服してきた私の経験から言えることは次のことです。

  *三点(左、中、右の三つのライン)を見ている…の目で強く視ていると思いますが、三点を同時に強く見ることは(私には)不可能で(したがって、三点の見方にも強弱がある)すばやく三点を視点移動しています(次に検討します)

  *三点を除く他の部分…みているが三点ほど強くはなく、強弱に差があります。 

    観←―→見 *観と見は方位のように連続。※cf. 北・北北東・北東・東北東・東

 私が「観の目」で視ている三点は厳密に言うと瞬間的に三点間を移動していると思われますが、瞬きさえしない間の瞬間移動です。三台の監視カメラで問題の三個所(三つのライン)を同時に視ているようなものだと言えるでしょうか。人間の目は複眼ではありませんが、複眼を持つ昆虫が三点を同時に視ている状況に似ていると思います。

 武蔵が五輪書で説くように「目の玉を動かさず両脇を見る」という見方で車を運転することは可能ですが、私の通常の運転の時の見方とは少しちがいます。両脇をよく(強く)見るとどうなるか。真ん中の点(ライン)を少し“弱く”見ないと両脇(左右)のラインをよく(強く)見ることはできません。そうすると、両脇のラインを「観の目」で見ているとすると、センターのラインは「見の目」で見ていることになります。この私の「見の目」は両脇を見る目、つまり、「観の目」より弱いのですが、瞬間的に「観の目」にすることができます。

 上記の私の「観の目」と「見の目」の理解が正しいのならば、武蔵の説く「観・見」は完全に解明したことになりますが、どうでしょうか。

  私は自分の車の運転経験も勘案すると、「観の目」と「見の目」は完全に二つに峻別されるものではなく連続しており、剣術の達人は「見の目(弱い)」で見ているものを場合によっては瞬間的に「観の目(強い)」に切りかえて身に迫る危機に対応できる人だと思います。

  図示することによって説明します。武蔵は敵に対して「目の玉動かずして両脇を見る事肝要也」と述べていますので敵が一人の場合は下図の“B1~B5”と“D1~D5”が「両脇」になり、ここを「観の目」で強く(近く)見ます。さらに横の“A”と“E”のところ(エリア)は「見の目」で弱く(遠く)見ます。真ん中の“C1~C5”は、武蔵が特に強調していないので、BやDのエリアよりやや“弱く”、「見の目」で見るエリアに属するのではないかと思います。

 武蔵は「敵の太刀を知り、いささかも敵の太刀を見ずという事、兵法の大事なり」と説いていますが、これは真ん中のC1~C5のエリアのことに言及しているのだと思われます。この部分にある“剣先”や“敵の顔”などに意識が集中すると、両脇、つまり、BとDのエリアが見えにくい状態になります。剣の真剣勝負では最後には「剣先」が相手を打ち(当たり)勝負がつくのですが、武蔵はそれに囚われず“両脇”を見ることを強調しています。おそらく、敵の攻撃のシグナルは“両脇”から来ると武蔵は考えているのでしょう。私は剣道の試合など一度もした経験がないので、いい加減なことを言ってはいけないのですが、最初の攻撃のシグナルはBとDのエリアにある相手の左右の肩、肘、腰、足などから来るのでしょう。 以下の図は剣道の構えを示しています。

 

  「周辺視目視検査法」というものがあります。パソコンのハードディスクの磁気ヘッドの不良個所発見のために開発された検査法です。

(ア) 周辺視…広い視野(視野全体)を見る見方。見る範囲に重点を置けば「周辺視野」、見る能力に重点を置けば「周辺視力」と言ってよいと思います。

(イ) 瞬間視…ぱっと見て、異常を感知する。

(ウ) 衝動性眼球運動…視点が視野全体に素早く移動。

の三つを有効に働かせる検査法とされています。

 (ア)の「周辺視」に対して「中心視」があります。見ている先に焦点を合わせて見る見方です。この見方をすると周辺視野の異変に気づくのが遅れると思われます。また、(ウ)の眼球運動にについては、

