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英語の話 ④ ― 日本語文法と英文の和訳

2018-06-07 01:12:40 | 英語のはなし

日本語の文章型と英語の五文型の関係

日本語の文型と英語の文型

永井津記夫

  日本語は英語と非常に構造の異なる言語だと考えられている。事実、日本語の文は通常、用言で終わり、英語の文は通常、述語動詞の後に補語や目的語が来る。これを捉えて、文化人類学などでは、

  日本語=SOV言語  S=Subject 主語  V=Verb 述語動詞  O=Object 目的語

     (C=Complement 補語; S、V、O、C---文の要素; M=Modifier 修飾語)

  英 語=SVO言語     

と呼んでいる。

  現在、高校で教えている英文法では、無数に存在する英語の文を、文の要素であるSとVとOとCを用いて、五つの文型に分類する。これを(基本)五文型と呼ぶ。次のようになっている。

   ①    S V  ・・・・・・・・・・・第1文型

   ②    S V C  ・・・・・・・・・第2文型

   ③    S V O  ・・・・・・・・・第3文型

   ④    S V O O  ・・・・・・第4文型

   ⑤    S V O C  ・・・・・・第5文型

  これを見れば明らかなように英語の文には常に (主語) と (動詞) があることになる。もちろん、英語にも、「Fire! (火事だ)」というような一語だけでできている文(一語文)もあって、必ずしもS V が常に文に存在するとは言えないのだが、一語文は例外とするのである。

  これに対して日本語は、文尾には通常V (用言)があるけれどもSは欠くことも多く、その点において不完全な言語であると言う研究者が少なからず存在したが、文法学者の三上章氏は日本語は英語のようにS(主語)とV(述語)が結び付いて文を作るのではなく、「主題」「解説」が結びついて文を作る(主題のない解説だけの文もある)と説いたのである。主題と解説は次のように言うこともできる。

  主題=題目、問題、

  解説=解答、説明、論述、説述、

 この言葉を見て気づくことは、「主題」について「解説」したり「論述」したりして、何らかの結論を導くのが「文章」、とりわけ、「論述文」の本質であるので、日本語においては、文章の型(構造)が文の型(構造)と一致すると言ってもよいことになる。

  私は、論述的文章(論文)をその構造から二つの型に分ける。それは、

    ① 問題・解答型

    ② 問題・討論・解決型   

の二つである。これについては、説明していくと、制限のある紙幅の中におさまらないおそれが強いが、例を出して簡単に説明しよう。例えば、次の幾何の証明問題の文章は「問題・解答」型の文章になる。

 

 

 【問題】

 三角形の二辺の中点を結ぶ線分は第三辺に平行で、その長さは第三辺の半分であることを証明せよ。


 【証明】  

   

  △ABCの辺ABと辺ACの中点をそれぞれM、Nとすると、

   AM:AB=AN:AC=1:2 ・・・①

   ∠MAN=∠BAC ・・・②

 ①と②より、2辺の比とその挟まれている角が等しいので、△AMNと

△ABCは相似である。

 よって、MN:BC=1:2、つまり、MN=1/2 BC

また、∠AMN=∠ABCとなり、同位角が等しいので、MNはBCと平行である。

 以上により、三角形の中点を結ぶ線分は第三辺に平行で、その長さは第三辺の半分であることが証明された。


  この文章は「問題」と「証明」の二つの部分から構成されており、「証明=解答」であるから「問題・解答」型の文章になる。

 ところで、この「証明」の中の最後の段落「以上により、三角形の中点を結ぶ線分は第三辺に平行で、その長さは第三辺の半分であることが証明された」という部分に注目し、この部分が比較的長くて、全体をまとめている文章のような場合は独立させて、

  解答(証明)=討論+解決

というように、「討論」と「解決」に分けるのである。そうすると、論述文は、

  問題・解答型

  問題・討論・解決型 (cf. 序論・本論・結論)

の二つに大別できることになる。

さて、重要なことは、日本語では「文章」の構造と「文」の構造が一致する場合が非常に多いということである。例えば、次の文は、

  象は 鼻が長い        (象は  鼻が  長い。)

  主題   解説          (問題 討論  解決)

  問題   解答      (※上は解説(解答)を「討論」と「解決」に分析した場合)

  題    説(述)  

