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建築随想
籾の倉
伊勢神宮の本殿は、切妻屋根の両端に独立した柱(棟持柱)が立っている高床式の建物で、神明造と呼ばれています。この形式は、古く弥生時代の農村集落の象徴的な存在であった初穂を収める籾倉(もみぐら)に由来する*01といわれています。籾倉に納めた種は、翌年再度稲作をおこなうために重要な種で、それはどんなに飢えてもけっして手をつけてはいけないものでした。したがって、それを納めた建物には、むやみに人が近づけないような厳しいルールがあったかもしれませんし、またその種を守護する“神”のいる場所であったかもしれません。いづれにしろ、それはその共同体にとって最も重要な建物だったのです。
弥生時代の高床建物。棟持柱らしきものがみられます。
袈裟襷文銅鐸/国宝/香川県出土(伝)/弥生時代/東京国立博物館蔵画像より http://www.tnm.jp/
ヤマト政権の時代、それは屯倉(ミヤケ)と呼ばれるようになります。屯倉とは、朝廷直轄領の収穫物を収める倉のことでしたが、転じて直轄領そのものを意味するようになります。周辺の低湿地を開発して田地としたり、用水池を造成して灌漑施設をつくるなどもしたようですが、直轄地として常駐する人々の建物が建ち並び、一つの集落(町)を形成し、それら全体を屯倉とかいて、ミヤケとよんだのです。
ミヤケは、もともとは、ミヤ(宮)のケ(食)の意味で、屯倉は、大王(天皇)の統治する「豊葦原の瑞穂の国」の瑞穂そのものを収める倉であったといいます。そしてそれは実質をこえる精神的な意味をも付加して、かつての前方後円墳に代わる大王支配の象徴として、それにふさわしい造形的な表現がもとめられたのではないか*01と川添さんは推察します。そして神明造という、伊勢神宮の建築様式の原型が屯倉であったことは、ほとんど確かである、というのです。
*01:伊勢神宮-森と平和の神殿/川添登/筑摩書房 2007.01.25