いや、このブログのCMで出て来た絵ナンですけど,オヤジの雰囲気が良いのでパクっちまいました。
しかし、パクるって、いつからこんな用法に転用されたんですかね?
私が御幼少の砌には、パクられる、って,お巡りさんに捕まる事だったんですけどね。
それが知らない間に盗む、とか,盗用とか、そっち方面の意味合いが強くなっちまいましたもんね。
パクる・・・捕縛の縛(バク)るから来たと思うんですが、如何でありましょうか?
鬼兵が・・・大人しく縛に就けぇぃ,とか言ってましたもんで、たぶん間違い無いと思うんですがねぇ・・・まっ、ドーでも良い事ですけど。
本日の午前中に「イワシ玉理論」と言うのを思考していた訳なんですが、モウ後一行で終わると言う所でSafariが凍っちまいまして強制終了して消えちまった訳です。
同じ事って書けないもんですよね・・・思考って、展開して広がるもんじゃありませんか?
断片を思い出しても繋が悪くて意味不明と言いますか、論調も違っちまうし・・・良い感じだったんだがなぁ~ホント、近来稀に見る正論だったと思うんですが・・・逃がした魚ですか?
やってみますかね・・・断片を思い出しつつ、軽く。
イワシ玉と言うのがある訳です。
何億匹と言うイワシが群れになって玉を作る物であります。
鰯は,読んで字の如く、弱い魚なんで群れている訳です。
どこか人間社会に似ているな、と,思うところから、鰯玉理論は思いつきました。
人間社会と言うのは、やっぱし群れを為さ無いと都合が悪いんで、社会と言う「人間玉」を形成すると思う訳です。
で、鰯玉は、理屈が在って出来る訳ではなく、本能と言いますか、遺伝子と言いますか、自然の摂理で纏まるんだろうと思う訳です。
で、人間玉と言う社会は、果たしてドーなのかな? と、思うと、自然に形成されていたのは遠い昔の事であって、今は、私の考えるところでは「ああすればこうなる理論」と言う、都市化の理論に則って人間玉は形成されていると思う訳です。
さて、ここなんであります。
人間は、社会を形成して人間玉として寄り集まらないと生きていけないんでありますが、しかし、玉の形成が作為的と言いますか、「ああすればこうなる理論」で作られちまっている・・・ここが味噌と言いますか、肝なんだろうと思う訳です。
人間玉は、人間本来が持っている自然の本能で集まるのではなく、玉に寄り添っていないと生きていけないから、そうしないと社会から弾き出されてしまうから、なので、集まる方は無意識なんでありますが、結果は、社会を形成してそこに人間玉が作られるように仕向けた力の作為だと思う訳です。
さて、鰯玉の特徴として、中心部で玉を引っ張る鰯程強い鰯で、玉の辺縁になると、泳力の弱い鰯がやっと着いていると言う感じな訳であります。
で、鰯玉の周りには、カツオだのギンガメアジだのツムブリだの、と,捕食魚が狙っている訳でして、群れから外れたやつを拾って喰う訳であります。
また、元気の良いカツオなどは鰯玉に突撃して群れを食い散らしていく訳ですが、そんな時、鰯玉の中心は辺縁の鰯が食われている間に向きを変え、難を逃れて生き延びる訳であります。
自然の摂理と言いますか、掟も厳しいもんであります。
弱い物から喰われていく、であります。
しかし、それは必然なんで、強い子孫を残すためには、弱い物から喰われる淘汰の先に強い種が残る訳であります。
こうして見ると生存競争は鰯玉も人間玉も同じに見えるんですけれども、しかし、それは見掛だけの事じゃないかと思う訳です。
鰯玉は、自然の掟が役割を決める公平な社会だと思う訳です。
そうする事によって鰯と言う種が生き伸びるのでありますから。
さて、人間社会の人間玉はどうでありましょうか?
鰯玉は海と言う社会で生きている訳であります。
海を支配するのは自然の摂理なんでありますが、人間玉が泳ぐ海の社会は、自然の摂理に支配された公平なところでありましょうか?
