政教分離…日本と米国
永井津記夫 (ツイッター:https://twitter.com/eternalitywell)
*** 2017年11月に「テロと宗教戦争と日本(なぜ日本にテロや宗教紛争がほぼないのか)」と「日本とテロ(なぜ日本にテロや宗教紛争がほぼないのか 2)」という二つのブログを私は書きました。この中で日本が世界で最初に(信長、秀吉、家康の時代に)政教分離を成し遂げた、ということを示したのです。日本人は、日本人が成し遂げた過去の偉業を、よく言えば“謙虚さ”、悪く言えば“卑下根性”、または“嫉妬心”のために、加えて“勇気の欠如”のために評価できないことがしばしばあります。このブログでは“政教分離”にテーマをしぼって私の考えを述べたいと思います。***
1994年、ビル・クリントンが米国大統領選に勝利し、翌年、その就任式が行なわれた。私は米国大統領の就任式をそれまでほとんど見たことがなかったのだが、この時はテレビで比較的長くその模様を伝えていたのでじっくりと見る機会を得た。クリントンは聖書に手を置き、“大統領の職務を忠実に遂行する”との宣誓をした。その時、私が感じたことは、「米国はいまだに王権神授説の国ではないか」ということであった。なぜなら、クリントン大統領は就任式の宣誓の場面で連邦最高裁長官の前で聖書に左手を置き、右手をあげて宣誓文を読んだからである。「聖書」=「神の象徴」と考えればクリントンは神の前で宣誓したことになる。
2017年1月、トランプ大統領は就任式の宣誓において、クリントンの時と同様に、最高裁長官の前で左手を聖書に置き、右手をあげて宣誓した。最後に、“So help me God.([そのように]神の御加護がありますように)(注1)”と“God(神)”という言葉が出てくる。つまり、直接的ではないにしても神から大統領職を委託されたという形式を踏んでいると言えないことはない。なぜなら、「神」や「聖書」などを使わずとも宣誓はできるはずだし、そのような形式に大統領就任式をととのえることはできるはずである。
よく知られてことであるが、フランスのナポレオン皇帝は戴冠式のときローマ教皇が臨席していたにもかかわらず自ら王冠を手に取り、自分がキリスト教会の僕ではないことを示した。“王権(皇帝権)”は自ら勝ち取ったものと考えていたのだろう。彼はキリスト教(聖書の内容)を深く信じていたと言われているから、神を否定しているのではなく、神の権威を笠に着たキリスト教会の権威を無視したのであろう。
英国において、現在のエリザベス女王は、戴冠式において英国国教会カンタベリー大司教が女王に王冠をつけた。これは王の権力(権威)が神に由来することを示している。つまり、英国は、私に言わせれば、“王権神授の国”であることを示している。
米国は本国の英国において迫害されていた清教徒たち(キリスト教のプロテスタント系の教派)が中心となって建国した国である(もちろん、先住民のアメリカンネイティブを駆逐、虐殺しながらの建国であるが今はそのことを置いておく)。
英語では政教分離は“separation of church and state”や“separation of government and religion”という表現をするが、動詞のseparate(分離する)はfromという前置詞をとるので、“separation of state from church” や“separation of government from religion”としてもよい(密接に関連する二語を近接して用いるとき、冠詞やその相当語句を省略することがよくある。cf. from morning till night; town and country)。
米国の政教分離は(建国の父祖たちの精神を考慮すると)基本的にいかなるキリスト教教会(=キリスト教宗派)からも分離しているということで、“separation of government from any church(政治のいかなる[キリスト教]宗派からも分離していること)”というように理解できる。が、これはキリスト教とは無関係ということではなく、特定のキリスト教の宗派に肩入れをしないと言う意味である。
米国では「忠誠の誓い(Pledge of Allegiance)」が移民の国の国民の間の団結を強めるために1892年から公立学校で唱和されるようになり、1954年から“under God”の語句が追加された。これは米国が太平洋戦争後、朝鮮戦争を経て共産国ソ連との“冷戦”が激化し、“神を排除する”共産主義国家ソ連への対抗上、“神の座います”国を強調するために“under God”をことさら付け加えたと思われる (注2)。
"I pledge allegiance to the Flag of the United States of America, and to the Republic for which it stands, one Nation under God, indivisible, with liberty and justice for all."
