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過去を物語る姿形

 伊勢神宮には式年遷宮という制度があります。20年に一度、本殿をはじめとする社殿を新しいものに建替えるというもので、天武天皇が制定(685年)し、690年に第1回がおこなわれたといわれています。以来1300年に渡って引き継がれ、今年の10月に第62回の式年遷宮が予定されています。
 
天武天皇は、白村江の戦いに敗れたあと、壬申の乱という内乱を経て、存亡の危機にあったヤマト政権を建て直し、より強固な統一国家を築いた天皇です。溝口睦子*01さんによれば、天武天皇は地方豪族を取り込むために主に地方豪族が崇拝し、広く民衆に知られていたアマテラスを、タカミムスヒに代えて皇祖神とし、アマテラス系の神を祭っていた氏族を官位の上位におくなどの融和的な改革をおこなった、といいます。そしてそうした神をいただく神宮の建物の形式にも、日本古来より崇拝の対象であった建物=屯倉(ミヤケ)の姿形をシンボル的に登用していったのです。
 
神明造を特徴づけている棟持柱が登場した弥生時代には、それは構造的に明確な役割を持っていました。厚紙を二つに折って山型に置き、上から押すと両方に開いて潰れてしまいます。これと同じように山形の切妻屋根はその重みによって左右に開く力が働き、ときとして建物をはじくように解体してしまいました。そこで山形の頂点にあたる棟の両端を柱で支えると、今度は二枚の切妻屋根は、逆につぼむかたちに力が働いて、建物をしっかりと固める役割を果たすのです。
 
こうした構造上重要な役割を果たしていたのが棟持柱でした。それは木材を棟の上で交差させて結び、屋根を固定させる部材として登場した千木や、その交差させた千木の交点に重しとして載せ、屋根を安定させる働きを持っていた堅魚木などと同じく、建物の構造上、施工上必然的なものだったのです。


登呂遺跡/静岡県/弥生時代後期

 
ところが現在の神明造は、柱と柱との間に梁を架け、梁の上に束を立てて棟を支える構造になっています。この場合、屋根の重みは、束から梁にかかり、梁で結ばれた左右の柱を内側に引張る力となって働くので、もはや棟持柱の必要性はなくなっているのです。
 
現在の構造形式が、天武天皇が式年遷宮を始めた頃の形式とまったく同じかどうか定かではありませんが(実は式年遷宮は戦国時代に120年間の中断時期があります)、当時も、それはすでに構造的役割から解放されていたのではないか、と推察されます。
 
そうだとすると伊勢神宮に代表される神明造の棟持柱は「過去を物語る一種の装飾」*02であり千木や堅魚木がその構造的・機能的役割から解き放たれ、神話を体現するものとしてシンボル化されたのと同じく、棟持柱も、屯倉(ミヤケ)や籾倉(もみぐら)という、はるか昔から共同体にとってもっとも重要であった建物を象徴する姿形として、あえて採用された形態だったといえるのではないでしょうか。

01:アマテラスの誕生-古代王権の源流を探る/溝口睦子/岩波書店 岩波新書 2009.01.20
02:伊勢神宮-森と平和の神殿/川添登/筑摩書房 2007.01.25

 

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