  ① 潤滑性眼球運動:ゆっくり動いている目標物を追いかける眼球の動き

  ② 走査眼球運動:静止している目標をたどるように眼球が移動する動き

  ③ 衝動性眼球運動:視点がジャンプする眼球の動き

の三つの運動があります。これらの分類は武蔵の「観の目」「見の目」と重なる部分とそうではない部分があると思われますが参考にすべきでしょう。とくに、「瞬間視」は“観見の目付”と重なる部分があると思われますが、武蔵の“観見”は“瞬間”の状態を言っているのではありません。

  図で言うと、C1の大刀の剣先やC2にある相手の顔や小刀の先に視点を合わせると、その部分を中心視することになり、BとDのエリアをよく(強く)見ることはできなくなります。先にも述べたように、BとDのエリアは強く見る、つまり、「観の目」で見て、中央のCのエリアは弱く見る、つまり、「見の目」で見る、というのが宮本武蔵の説く「観見の目付」だと思われます。

 「遠き所を近く見、近き所を遠く見る」ことが肝要だと武蔵は述べていますが、敵が一人の場合は、比喩的に「遠い」「近い」という言葉を使っていると考えられます。図でいうと、BとDのエリアを観の目“近く強く”見てCの中心部見の目“遠く弱く”見るということになります。Cのエリアは重要な場所ですが、このCのエリアを観の目で強く見ると、“中心視する”ことになり、そこに意識が集中しすぎて、その他の部分(BやDから来る攻撃のシグナル)を見落とすことにつながります。

  前方80度くらいの範囲に対して、私が車の運転時に使っている目付(見方)は、上記の「周辺視目視検査法」に近いと思います。三点(三つのライン)を強く見ながら三点を瞬間移動し、その他の部分は弱く見ています(周辺視しています)。これは、武蔵が『五輪書』で説く「観見の目付」とは少し異なります。

  どこが異なるのかというと、“目の玉を動かさず”という点です。私は異常を感じないかぎり頭を動かさず顔をまっすぐ前方に向けていますが、目の玉は左(左ライン)、右(右ライン)、中(センターライン)を瞬間的に移動していると思います(移動距離はごくわずかでしょう)。が、武蔵は目の玉を動かすな、と言っています。

  目の玉を動かさず、武蔵の言うように「観見の目付」で車の運転することは慣れないと難しいですが可能です。5月8日に起こった大津の園児死亡事故以来、私は運転中に(センターラインのない狭い道で)時々、本来の私の目付ではなく、武蔵流の目の玉を動かさず、前方を見ます。左端(左ライン)と右端(右ライン)を見るには中心ライン(センターライン)を少し弱く見る必要があります。中心ラインを弱く見るようにすると、左右のラインは私の本来の車の目付とほぼ遜色がないほど見えます。ただ、センターラインは弱く見るようにしないと左右を強く観の目で見れないため多少の不安はありますがセンターラインもかなり見えています。常に、武蔵の「観見の目付」で車の運転をするのは、よく練習(修練)を積めば可能だと思います。

  実際の私の運転から、“武蔵の説く「観見の目付」”がいかなるものか、私の運転中の目付とはどうちがうのかを理解できたのです私は40年ほど前に『五輪書入門』(奈良本辰也著 徳間書店刊)に読んでおり、また、いくつかの経験から私の運転中の目付は武蔵の「観見の目付」ではないかと思っていたのですが、今回、大津の保育園児死亡事故をきっかけに、「周辺視目視検査法」の知見なども参考にして慎重に考察、実践(運転)の結果、私の目付は少し「観見の目付」とは異なることが分かりました。このことは、武蔵が『五輪書』で説く「観見の目付」の意味を理解できたということを意味していると言ってよいと思います。

  ◆ 一点(一つの部分)を集中的に見る、つまり、“中心視”すると、そこに判断(考え)が入り込み、他の部分は見えにくい状態になります。「中心視」は私たちが対象を見るときにもっとも使う見方(目付)で瞬間的判断をともなう動作を行なうときにも用いますが、“ゆっくり、じっくり”考えるときにも用いる見方です。反射神経が重要な要素を占める武術(格闘技)やスポーツではうまく用いないと、周辺視野からの情報が得にくくなり、邪魔者になることがあります。それで、武蔵は中心視の欠点を排除する「見の目」を説いているのです。