私は忠誠を誓う、アメリカ合衆国の国旗とその国旗が表す共和国に、神の下もとなる一つの国、不可分であり全ての人に自由と正義がある国に。
これを見ると米国は “God([キリスト教の] 神)” から分離していないことが分かる。米国は “separation of government from any church(政治がいかなる教会からの分離していること)”かもしれないが、神の下にある国なので“separation of government from any religion(政治がいかなる宗教からも分離していること)”とは言えない。(※ここが日本と大きく相違する点である。日本では完全な政教分離“separation of government from any religion”が信長、秀吉、家康の時代に、つまり、遠い過去の時代に達成されていたのである。(注3))
もちろん、「信教の自由」は憲法で認められているので、キリスト教ではない宗教を信じることも、無宗教であることも法律上は排除されることはないのであるが、白人キリスト教徒たちの集団が建国した歴史を勘案するとキリスト教が大きな影響を及ぼしている国家であることは否定できない。というより、強い(キリスト教に対する)宗教心を持った人たち、または、その強い宗教心を核にして(利用して)国をまとめようとする人たちが政治の中心にいる国と言えそうである。
が、ここ最近、米国の宗教観と政治に異変が起こっている。米国に多数の移民が押し寄せ、とくに、イスラム教徒とキリスト教との間で確執が起こっているのである。地方議会レベルでは、イスラム教徒の民主党議員がコーランに手を置いて就任宣誓しようとする直前、、それをキリスト教徒の共和党議員が阻止するかのような行動にでて問題になったことがある。
2019年3月、ペンシルバニア州下院議会において共和党議員Stephanie Borowicz(ステファニー・ボロヴィッチ)は、イスラム教徒の民主党議員のMovita Johnson-Harrell (モヴィタ・ジョンソンハレル)が就任演説をする直前に行なわれた議会を開く祈り(invocation)において、十数回イエスの名を唱え、神の赦しを請う“激しい”祈りをしてイスラム教徒の議員の就任宣誓を妨害したとして問題になった。
この事件は日本人の私から見て、大きな疑問がわき起こる。一つは、米国の議会が議会専属牧師(または、それに準ずる者)による祈りの後に開かれることである。これは神の助け(冥助)を受けて議決するという意識がある(最初にこの形を定めた者たちにはあった)ということを示しているが、米国憲法修正第1条は「国教の制定の禁止」や「宗教の自由の行使を妨げることの禁止」を謳っている。つまり、これは特定の宗教に肩入れせず、各種の宗教の活動(無神論者を含めて)の自由を妨害しないことを意味しているのであるが、議会が宗教的祈り(invocation)で始まることとの整合性が問題となってくる。事実、このような議会を開く直前の祈り(invocation)を廃止しようとする動きもあり、裁判に持ち込まれたが今のところ議会専属牧師も祈り(invocation)も合憲(違憲とは言えない)とされている 。
ただ、米国に多数のイスラム教徒が流入してイスラム系議員が議会において多くの席を占めるようになると、キリスト教系の議員の反発、排除の論理がもっと過激に作用してくる可能性がある。上記のペンシルバニア州でのキリスト教系議員とイスラム系議員の対立は一種の“宗教戦争”である。米国建国の父祖たちはプロテスタント系キリスト教徒であり、他の宗教はカソリック系のキリスト教を想定していたとしても今日のようなイスラム教やユダヤ教の流入は想定していなかったと思われる。宗教的儀式と議会の関係も今後もっと問題になってくるだろう。(※私は米国におけるキリスト教とイスラム教徒の争いが人種問題ともからんで米国を遠くない将来に分裂に導くのではないかと心配している。)
日本では、有り難いことに、戦国時代の英雄、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が17世紀の初頭までに世界で初めて完全な政経分離の政治制度の確立に成功していた。戦国時代の1530年代、法華宗徒による山科本願寺焼き討ち[1532年]、比叡山による法華宗(=日蓮宗)寺院二十一寺院本山の焼き討ち(天文法華の乱:1536年)など戦国大名を巻き込んだ激しい宗教戦争(殺し合い)が起こっていた。当時の宗教教団は “武装宗教集団”で下手な戦国大名よりも強力な軍事力を持っていた。これを武力で打ち破り“武装解除”したのが信長であり、その流れを継承したのが秀吉、家康である。
