侍の生き方と言うのがおっさんには良く分からなくて、時々、ホントかぃなぁ~? と、疑っちまうわけです。
御家の為とか言って理不尽な腹切りなど迫られても、武士の名誉を重んじれば、喜んで腹を切るとか言うのは、ナンボ理解しようとしてアレコレ書物など紐解いても無理であります。
葉隠れなど読むと、読んでる最中とか、読んですぐ直後・・・雰囲気が脳味噌に漂っている間は何となく同調できた気分で居ますが、しかし、まっ、時間が経てば忘れちまいます。
で、葉隠れなど読んでますと・・・まっ、鈴木大拙の受け売りそのままですが、ほとんど禅の道に行っちまうわけであります。
まっ、そこら辺にとても矛盾を感じるんですけれども・・・いや、仏の道は活かす道で、侍の道は殺す道、と、おっさんは思っちまうわけで、そこには、ナンボ屁理屈を捏ねてみても、相容れない違いを感じるしか無いと思うわけです。
読み齧りの浅知恵ですけれども、武士道・・・葉隠れが言わんとする所は決して人を切る為の極意などではない、と、言うんですけれども・・・人を切らない剣道なら刀を捨てて茶の湯でもやったらぁ~? と、思っちまうわけですが。
いや、おっさんのこの手の情報源と言いますか、指導書は、今の所ほとんど全部鈴木大拙なんでアレ、偏っているんですけれども、大拙先生は、茶の道も禅である、と、おっしゃって居られるわけです。
まっ、禅ってナンですかぁ~との問いには、高名な禅僧が、飯を食う事であり、屁をひる事である・・・と、宣っているわけで、そう言う事なら生きてる事総てが禅であっても良いわけで、だっら、剣の道とか、茶の湯の道とか、そう言う、一般凡夫と言いますか、貧乏大衆が馴染めそうも無い道など引っ張り出されても、結局は、お説ごもっとも、しかし・・・と、現実の暮らしを見つめざるを得ない所へ堂々巡りと、なっちまうんじゃないかと思うわけですが。
うん・・・頭の良い人って言いますか、現実の社会のアレコレを自分の中で消化して乗り越えられる人達は、禅とか、武士道とか、まっ、美術でも芸術でも良いんですけれども、そう言うのを極めたとのたまわれて、道は同じです、なんて言うわけですが、凡夫には道はどれも違うわけでして、茶の湯をやっていて飯が喰えるんならそれでも良いんですけれども、そうはいかないわけでして、まず、凡夫の葉隠れとしましては「凡人とは喰う為に生きる民とみつけたり」と、言う感じなんじゃないかと思うわけです。
で、おっさん、行儀作法とか、テーブルマナーとか、そう言うのはなぜに生まれたのかな?と、ズーッと不思議に思って来たわけです。
いや、貧乏人の家と言いますか、あまり余裕の無い家庭程、礼儀作法に煩く無いと子供心に感じていたわけで、その差はナンだろうか? と、疑問だったわけです。
で、自分が社会に出て仕事などして行くうちに、仕事の質が変化する過程で、それなりの席に同席させられるようになり、さりげなく修行と経験を積まされたわけです。
そして、一通りのアレコレの作法などを身につけつつ、一番覚えた事は、その作法を知らないものは、部外者と見なされる・・・例え仕事の実務に粗相は無かったとしても、それらの作法に通じていないものはその席に居る事がまかり成ら無い世界なのである、と、言うのを学び、型破り、掟破りは排除されるのであるな、と、察知したわけであります。
と、言う事で、作法や型と言うのは、一つの約束事を理解しているものの合鍵と言いますか、割り符みたいなもので、部外者を疎外する為の手段なんである、と、おっさんは思うわけであります。
それが出来ると、心も出来る・・・なんて事を言うわけですが、そりやぁ~そうであります・・・だって、同じ方向を向く人間だけを選別する為の作法や仕来りな訳ですから、型にはまりたく無い人間は存在しないわけですから、その方面で良しとされる心持ちになるに決まっているわけです。
話しは飛躍しますが・・・会社のカラーと言いますか、臭い・・・公務員様でも良いんですけれども、やっぱし同じ臭いがしますよね・・・それは上記の理由と同じ事な訳で、それに馴染める人の集団になるのだから当たり前、と、言う事だと思うわけです。