  ◆ 「中心視」に重点を置く、つまり、「近く強く見る」と他の部分が見えにくい状態になるので、兵法(剣法)においては中心視する(ことになりがちな)部分を「弱く遠く」見る、つまり、「見の目」で見ることが重要になります。(中心視の視野角は2度しかなく他の部分は周辺視するのですが、中心視に意識が行き過ぎると周辺視野からの異常が見えにくくなり危険です。武蔵の「観の目」と「中心視」は“近く強く”見る点で同等のものですが、武蔵は『五輪書』で、中心視を「見の目」にし、“遠く弱く”することによって、両脇を「観の目」で“近く強く”見るように説いているのです。中心視はふつうの「観」より強い観で、いわば“スーパー観”、“観”と言えます。この“観”を真剣勝負でへたに使うと瞬間的に反応できず命取りになりかねません)

  ◆ 人間は本能的に中心視をする動物です。サルの時代、平原に降り立ったとき、ライオンなどの危険動物がいないか全体を見まわして(視野全体の視点の瞬間移動)、危険な影を発見すれば逃げなければなりません。この場合、「見まわし→発見→中心視→危険と判断→逃げる」というプロセスで時間的にある程度余裕があり、中心視を使えば良いのですが、武術の真剣勝負では時間がかかり過ぎて敵の攻撃をかわすことができない場合が出てきます。それゆえ、武蔵は“中心視”しがちなセンターラインを「見の目」で“遠く弱く”見て、“両脇”から来る“相手の攻撃シグナル”を「観の目」で“近く強く”見るように説いているのでしょう。

  ◆ 「中心視」は「近く強く(長く)」見る目で特別な「観の目」、つまり、“観だと言ってもよいでしょうが、武蔵はこれを「見の目」にすることを強調していると思います。ただし、この「見の目」は瞬間的に「観の目」に切り換えることができなければなりません。両脇を観の目で見て敵の攻撃のシグナルを捉え、(多くの場合)見の目で見ているセンターラインから繰り出させる敵の太刀の切っ先をかわし、反撃する、または、切っ先が来る前に先に攻撃することになります。

 

  さて、自動車の運転から「観見の目」を考察しましたが、野球をもとにさらに考察を深めたいと思います。私は野球に関しては小学生のときにキャッチボールをしたり、三角ベースの野球を少しした程度ですが、プロ野球はよく見てきました。私は大阪生まれですが、プロ野球の試合を見るようになった中学1年生のときは王選手が巨人に入団したときで、ON(王・長島)時代が始まろうとしていた時代でした。テレビでもラジオでも巨人の試合しか放送していない時代でしたので自然と巨人ファンになっていました。

   (敬称は略します)は甲子園の優勝投手でしたが、デビューの昭和34年、野手(一塁手)として出場し続けました。しかし、打率は2割をきり、「王、王、三振王」と常にヤジられる選手でした。が、数年後に荒川博コーチの指導のもと、一本足打法となり、連続してホームラン王をとり、三冠王も二回とり、王の通算本塁打数868本の記録は世界記録になっています。

  王は選球眼が非常によかった選手でした。その王の神業とも思える選球眼に対し、ある野球解説者が、「王選手は投手が投げた瞬間にボールかストライクの見分けができるんでしょうね。(球筋を見極めていたらあのようにバットが止まりません)とても普通の打者にはできないことです」と言ったことがありました。

 投手が投げた瞬間にボールかストライクか分かるためには、その投手が出す何らかのシグナルを感じとることができなければならないはずです。おそらく、そのシグナルは投手の両脇(上図のB,Dのエリア)、つまり、上げる足、グラブの位置などから来るのでしょう。この場合Cのセンターラインも含まれている場合もあるでしょう(頭の位置など)。王は観見の目で相手投手の投球動作を見て、そのシグナル(おそらく、動作の崩れ)からボール・ストライクの基本的な見分けができたのではないかと思います。

