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「こと」の《もの》化

 内なるやすらぎの空間を手に入れるために、空間の仕分けがおこなわれていきます。多くの動物たちはそれを無意識におこなっていますが、“意味”を“理解”した人間たちは、内と外を分ける明確な境界を“意味”を分けるものとして“理解”していきます。言語学者の瀬戸賢一さんの言葉を借りるなら「意味を分けることが分かりの初めであるなら、内の空間を外の空間から分けることは、世界に住むことの始まり」*01だったのです。
 
そしてさらに“理解”の操作のために言葉をつくり出した人間たちにとって、明確な輪郭をもたぬものに明確な輪郭を与えることは、一を他と区別するということであり、ある無定形なものに形を与え、それを他と区別される対象に仕立て上げることにつながっていきます。そしてさらに複雑な思考を展開するための第一歩*01となっていったのです。
 
瀬戸さんによれば、ある事態や感情や抽象概念があたかも物理的な《もの》であるかのように、右から左へとやりとりされたり、自ら移動したり、さらには変形させられたりすること。これは、ある精神的な思考対象が具体的な存在のメタファーによって《もの》化し、空間的存在物になったがために、はじめて可能になった思考法であり表現法である、というのです。言葉の構文論的構造と相まって、さまざまな思考対象が《もの》化していったのです。
 
一方「もの」の対極表現が「こと」です。この「こと」も《もの》化するのですが、そのプロセスを瀬戸さんは次のように説明しています。
 
「こと」を表す一般表現「出来事」とは、「出て来た事」で、私たちの視覚的認識の視野の外にあるものが、私たちの認識の及ばぬところから、または私たちの認識から隠されているところから、私たちの認識的視野のなかに「出て来る」ことを意味しています。「出来事」は、存在のメタファーの観点からすれば、「出来《もの》」として扱われるのです。それは「こと」が《もの》化することを意味しています。このように「こと」が《もの》化するからこそ、「二度あることは三度ある」のように、《もの》化した「こと」がひとつ、二つと数えられる対象となっていったのです。


*01:空間のレトリック/瀬戸賢一/海鳴社 1995.04.12

 

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