日本人は歴史研究者等の専門家も含めて、この戦国時代の三人の英雄の業績を正当に評価できず、闇の中にいると言っても過言ではない。秀吉は農民から武器の取り上げ(刀狩り)を行ない、家康もその方針を継承し、世界屈指の殺人等の凶悪犯罪のほとんどない安全な国家を生み出した。このことを現在の日本に住む私たちは正当に評価しなければならない。そして、この良さを失う方向に持っていくような政策は今の日本政府が行なうべきことではない。
米国や中東は深刻な宗教的対立をかかえており、宗教(を騙る)テロや個人テロ(銃乱射事件など)が横行している。ヨーロッパは旧植民地等からの移民問題に悩まされ、イスラム教をかたる過激派のテロに怯えている。
日本は欧米の轍を踏んではならない。国防意識、安全意識の欠如した下品な商売人集団(経済界)の要望にそって世界から安価な労働力を得ようとすることは世界から恨みを買うことになりかねない。愚かな欧米の二の舞を演じてはならない。 (2019年9月5日記)
(注1)Help me God.= May God help me.というように理解し、“help”は命令形ではなく、祈願文で用いられる「仮定法現在」の形と英文法では説明する。が、命令文は“未だ実現していないことに対してそうする(なる)ように言う”ことであり、この点で「~でありますように」という意味で使う「仮定法現在」と同一の内容(気持ち)である。「命令文(命令法)」も「祈願文」の一種と見ても間違いではない。現在の英語では両者とも動詞の原形を用いる。「Help me God. = Help me, God. (助けて、神様)」というように見ることもできないわけではない。“法(Mood)”についての考察の度合いによって、“命令法”と“仮定法現在”の間の共通性を見いだせるか、見いだせないかが分かれる。 “法(Mood)”について英米の文法家の大多数はその本質をつかんでいないように思われる。なぜなら、英語では法が“語彙的”に文の中に表現されないことが多いからである。語彙的に(lexically)に最も頻繁に現れる言語の一つが日本語であり(終助詞や終助動詞で法が表現される)、その本質をほぼ掴んでいたと思われる日本語文法学者が『像は鼻が長い』などを書いた“三上章”である。
トランプ大統領が就任式において宣誓した文章は次のようになっている。
I, Donald John Trump, do solemnly swear that I will faithfully execute the Office of President of the United States, and will to the best of my Ability, preserve, protect and defend the Constitution of the United States. So help me God.
わたくし、ドナルド・ジョン・トランプは厳粛に誓います。合衆国大統領の職務を忠実に遂行し、全力で合衆国憲法を維持し、守り、防御します。(全力で遂行しますので同じように=そのように) 神が御加護くださいますように。
“So help me God.”は法廷で証言する者が宣誓の最後に付け加える言葉でもあり、この場合は「神に誓って!」というように意訳されている。この文の“so”であるが、“Just as British people enjoy their beer, so the Japanese enjoy their sake. (イギリス人がビールをたしなむように、(それと同じように=そのように=so)日本人は酒をたしなむ)”というような文で接続詞“as”と呼応する形で使われる副詞である(“so~, as~”の形は“相関接続詞”と文法的には呼ばれている)。「~と同じように、(そのように~だ)」とうような意味で、直訳的には「そのように」という意味であるが、訳文の中では埋没して意味が出てこない場合も多い。“As they breathe, so they tell lies. (彼らは息をするのと同じように[そのように=息をするように]嘘をつく→彼らは息をするように嘘をつく)”という例文を出しておきたい。
(注2)“under God”や“In God We Trust.”などを公立学校で唱和(強制)することが違憲かどうか争われたことがあり、今も争われることがある。この問題は個人の内心に踏み込むことであり、現在、強制はできないが、公立学校が忠誠の誓いを唱和することは違憲とはされていない(この点に関しては後日私見を述べたい)。