というように分析できる。つまり、「象」問題について、その「解説」「解答」をしている文である。「象」についていろいろと「解説」すれば一つの文章ができあがるが、この文はそれを一文で実現したものといえる。

  英語では、文において主語(=主格)と述語動詞の結びつきが強力であるため、英文法家といえども「問題・解答」や「問題・討論・解決」という文の構造をとらえることはできていない。英語の主語は私の言う「問題(主題)」の場合もあるが、そうでない場合も多い。例えば、

 In Osaka we have a lot of rivers and bridges. (大阪には川と橋が多い)

            S    V              O

という文では、“we”と “have”の「主語・動詞」の関係を最重視し、次に動詞との関係で、“a lot of rivers and bridges”を「目的語」として重視しているが、“in Osaka”は修飾語句(場所を示す副詞句)として処理する。しかし、この文は「大阪」を問題にしていると考えられるし、主語のweは訳す必要のない軽い語であるので、

   In Osaka we have a lot of rivers and bridges.  (大阪には 川と橋が多い) …(ア)

    主題            解説         主題     解説

    問題            解答         問題     解答

    題             説(述)      題      説(述)

といように理解した方がよい。英語の主語(S)と動詞(V)は、文中の重点の置かれている語に対応しているのではなく、動詞とそれに主として動作主(agent)としてかかる語との関係を示している。

  日本語は語彙として「は」という提題の助詞をもっており、見た目にもはっきりと、

   文の構造(文型)=(問題、主題)・(解答、解説、説述)=文章の構造(文章型)

   (※私は題・説を用いているが三上氏のよく使う題・述を用いることもできる。)

となる言語であるのに対して、英語における「主語」は、文において「題 (問題)」となる場合とならない場合があり、英文法の説く「主語・述語」にとらわれているかぎり、英文の中に「題・説」の構造を見いだすことはむずかしい。もちろん、英文にも「題・説」の構造がある場合も多いが、日本語の提題の助詞「は」のような語彙的な(lexical)標識がない(*注1)ので日本語に較べて見分けにくいということである。

 とりわけ、英語において人称代名詞の場合は、「題」にはなっていないことがほとんどなので、強勢のない he や she や they などを「彼は」「彼女は」「彼らは」と訳すと原文のニュアンスからはずれてしまうと思われる。例えば、次の英文は、

   Where did you go yesterday? ---I went to Kobe. ・・・・・(イ)

   君は昨日どこへ行ったんだ?  ---私は神戸に行った。

というように you や I の人称代名詞を訳出するのではなく、

  昨日どこへ行ったんだ? ---神戸に行ったんだ。(行ったのは神戸さ)

というように和訳した方がより原文(イ)のニュアンスに近いと考えられる。英語の人称代名詞は強勢(アクセント)がかかる場合を除けば、日本語には訳出しない方が原文の持つニュアンスに近い場合が多い。(イ)は実際の会話では、

   Where did you go yesterday? ---(To) Kobe. ・・・・・(ウ)

   昨日どこへ行ったんだ?    ---神戸さ。

というようにI went (to)は省略する方が自然だろう。

  『英語はこんなにニッポン語』(筑摩書房刊 1991年)の18~19頁の中でロビン・ギル(Robin Gill)氏は、

  英語と日本語では、主格という名のつく代名詞は比較にならないほど異なった言語学的生態の中に存在する。誰もが〈Ⅰ〉で文章を始める国においては、わざわざ〈Ⅰ〉を省略するのがかえって目立つのはきまっている。日本人の「美徳をドブに捨てる」より、〈Ⅰ〉を使った方が自分に注目を呼ばない、ということをしっかり覚えておいた方がいい。換言すれば、〈Ⅰ〉は十中八九、It rains. の〈It〉と同様に、そこにいながらいない便宜上の存在にすぎない。自分を指しているなどの感じはない。