人間社会の,しかも,人間玉が大きく形成される都市は、何処かの都市計画やら未来の設計なんて事を考える、同じ人間の頭脳から生まれた産物な訳であります。
と、言う事は、誰かの能の中の創造の海でその他大勢の人は人間玉を形成している訳であります。
世界中には相容れないで対立する宗教が数多ある訳です。
それほど人に因って思考の方向も質も違うのに、特定の人達が考えだした「ああすればこうなる」と言う思いで、社会は組み立てられ、そこに人間玉は形成させられる訳であります。
始めの方で書きましたが、人間玉が出来るのは、生物としての生存の条件をより良く、と,選択していったら,やっぱし群れた方が良いな、と、自然に出来上がった本能的な物だと思うのであります。
なので、群れる性質を持つ人間は、与えられた社会が自然と掛け離れた作為的な海であったとしても、他では群れが作れないので仕方なく「ああすればこうなる理論」にしたがって作られた海で生息する訳です。
で、この事は踏み込むと止めどないんで軽く流しますが、社会を作る「ああすればこうなる理論」の原理は、全く持って一般的な人間がより良い人間玉が形成出来るように、などとは仕組まれていない訳です。
人間玉も見掛けは鰯玉と同様の競争に晒されているように見えるんですが、その原理は自然の摂理ではなく、甚だしく作為的な物で、人間玉の中での個人の位置も、作為的に決まってしまう物だと思う訳です。
さて、「ああすればこうなる理論」で擬似的海の社会を作って人間玉を形成させる目的は何かと考えると、簡単に言えば「富」でありまして、もっとハッキリ言えば「銭」であります。
逃げられない社会と言う人口の海に人間玉を形成させ、それを作った側は、人間玉から溢れて来る弱った人間を補食するのであります。
鰯玉もそうでありますが、群れは新陳代謝が激しく、中心の鰯がいつまでもそこに居る訳ではなく、常に入れ替わっており、少し前まで群れを引っ張っていた鰯も何れは補食されるのであります。
その事は、擬似的海の社会で形成された人間玉も同様であります。
擬似的な海に人間玉を作らせるのも人間なんですが、その人達は、人間玉を喰って、肥えるのであります。
美味しく喰うためには人間玉にも、ある程度育ってもらわなければなら無いので「餌」は巻かれる訳であります。
それが社会にある、仕事であります。
ありとあらゆる仕事は、そこから上がる利益の多価の大小に関わらず、擬似的海に撒かれた「餌」なのであります。
餌はふんだんに巻かれる事も在るし、人間玉が増え過ぎたと思えば制御されたりもする訳ですが、それは全て「ああすればこうなる理論」の延長線上でありまして、擬似的海の社会を作る人達の意のままな訳であります。
さて、ここまで私は鰯玉と人間玉を使って、自然の社会と不自然な社会を語ったつもりなんですが、これは,社会の構造を批判しているのでは在りません。
簡単に言えば、為政者達が社会と言う擬似的な海を作り、そこに人間が集まるように仕向け、労働から生まれる価値を搾取している構図を述べ居るのでは在りません。
ンじゃぁ、ナニを宣いたかったのかと申しますれば、私個人に限って言いますと、私は本能が強いのか野生が残っているのか、社会と言う、擬似的な海、不自然な海に違和感を感じると言う事なんであのます。
社会に違和感を感じるのは何故なのかと考えていた訳ですが、それは,擬似的な海は自分の精神的な部分と相容れないと言う事な訳であります。
それは、自然の摂理を無視した「ああすればこうなる理論」と言う、誰か他の人の脳味噌の中で生まれた不自然さを感じてしまうからなのだと思う訳です。
と、言う事で、他人様が作った記事で気な海と言う社会は、私に取っては偽物でしかないわけで、泳いでいても息苦しいだけ,と言う事であります。
序でに言えば、私は人間玉から逸脱して生きる事を選んだ訳で、ですから,もう餌は貰えない訳であります。
しかし、自分の精神的な部分を真っ当に保ちたいと思うと、社会から距離を置き、本物の自然に少しでも多く触れて生きる・・・それが基地外になら無い最良の方策か、なんて事を言いたかった訳です、が、支離滅裂過ぎて判りませんか?
そうダベねぇ~・・・書いた本人も面倒で嫌になって止めるんですもん。
やっぱし全然違う方向に逝っちまった・・・最後、無理くり気持ちの問題にすり替えましたが、過程の話しは経済話しと言いますか、いつも宣っている「国家とは何か」の焼き直しですもんね。
いや、もしも最後まで読んでくれた人が今したら・・・お疲れさまでした,と。
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