(注3) 薩長連合勢力がつくった明治政府は、秀吉と家康が禁じていたキリスト教を解禁し(キリスト教が禁じられたのは相当の理由がある)、四民平等の社会を実現したという点で徳川幕府より近代的な社会であると言えるのであるが、仏教を禁止・弾圧こそしなかったが廃仏毀釈を容認し、神道を国教とし廃仏を押し通そうとする勢力に加担した点において、信長・秀吉・家康という戦国時代の覇者が築いた完全なる“政教分離”を逸脱する政府であり、軍部が国政の主導権をとってからの日本は国家が神道を擁護し、天皇を現人神として最高神に祭り上げる形となったのである。 そして、天皇の絶対権力を利用した軍部の“独走”によって、日中戦争から太平洋戦争(大東亜戦争)に突入し、三百万人を超える死者(軍人と民間人を合わせて)を出し、日本国内の主要都市は焦土と化し、破滅的な結果を生じた。 もし、明治以降の日本が神仏に祝福された国家であったならこのような悲惨な結果は生じなかったはずである。 現在、日本の“保守”と称する勢力は、明治以降の天皇に権威と権力が(形式的ではあるが)集中する形を回復しようとしているのか、それとも、千年の歴史を持つ権威と権力が分離した形を回復しようとしているのか。
欧米列強(英米独仏露)の過酷な植民地主義、帝国主義に対抗して戦前の日本は必死に奮闘してきたのであり、(私は戦後生まれであるが米国GHQのWGIP[戦争犯罪意識埋め込み計略]には嵌っておらず)日本の立場はよく理解しているが、やはり日中戦争から対米戦争にいたる過程で戦略上のミス、判断ミスがあり、明治以降の“絶対主義的天皇制”と左翼陣営が言う形に大きな欠陥があったと考えている。 日本の天皇制は9世紀の半ばに貴族の藤原氏が政治の実権を握って以降、武士が政治権力を掌握し江戸幕府が終わるまで、権威(天皇)と権力(貴族、武士)は完全に分離していたのである。宗教的には“神仏習合”がすすんだ。この形の推進に天皇家は大きな役割を果たした。
が、明治新政府をつくった勢力(薩長連合と一部貴族)は、千年間継続してきたかたち、政治的には「権威と権力の分離」、宗教的には「神仏習合」というかたちを壊したのだ。つまり、明治維新を断行した勢力は千年続いた日本の伝統を破壊したのだ。ここに、太平洋戦争に敗れる方向に戦前の政府が突き進んでいった原因(の一つ)があると私は考えている。
今、世界は混乱の中にある。米中貿易戦争はこれから大きな変動を世界に引き起こす(参照:「中国はいつ国家崩壊するか」)。日本は戦略上のミスをすることなくこの混乱の世界に可能な日本の貢献を考えるべきであろう。中国も米国も政治体制は一党独裁政権と民主主義政権と異なるが非常に似ている面がある。監視カメラ大国であり、貧富の差が極端に開いた社会でもある。新技術を窃取して生き延びてきた国である。米中両国が混乱に陥ったとき、日本はどのような覚悟で臨むのか決めておかなければならない。
※※上記の筆致から推測できるように、私は米国を“政教分離のできていない、日本では四百年以上も前に行なった刀狩りが終わっていない「野蛮国」”と見ている。つまり、米国は、私に言わせれば、キリスト教とイスラム教が共生できない、(銃禁止とまで言わないまでも)“銃規制”すらできない“野蛮国”である。
天皇家は戦後、私的行事として“神事”を行なう。そして、天皇は国事行為として内閣総理大臣と最高裁判所長官を任命し、国会を召集する。天皇を神の代理と見なせば日本も米国と同様“王権神授”の国と見ることができる。そのことは私も十分承知しているが、日本が米国(欧州や中東諸国も含めて)と大きく異なる点は、政権が宗教勢力から完全に独立した“”(日本型)世俗政権“”であることである。これは戦国時代の信長によって武力で武装宗教勢力を破壊・制圧することで八割方達成され、秀吉と家康がその遺産を継承し宗教勢力が政治に介入することのない形をつくりあげたのである。 この政治体制(政治形態)は江戸幕府が終わるまで続いたが、明治維新政府はこの政治体制にひびを入れ、神道勢力が廃仏毀釈などを通してそれまでの千年続いてきた“神仏習合”の形態を壊し、神道に“国教”の地位を与えることに肩入れしたのである。私は神道も仏教も良きものと考えているが、明治維新から太平洋戦争で敗れるまでの日本の政権(薩長連合政権)は、“神仏習合”という日本の伝統をないがしろにし、権威の象徴であった天皇に権力を集中する政治体制をつくり、その権力を利用する形をとり、太平洋戦争で国の主要都市が焦土と化し、300万人以上の国民が死亡する結果を生み出したという点で非難されるべき政権である(もちろん、焼夷弾と爆弾と原爆で女性、子供を含む一般市民を何十万人も虐殺した米国は戦争犯罪国家であり、私は強く非難している)。