 にもかかわらず、いちいち〈Ⅰ〉を立てるのはやはりくどいのだ、と思うことはもっともだろうが、言語の生態学(専門家のいう統語論ないしシンタクス)の相違はこの問題を解決する。英語の主格は、「は」や「が」や「φ=一息あける」によって文脈の中で独特な言語的“小島”として目立つ日本語と違って、文脈の中に沈んでいる。英語では「私はですね、・・・・・・」のような主格成句は到底不可能であり、「私は」くらいの自己中心的な発言も〈Ⅰ〉ではなく、‘As for me’‘In my case’となる。それに「うれしい、あたし」というように一人称をもって文章の末尾に色気を添えるやり方もなければ、「ぼくちゃん」のごとく〈‘Master I’=昔、米国の南部の子供のファースト・ネームの前にMasterをつける習慣があった〉一人称を名前にまですることも考えられない。‘a beautiful Japanese cat’(美しい日本の猫)とは言えるが、‘Beautiful Japanese I’(美しい日本の私)とか「私のあなた」「あなたの私」では英語にならない。せいぜい、meを使って一つの慣用句‘little ole me’(わたくしメ)しかできない。

 「君ではなく、‘I’ll do it. オレがやるから!!’」といった特別なケースを除けば、強調アクセントは「Ⅰ」にではなく、動詞の方に与えられる。‘I’m going.’を「私は行きます」と直訳すれば、その「私は」の加重値は助動詞とスムーズに同化する〈I〉より何倍も高いのだ。どうしても直訳したいのなら(英語的感覚を知りたければ)、恐らくこうなる---「キマス」。

と述べている。つまり、「アイ(I)…主語」と「行きます(will go)…述語動詞」は融合して、

  I’ll go.

となり、これは「たしはイキマス」ではなく、イキマス」くらいに縮合した感じになる、つまり、「わたしは=I=イ」でイキマス」というようになると述べているのである。

 英語では人称代名詞の “I” 等がよく使われるが、それは自己主張をする言語であるからではなく、そうせざるを得ない言語なのであって人称代名詞は非常に軽く動詞についているとロビン・ギル氏は述べているのである。人称代名詞が非常に軽くなり話者に代名詞としての意識がなくなると、それは「人称接辞」と呼ばれる。

 人称接辞とは、例えばアイヌ語では、

   Kuani Ainu ku-ne. (私はアイヌである)・・・・・(エ)

      I        Ainu      I-am.

と言うのであるが、文頭のKuaniは「私は」という意味の独立した単語である。ku-neの‘ne’は「である」という意味であるが、「私」について述べる場合は必ず「ku-」が付く。他の動詞、例えば「kor(持つ=have)」という動詞では「私」について述べる場合は必ず「ku-kor」というように「ku-」が付く。(エ)の文頭の Kuani は省略して

   Ainu ku-ne.

としても「私はアイヌである」という基本的な意味は変わらないが、「ku-」を省略して、

   Kuani Ainu ne.

というような形は正しい文ではなくなる、つまり非文となってしまう。このような「ku-」は「私(一人称)」を述べるときに必ず使われ、話者はそれを「私」を意味するとは意識できないような形態素であり、人称代名詞ではなく「人称接辞(personal affix)」と呼ばれるものである。

 アイヌ語の人称接辞の「ku-」を勘案すると、英語の “I” などの人称代名詞も非常に軽く必ず動詞に前接する形で用いられるのであるから、かなり「人称接辞」的な要素を持っていると考えた方が理解しやすい。私見であるが、英語の人称代名詞はある程度「人称接辞」になっているとも言える。完全に、人称接辞にならないのは英語がすでに筆記された言語であり、教育を通して文字による視覚からの影響のため、意識される人称代名詞から無意識的な人称接辞に転換することを妨げているからであろう(※欧米の文法学者で、I などの人称代名詞が人称接辞化 しているというような考えを出している人は私の知るかぎりいない。前述のロビン・ギル氏は言語学者ではないので[日本語に対する造詣も深く、俳号を持ち俳句や狂歌についての著書もある外国人の枠を超えた日本語の達人である]、“人称接辞”という用語を持ち出してはいないが、英語の I が半分くらい人称接辞化していることは感覚的に理解している。ギル氏が人称接辞が頻出する言語、アメリカ先住民族諸語やアイヌ語などの知識が少しでもあれば、“人称接辞”という用語を使っていたと思われる)。

 ここで私が強調したいことは、英語の I や you や he や she や it などは、強勢がかかり意識的に訳し出す「人称代名詞」として機能する場合もあるが、ほとんど訳出する必要のない、「人称接辞」と言ってもよいような代名詞として理解する方が良い場合も少なからずあるということである。

 とりわけ、“it”は、訳出しない方が良い場合が多い人称代名詞である。例えば、

   What is that? ---It’s a camera. (あれは何ですか?---カメラです。)