 代打でしぶとく好打を放った打者がいます。ソフトバンクと巨人で活躍した大道典良選手です。彼は代打の秘訣を聞かれて、相手投手の投球時のクセを見抜くのを重視したと述べています。グラブの位置や口元の形の変化から投げる球種がわかったと述べています。これに対してクセに気をとられると肝心のボールを打つのがおろそかになる選手もおり、クセと球筋を同時に見れるのなら見た方がよいが、そうでないなら球筋に集中した方がよいと“代打の神様”と呼ばれた元阪神タイガースの八木が述べていました。

 クセと球筋の二つを同時に見るには武蔵の言う「両脇を強く見る目」が必要です。つまり、「観の目」でクセと球筋を同時に強く(近く)見ます。他の部分は“弱く遠く”見ます。つまり、「見の目」で見ます。他の部分とはこの場合、クセの出る部分と球筋の間の部分で、二つの部分の間に存在し近接している可能性が高いですが、二つを強く見るにはもう一つは弱めることが必要です。武蔵の見方のリズムは“強-弱-強”です。私が運転中に通常おこなっている三点の見方は、“強-強-強”のリズムで三点観を視点が瞬間移動しています。が、狭い道で対向車が来ない場合は“観の目”で両脇を見て、中央ラインは“見の目”で見ています(見ることができるようになったと思います)。

  ホームランキャッチで神業を見せた大リーガー選手に外野手のトリー・ハンターがいます。日本のイチローと共にオールスターゲームに出ていた選手ですが、ホームランになる打球をフェンス際でジャンプしフェンスの上に手を伸ばして何度もホームランボールをキャッチしました。彼はテレビの取材を受けて、ホームランボールを追って背走しながら、「周辺視野でフェンスを見る」と述べていました。ホームランボールを背走しながら見て、同時に“周辺視(力)”でフェンスを見ていたことになります。この場合、武蔵の説く「観見の目で見る」ことと同じだと思います。ハンターは超能力的な心眼でフェンスを察知したのではなく観の目でボールを追い、周辺視(ハンター自身が使った言葉)でフェンスとの距離を確認していたと思われます。ただ、この周辺視力は「見の目」というより「観の目」かもしれません。武蔵の説く「両脇を強く見る“観の目”」の見方を使い、ボールとフェンスを強く見て、フェンスに激突せずに素早く近寄りフェンスの上までグラブを付けた腕を伸ばしホームランボールをもぎ取ったのだと思います。

  投手で「観見の目」で打者の動きを読んだと思われる大投手がいます。1シーズン42勝の日本最多勝利記録を持つ西鉄ライオンズの稲尾投手です。これは、彼がテレビの番組の中で直接語っていたのですが、「次にスライダーを投げようとふりかぶったとき、(右)バッターが前に体をせり出したなら(外角スライダーが読まれているので)瞬間的に内角シュートに切り換えて投げた」ということです。彼はスライダーとシュートのどちらでも投げられるボールの握り方をしていました。つまり、稲尾投手は投げ込む捕手のミットと打者の体の位置の二つを「観の目」で“強く近く”見ていたのでしょう。バッターの狙い球が分かり自分の投げる球種が即座に切り換えられたら、年間42勝できたのも頷けます。稲尾のような投球法の投手は現在いないと思われます。それは、捕手の捕球位置をみれば分かります。第二の稲尾投手を育てようとするコーチはいないようです。

  稲尾投手のように投球の直前に投げるコースを変えられると、受ける捕手は大変です。が、あらかじめそのような変化があることを頭に入れておけば大丈夫なのでしょう。が、一つ捕手の捕球位置について(余分なことですが)意見を述べておきます。

