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理解する能力

 仲間に“理解”させるために心の中の具体的なイメージに〈かたち〉が与えられ、主に音声として発せられます。それが分化し、〈なまえ〉となり、具体的に見たり指したりできない抽象的なものも、具体的なイメージの〈かたち〉を使って、間接的に表現し、“理解”するようになってくると、その〈かたち〉は彼らの中に“言葉”として確立していきます。
 
このように言葉は、その成立過程から、彼らを取り巻く環境との相互作用の中から生まれてきた“意味”を、彼らの仲間との間で共有し、“理解”し合うためにできあがってきたものでした。その言葉の発達は、仲間との緊密な関係-すなわち社会的な関係-の発達と切り離すことができなかったのです。人間が言葉を著しく発達させてきたのには、他の生き物たちに比べて、この社会的関係の特異な発達があったから、といっていいでしょう。
 
人間はこの“理解”する能力-すなわち「見」たり、「体験」したりすることによって受け取る外部刺激、外部情報の中から、類似のイメージ(意味)をいち早く見つけ出し、心の中に再現(理解)する能力-がずば抜けていました。この“理解”することに対するずば抜けた能力が、人類が地球上で生き残るうえで非常に有効であったのです。たとえば彼らの狩りにとって、獲物となる動物たちの行動を“理解”し、その行動の先を読み、先回りし、罠を仕掛ける等々、理解する能力は彼らに生物学的な優位をもたらしたのです。
 
しかしそうした様々な外的要因を“理解”する能力は、類人猿やネアンデルタール人などの初期人類たちにも十分に発達していました。彼らと現生人類の“理解”とは何が違っていたのでしょうか。
 
スティーヴン・ミズンさん*01は、初期人類たちにはすでに道具の製作に向けられた技術的知能、集団の維持に向けられた社会的知能、そして食糧獲得に向けられた博物的知能という特化した三つの領域の知能があり、こうした多様な知能をもつという面で彼らは我々現生人類ととてもよく似ていた、といいます。彼らはその知能によって身の回りで起こっていることを観察し、多くの事柄を学ぶことができ、また実際にそうしていたというのです。しかし外面的な事実に気がつくということと、うわべの下にあるものを読みとり、自分が目にしているものを理解することとは、まったく別の問題だ、とニコラス・ハンフリーさん*02は指摘します。私たちが同じ人間の行動を観察するとき、それを単なる偶然の出来事のモザイクと見なすことは、皆無とはいえないまでも、めったにありません。つまり私たちは、その背後により深い原因となる構造(計画、意図、情動、記憶、その他の隠れた存在)を見るのであり、私たちが彼らのしていることを理解できるといえるのは、この根拠に基づいてのことなのだ、というのです。
 
それは何より、初期人類たちにくらべ多数の構成員を擁する集団を形成し、それゆえ非常に複雑化した社会的関係と、より高次に組まれたニューロン群を擁する脳を現生人類がもっていたことによるもので、それらは互いに連関し、発達を遂げていったのです。


01心の先史時代/スティーヴン・ミズン/松浦俊輔+牧野美佐緒 青土社 1998.08.24
02内なる目-意識の進化論/ニコラス・ハンフリー/垂水雄二訳 紀伊国屋書店 1993.11.10

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