   What is that? ---That’s a camera. (あれは何ですか?---あれはカメラです。)

というように訳すべきである。‘It’s a camera.’を「それはカメラです」と「それは」を入れて訳すのは誤訳に近いと私は考えている。‘It’は概して「それは」とは訳さない方が良い場合が多いのである。It の特別用法として説明される次の文、

  It rains. (雨が降る)  It is cold. (寒いね)

における it も意味のない it と言われているが、三人称単数の動詞に-sが付くように、動詞に前接している人称接辞のようなものと考えることができる。つまり、

  It-rains.  It-is cold. (=It’s cold.)

というように動詞に融合していると見ることもできる。

 人称代名詞の“me”と“it”が同時に一つの動詞の目的語になる場合、

    ○ John gave it to me. …① (ジョンはそれを私にくれた)

   ○ John gave it me.   …②

        △? John gave me it. …③

というように、③の“me it”という語順はまず用いられない。これは、私がこの小論で説いているように、“it”がほぼ人称接辞化しているためではないだろうか。“it”は“me”よりもさらに人称接辞化しているので動詞に密着して用いられる、と考えられる。

 さて、次の英文はどのように分析し、和訳したらよいのだろうか。

  That boy runs fast. (あの少年は速く走る→あの少年は走るのが速い)・・・(オ)

     S  V M

 この英文は通常「あの少年は速く走る」と訳している。That boyは主語(S)、runs は動詞(V)として文の構成要素として重要視されるが、fastは修飾語に分類され、五文型で言う文の構成要素とは見なされない。しかし、この文で fast がないと、

   That boy runs.(あの少年は走る→「あの少年は走ることができる」の意味?)

という文になり、これはどういう状況を実際には示しているのか、ほとんど説明できない文になる。したがって、(オ)は fast という語があって成り立つ文で、fast は主語の that boy と同じくらい重要な要素であり、SVOC の中に入れてもらえない修飾語Mの地位しか与えられていないのは不当といってもよい。

 しかし、ここに、日本語の文章や文の文法をもってくれば、fastに相応の地位を与えることができる。

   That boy  runs fast.       That boy   runs  fast. 

    問題(主題)   解答(解説)     問題   討論  解決

   あの少年は 速く走る。      あの少年は 走るのが 速い。・・・・・(カ)

また、和訳も英語の語順と合わせて、「速い」を最後に持ってくる方が、原文のニュアンスをよく伝えているように思われる。

  修辞学 (rhetoric) では文中の語の並び方に注目する。文頭文尾は文中で強調され目立つ場所とする。この考え方を(オ)の英文に適用すると、‘That boy’と‘fast’が文中で強調される位置にあるから、それに合わせて日本語の訳も文頭と文尾に英語と同じ語を持って来れるなら、それにこしたことはない。(カ)は「問題」と「解決」を重視した訳である。

  日本語の文は「主語・述語」の構成になっているのではなく、「題(主題)・説(解説)」の構成になっていることを説いた文法家・三上章氏は、文を「有題文」と「無題文」に二分し、さらに、有題文を「顕題」「陰題」「略題」の三つにわけている。

   文:  有題文・・・顕題、陰題、略題

        無題文

   

   顕題: コウモリはけものだ。 (「~は」がある文)

   略題: コウモリはけものだ。鳥ではない。(後半の下線部の文は「コウモリは」という題が省略されている)

   陰題: 山田さんが到着したんです。 (=到着したのは山田さんです)

   無題: 風が吹いている。 

(※「無題文」については私自身は三上説にやや異論をいだいている。“今は”や“外は”のような“隠れた題=隠題”を考慮すべきかもしれない。「(今は) 風が吹いている。」、「(外は) 風が吹いている。」のように「隠題」を想定した方が理解しやすい。)

  上の簡単な例だけでは、有題文と無題文を理解するのはむずかしいかもしれないが、この考え方を英文に応用すると、和訳の仕方が英文本来の意味内容に沿ったものになると思われる。たとえば、次の対話文はどのように訳すべきか。

   What is Tom like?  --He runs fast.