 現在、プロ野球などを見ていると、捕手は外角球を受ける場合は外角寄りに捕球位置を移して構え、内角球では内角寄りに構えます。長島茂雄選手は現役のときに、「外角に来るかどうか、横目でちらっと捕手の位置を見る」という趣旨のことを言っていたのを記憶しています。現在、巨人の小林捕手など大きく捕球位置を変えますが、バッターによっては投手の球筋と捕手の捕球位置の両方を見ることができる選手がいる可能性がありますし、バッターから見えなくてもベンチから、観客席から、塁上のランナーからは丸見えなので、何らかのシグナルで伝えないとも限りません。捕手は捕球位置をほとんど変えずに内外角の球を捕球したほうがよいと(素人の)私は思います。ナックルを投げる投手の場合、捕手はどこに球が来るのか分からないので真ん中にミットを置いて構えています。これと同じようにできないのか、と素人の私は考えてしまいます。キャッチャーミットを真ん中に構え、内外角、高目、低目の球を捕球するように捕手を指導し、その中でどんな球でも捕球できるように指導する指導者はいないのでしょうか。

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  武蔵は晩年ににも親しんだようです。禅(仏教)では座禅という瞑想法があり、“数息”などの瞑想を行ないますし、真言密教には阿字法があり、この瞑想法は他の瞑想法と同様に“心の集中”が必要です。武蔵の説く「観の目」の“観”は禅や真言の説く“観法”の“観”とは異なると考えてよいでしょう。仏教の瞑想法で言う「観」は主として一点に“集中”し、心にイメージを描くことが多いので、武蔵の説く“観”とは異なると思われます。武蔵は“観”と“見”という二つの漢字の持つ字義を利用して説明しているとみてよいと思われます。

 

※※宮本武蔵の説く「観・見の目」を大津の保育園児死亡事故を契機に慎重に考察しました。いちおう解明できたのではないかと考えていますが、不十分な点や思い違いもあるかも知れません。自信の程度は70%くらいです。私が拙著『万葉難訓歌の解読』の中でいくつかの難訓歌や訓み損なっている歌について新説を出していますが、その場合、自信の程度が99%という歌が5、6首ありますが、「観・見の目」についてはそれほどの自信は持っていません。

 武蔵は『五輪書』の「他流に目付という事」という項目のところで、

  兵法の目付はおおかたその人の心に付きたる眼なり(兵法の目付はだいたい相手の心を見る[読みとる]見方である)

と述べています。これは、いわゆる「(超能力的)心眼」のことを言っているのではなく、敵との対戦や稽古の積み重ねによって、相手の微妙な動き(クセ)から次の攻撃を予想することでしょう。これはバッターが相手投手のグラブの位置の微妙な変化から「次はカーブを投げてくる」と予想するのと同じことだと思います。何度、相手投手のクセを教えてもらっても分からない選手がいると言います。つまり、クセが見えないのです。クセが見えない選手からは見える選手は“超能力的心眼”を持っているように思われるでしょう。

 大きな思い違いがあるかもしれません。もし、ご意見、ご異論があれば聞かせていただければと思います。 (2019年7月11日記)

 

 

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補足:

 武蔵は『五輪書』の中でもう一箇所「観見の目付」について述べています。それをここに示し、補足しておきたいと思います。

原文)他流に、目付という事 

  目付といひて、其流により、敵の太刀に目を付くるもあり、亦は手に目を付くる流もあり。或いは顔に目を付け、或いは足などに目を付くるもあり。其ごとく、とりわけて目をつけむとしては、まぎるる心ありて、兵法のやまひといふ物になるなり。

 其子細は、鞠をける人は、まりによく目を付けねども、びんすりをけ、おいまりをしながしても、まわりてもける事、物になるるとゆふ所あれば、たしかに目に見るに及ばず。又ほうかなどをするもののわざにも、その道になれては、戸びらを鼻にたて、刀をいく腰もたまなどにとる事、是皆慥に目付くるとはなけれども、不断手になれぬれば、おのづから見ゆる所也。