 この文は普通、

   トムは どんな人ですか? ---彼は 速く走りますよ。

   問題   解答(解説)    問題  解答(解説)

と訳す。英語の‘he’などの人称代名詞は一度前に出てきたものを承けており、本当は省略したい軽い言葉であるが、英語では構文的に省略ができないので動詞に付いていると考えてよい。前述した人称接辞のようなものである。そうすると、日本文の略題と同様に考えて、

   トムは どんな人ですか? ---走るのが速いよ。

   問題     解答(解説)    解答(解説)

というように「彼は」という言葉は入れずに訳した方が原文の示す内容により近いと思われる。

 次の対話文はどう訳せばよいのか。英語の人称代名詞は特別に強勢がある場合を除けば日本語では省略されるものと考えてよいので、

   Do you often go out?  ---Yes.  Three days ago I went to Kyoto. 

            Yesterday I went to Kobe.  Tomorrow I will go to Nara.

 「よく出かけますか?」---「はい。三日前に行ったのは京都です。昨日行ったのは神戸です。明日行くのは奈良です。」

と訳せる。もう少し省略して、より会話文らしくすると、次のようになる。

   Do you often go out?  ---Yes.  Three days ago, (to) Kyoto. 

   Yesterday, (to) Kobe.  Tomorrow, (to) Nara.

   「よく出かけるかい?」---「ええ。三日前は京都。昨日は神戸。明日は奈良よ。」

 英文の方の構造は、

       Do you often go out?  ---Yes.  Three days ago I went  to Kyoto

       問題(主題) 解答(解説)     解答    問題(主題)     解答(解説) 

      Yesterday I went to Kobe.   Tomorrow I will go   to Nara.

      問題    解答        問題      解答 

    「Do you often .............go to Nara.」までで一つの「文章」となる。"Do you often go out?"は「問題部」て、“Yes.”から“to Nara.”までは「解答部」という形になる。「問題・解答」型の文章である。“Do you often go out?”の“Do you”を「問題」と下に書いたが、“you”に強勢がなければ文全体を「解答」と考えてよい(この辺は本格的な説明をすると長くなりすぎる)。文全体を「解答」とすると、三上文法の「無題文」となり、私の言う「隠題文」になる。私の上記の主張の流れからは“Do you”を「問題」とせずに、「often go out?」と一緒にして文全体を「解答(解説、説明)」とする方が適切であろう。この場合、最初の文は一文としては「解答」であるが、文章の構成部としては「問題部」となる。このような場合、「解答」が「問題部」になると言うと混乱する人がいるかもしれない。      

 ※{以後、問題の後の(主題)、解答の後の (解説)の追加表記は省略}

      Three days ago,  Kyoto.    YesterdayKobe.    TomorrowNara.

     問題    解答      問題  解答    問題  解答 

     題     説       題   説     題    説 

           三日前は   京都。   昨日は   神戸。    明日は  奈良よ。

というように分析することができ、英文の構造と日本文の構造の一致点がよく分かり、その訳も対応するように訳せるし、その訳の方が原文に即しているように思われる。

  日本語の文の構造、つまり、三上氏の説く「主題・解説」や、私の説く日本語の文章の構造、「問題・解答」型、「問題・討論・解決」型は、英語の文章と文の構成や分析によく適用できるし、さらに、英文の和訳にも役立つと思われる。

 

 

疑問文とその答の文はその二つで一つの「文章」となっていると考えるべきであろう。その場合「疑問文」は「問題部」、答は「解答部」となる(“部”は文章を構成する単位で段落より成る。段落は通常複数の文より構成されるが、一文の場合もある)。

 英語の文を五文型に分類して説明するように、私は文章を「文章型」で分類して、説明する。本当はもっと説明が必要であるが、簡単に表にして示したい。

(主題)

question

problem

subject

序論

introduction

議題

案件

agenda

issue

始め

beginning

入り

entry

質問question

疑問query

話題topic

課題theme

[題]

(展開)

discussion

development

expansion

本論

body

討論

検討

discussion

process

開き

expansion

answer

解説explanation

説明explanation

論述statement

 

 

[説]または[述]

または [説述]

、結論

resolution

conclusion

solution

結論

conclusion

決議

conclusion

decision

終わり

end

結び

close

 

 討論と解決を合わせて、「解答」「解説」「説明」等の用語を使うことができるだろう。もし、合わせた方が文章の内容に合っているなら、その文章は二部構成の文章、つまり、「問題・解答型」の文章ということができる。

 文章において、問題部、討論部、解決部はそれぞれ1つ以上の段落で構成されるのが原則。討論部と解決部を合わせたものを「大きな解決部」と呼びたい。場合によっては「大きな」を略して単に「解決部」と呼ぶこともあり得る。

 文法学者の三上章氏は、文において「~は」に対する用語の問題、話題、主題などを合わせて「題」とし、「~である、~する」に対する解答、解説、説明、論述、解決などを一括して「述」と呼んでいるが、私は「述」とほぼ同じ意味で「説」も使いたい。文や文章の構造に言及するとき、「題」と「説(述)」を使うのは簡素な用語で適当だと思われる。

***********************************************************

*問題部≧1段落; *討論部≧1段落; *解決部≧1段落 (※1段落≧1文≧1語)

*****************

*二部構成の文章は、問題・解答以外に次のような言葉で表すこともできるだろう。

問題・解答; 前半・後半; 問い・答え; 疑問・解答; 質問・解答; 話題・解説; 課題・解説

※ 題・説; 題・述

*「題・述」は「主語述語」つまり「主・述」に対応する表現として適当。また、「題・説」は「解説」や「説明」の「説」を重視した用語である。

 

※注1 英語の as for は日本語の提題の助詞「は」の働きをするが、日本語の「は」のようによく使う言葉ではない。

   As for winter sports, I like ice-skating.  ウインタースポーツと言えばアイススケートが好きです。

  →ウインタースポーツは、アイススケートが好きです。

 英文法で使う“主語”という言葉は英語のsubjectという語を訳したのであるが、このsubjectはラテン語に由来し、本来の意味は「支配下にある(もの)」という意味であり、「subject people(支配下にある国民=臣民)」、「a subject state(属国)」におけるsubjectがその意味をよく表している。が、文法用語として使われると“主語”“主題”と和訳するような意味になってしまう。subjectの本来の意味を取って直訳すると「支配下語」か「従属語」となるはずであるが、そのようにはなっていないし、英米人の文法家もそのような意味で subject を使ってはいないようで、日本人が“主語”と訳したのはその点で間違いではない(誤訳ではない)と考えられる。が、そのためか、英米の英文法家は主題と主語(=主格)を混同しているように私には思われる。つまり、彼らは三上章氏が指摘するまで“主題”と“主格”の区別があいまいで、彼らの用いる“subject”には“主題”になるものもあれば、そうではなく“主格”にすぎないものもある。 (2004年の拙論「日本語文法と英文の和訳」を追加修正、2018年6月6日記)

※※※コメント欄に「“文章”の定義」を付け加えました。(6月26日)

※※※※「三部構成の文章」は「題・論・定」という用語を主として使い、略称は「」としたいと思います。二部構成の文章は「題・」とし、略称は「」です。 (7月11日追記 9月21日追記) 


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“文章”の定義  (ブログ作成者)
2018-06-26 04:19:34
 
  ブログ作成者より
 “文章”とは三浦つとむ説を参考にすると、「“題”によって統一される文の集まり」である。夏目漱石の小説『吾輩は猫である』は、“吾輩は猫である”という題によって統一される文の集まりであるから「文章」になる。
 地方自治体の市役所が発行する「住民票申請書」なども枠に囲んだ「氏名」欄などがあり、そこに空白の枠があり、申請者の氏名などを記入するようになっているが、このような申請書も文章である。「住民票申請書」という題によって統一される文章と考えられる。「氏名」はそれ自体では一つの名詞にすぎないが、申請書の欄(枠)の中に入り、その横に氏名を書く空白欄(枠)があれば、特殊な“文”と考えることもできる。つまり、「氏名=あなたの氏名を横の空欄に書いてください。」というように考えるのである。私見であるが、文章は本や一枚、または、複数の紙(用紙)の中に、つまり、“枠”の中に収まっている場合が多い。
 一語文(火事!)があるように、一文文章もある。区切れのない俳句や短歌は一文文章である。芭蕉の有名な句「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる。」は一文文章である。
 付言すると、学校や役所の申込書、申請書などは“文章”であるから、書き手の上手下手で、よく理解できない申込書が出来上がる。申込書や申請書は文章を書くのが上手な親切心を持っている人が作成しなければならないと思う。
 最後に、このコメント欄は「“文章”の定義」という題によって統一される文章である。
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