 兵法の道におゐても、其敵、其敵としなれ、人の心の軽重を覚え、道をおこなひ得ては、太刀の遠近・遅速迄も、みな見ゆる儀也。

  兵法の目付は、大形其人の心に付きたる眼也。大分の兵法に至りても、其敵の人数の位に付きたる眼也。観見二つの見やう、観の眼つよくして敵の心を見、其場の位を見、大きに目を付けて、其戦のけいきを見、其おりふしの強弱を見て、まさしく勝つ事を得る事専也。

 大小兵法において、ちいさく目を付くる事なし。前にも記すごとく、濃かにちいさく目を付くるによって、大きなる事をとりわすれ、まよふ心出できて、慥なる勝をぬかすもの也。此利、能々吟味して鍛練あるべき也。

 

【私の口語訳】

  目付といって、流派によって、敵の太刀に、または手に目を付ける流派もある。あるいは顔、あるいは足などに目を付ける流派もある。そのように、とりわけて目を付けようとすれば、心が紛れて、“兵法病(あの流派のが良い、いやこの流派のが良いのではと決めかねる病)”というものになる。

 詳しくいうと、鞠を蹴る人は鞠によく目を付けなくとも(集中して見なくても)“びんすり(蹴り)”をするし、“追い鞠”をして流しても蹴り、回転しても蹴る事(ができる)、(このように)物に慣れた状態になればしっかりと目で見る必要はない [※この“蹴鞠の技”は不明の点が多いが、サッカーの曲芸的な技を見れば類推できる。例えば、サッカー選手が相手選手に進路をブロックされた時、両足にボールを挟んで自分の体の後方から球をけり上げて相手の頭を超えて敵陣の方に蹴り出し相手の横を素早くすり抜けて、放り上げたボールをトラップしてゴールを目指す場面があるが、訓練によって蹴り上げたボールがどこに落ちるのか(ボールをどこに落とすのか)はよく分かっており目でボールを追うというようなことはしない]

 また、曲芸などする者の技にも、その道に熟達すれば扉を鼻の上に立て、刀を何本もお手玉のように投げる事、これらはみなしっかりと目で追って見ていることはないけれども常に(訓練して)慣れているのでおのずと見える状態なのだ(※お手玉の達人がいる。かれらは上に放り投げた複数の玉を見ているが、落ちてきた球を捕まえるところは見ていない。それは訓練によって上に上がった玉を見ていれば落ちてくる場所やタイミングは経験で察知できるのだ)

  兵法の道においても、この敵、あの敵とやり慣れ、人の心の軽重(必殺技を出そうとしているのか、フェイント攻撃をしようとしているのか等)を知り、兵法を実践できれば太刀の遠近・遅速までもみな見えることになる。

  兵法の目付は、大方(ほぼ)人の心(の動きが放つ微妙なシグナル)(注*)に付ける目である。集団戦の兵法ということになっても、敵の軍勢の状況(持っている武器を含めて構成員の人数やその配置)に付ける目である。

 観・見、二つの見方、観の目を強くして敵の心(の動きから出る微妙なシグナル)を見、その場の状況を見、大きく目付をして(敵が一人なら上図のBのエリアとDのエリア、多人数なら、その左右の側を見る)、戦いの状況を見、その時どきの(敵の攻撃の)強弱を察知し、まちがいなく勝ちを得る事がいちばん肝心なのだ。

 集団戦でも、一対一の戦いでも、ちいさく目を付ける(小さな範囲を見る≒小さな範囲を中心視する)事はしないのだ。前述したように、細かく小さく目を付ける(小範囲を中心視する)ことによって大きな事(小範囲の外側から来る敵が出すシグナル)を忘れてしまい、迷いの心が出てきて確実な勝利をのがすのだ。この利(大きく目付をし、小さく目付をしないことによる利益、メリット、利点)(注**)を、よくよく吟味して鍛練するべきだ。

 

(注*)相手が怒っている、笑っている、悲しんでいるなどの喜怒哀楽に関しては私たちは子供のころから両親、兄弟、友人の反応等から学習していてよく分かる。喜怒哀楽等は大きく顔にでる場合もあるが、ほとんど出ない場合もある。が、相手が表情に出さなくても敏感に感じ取れる人も稀ではない。これと同様に剣の道においても相手が切り込んでくるか、こちらの攻撃を待っているのか、フェイント攻撃をしようとしているのか等を見分ける目、つまり、武蔵の言う「心に付けたる眼」を持つ必要がある。「心に付けたる眼」はいわゆる“超能力”的な能力を指しているのではない。一対一の戦いなら、上図のBやDのエリアから出る微妙な敵側の(攻撃の)シグナルを捉える目のことである。

(注**)原文には“此”とあり、この「利」を「理」の代りに使っているとも考えられる。大倉隆二氏訳・校定の『五輪書 現代語訳』ではこの「利」を「理」と見ている(当て字と見ているのか不注意による誤りと見ているのかは不明)。「利→理」と見れば“原理”、“道理”などと口語訳でき、この方が意味がよく通じるようにも思えるが、この漢字をそのままの意味で用いているとすれば、「此利=この利点(メリット)=大きく目を付ける事による利点=小さく目を付けない事による利点」というように考えられる。武蔵は『五輪書』の中で「利」という文字を「利点、長所、メリット」の意味で何度も用いている。 

 武蔵の用字はかなり微妙で繊細である。漢字等も使い分けているように思われる。「こと(事)」、「ところ(所)」、「もの(物)」、「こころ(心)」、「ぎ(儀)」などを微妙なニュアンスとともに使いわけている。

 「風之巻」の冒頭の文章の中に「~我一流の道理、格別の義也。~能よくよく吟味して、二刀一流の、わきまゆべきもの也」と武蔵が記述しており、彼は似た文脈で、「道理」と「利」を使いわけているので、「此利」の「利」も文字通りに理解しておきたい。が、武蔵は「利」と「理」をかけて使う、つまり、「利」に「理」の意味を含ませて使っているのかもしれない。和歌には掛詞があり、万葉集では用字の漢字に二重の意味を持たせることも希ではない。

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以上です。

 武蔵は自著の「地の巻」の冒頭の文章の中で、

  29歳までは(がむしゃらに)命をかけた勝負をしてきて一度も勝負に負けたことがなかったこと(すべてに勝利したこと)

  生れつき兵法の才能があってその理(利)を駆使して勝ってきたのか、他流の相手の兵法に不足するところがあって勝ってきたのか、疑問に思うようになったこと

を述べ、その後も、深い道理を得ようと朝夕鍛錬を続け50歳のころに兵法の道を究め、得道したことを記述しています。

  『五輪書』に武蔵が書いている「観見の目」はおそらく彼が30歳までの真剣勝負で用いた目付、で生まれつきか、あるいは、勝負に打って出る13歳までに獲得した目付だと思います。そしてこれはいわゆる超能力的な目ではなく実際に目で見て把握できる能力のことだと断言してよいでしょう。ただ、人間の視力でも0.1~2.0までかなり人によりかなり差がありますし、アフリカのマサイ族の中には視力12.0という人もいると言われています。観見の目で敵から出る微妙な攻撃のシグナルを見ても、人それどれに補足できる人とできない人が出てくるのは当然です。

 私は人間の持つ能力の中でいわゆる“超能力”というものを否定しません。というより、積極的に肯定します。例えば、色の識別なども多数の色を識別できる人とそうでない人がいます。動物にまで広げればミツバチは私たちが紫外線として識別できない光線を“色”として補足できるとされています。犬の聴力は人間の数倍もあり(嗅覚は数百万倍もある)人間には聞こえない高周波音も聞こえます。これらを考えると人間も動物並みとはいかなくとも普通人にはない視力や聴力を持っている人がいると考えても不思議ではありません。

  武蔵は、「観見の目」においてほぼだれもが実践で使える(使うべき)目付について述べていると私は考えます。そこに秘密はないと思います。しかし、30歳を過ぎ、鍛錬も重ねて(兵法以外の色々の職業、芸事など考察、実践の結果として)武蔵が50歳になり、得道した状態の兵法、その要の剣法はいま私たちが言う“超能力”的なものを含んでいた可能性があると私は現在考えています。 (2021年5月8日追記)