と、言う事で・・・この書き込みの表題の「仕官の口を探す」でありますが、おっさんは多分、誰の色にも染まらないと言いますか、染まれない人種ではないのか? と、思うわけです。
なので仕官の口は端から無理筋でありまして、自分の食い扶持は自分で稼ぐしか無いわけであります。
いや、禄を食んで食い扶持を得ると言うのは、確かに仕事はしているんですけれども、意味は違うわけです。
さて、そうなると自営業しか無いわけですが、そこで、ふと、思っちまうわけであります・・・最低限喰えれば良いんじゃないのか? だったら、そんなに目の色変えて仕事なんかしなくても、借金も無いし・・・喰うくらいは何とかなるだろう、と、言う事で、仕官の口は、無理だろうと言う事では無く・・・要らないだろう、と、なったわけであります。
いや、それじゃぁ暇過ぎるとか、社会に対しての立場がとか、有るわけですが、そう言う、社会と言いますか、世間と対比して自分を確認する作業はもう要らないと思うおっさんには、社会に存在を認めてもらわないと自分の存在を見失う、なんて事は無いと、思うのであります。
で、侍が仕官して、主君の為に腹を切れたのは、やっぱし、名を残すことが生きる証しであったから・・・恥をかいて生を伸ばすくらいなら、名を残して早く逝く・・・それこそが自分の存在した証明であったからなのだろう・・・と、思うわけです。
と、言う事で、禅だの、武士道だの・・・そう言うものに正しい人としての道を求めてみたわけですけれども、社会を否定までしないけれども、積極的な関わりはなくても良いと思うと、何の縛りも無くなると、言いますか・・・要するに、相対的な比較から自分の存在意義を浮かび上がらせないと・・・なんと申しましょうか、横文字は使わない主義なんですけれども、手っ取り早い表現なんで使っちまいますと・・・アイデンティティーと言うヤツですね・・・自尊心とでも訳したらダメですか?
社会と言いますか、世の中との相対で自尊心を保つ・・・それさえ無くても良いと成れば、強いんだろうと思うわけです。
あっ・・・それ、ホームレス級の考えか?
ダメだなぁ・・・上手く書けないなぁ~。
御家の為とか言って理不尽な腹切りなど迫られても、武士の名誉を重んじれば、喜んで腹を切るとか言うのは、ナンボ理解しようとしてアレコレ書物など紐解いても無理であります。
葉隠れなど読むと、読んでる最中とか、読んですぐ直後・・・雰囲気が脳味噌に漂っている間は何となく同調できた気分で居ますが、しかし、まっ、時間が経てば忘れちまいます。
で、葉隠れなど読んでますと・・・まっ、鈴木大拙の受け売りそのままですが、ほとんど禅の道に行っちまうわけであります。
まっ、そこら辺にとても矛盾を感じるんですけれども・・・いや、仏の道は活かす道で、侍の道は殺す道、と、おっさんは思っちまうわけで、そこには、ナンボ屁理屈を捏ねてみても、相容れない違いを感じるしか無いと思うわけです。
読み齧りの浅知恵ですけれども、武士道・・・葉隠れが言わんとする所は決して人を切る為の極意などではない、と、言うんですけれども・・・人を切らない剣道なら刀を捨てて茶の湯でもやったらぁ~? と、思っちまうわけですが。
いや、おっさんのこの手の情報源と言いますか、指導書は、今の所ほとんど全部鈴木大拙なんでアレ、偏っているんですけれども、大拙先生は、茶の道も禅である、と、おっしゃって居られるわけです。
まっ、禅ってナンですかぁ~との問いには、高名な禅僧が、飯を食う事であり、屁をひる事である・・・と、宣っているわけで、そう言う事なら生きてる事総てが禅であっても良いわけで、だっら、剣の道とか、茶の湯の道とか、そう言う、一般凡夫と言いますか、貧乏大衆が馴染めそうも無い道など引っ張り出されても、結局は、お説ごもっとも、しかし・・・と、現実の暮らしを見つめざるを得ない所へ堂々巡りと、なっちまうんじゃないかと思うわけですが。
うん・・・頭の良い人って言いますか、現実の社会のアレコレを自分の中で消化して乗り越えられる人達は、禅とか、武士道とか、まっ、美術でも芸術でも良いんですけれども、そう言うのを極めたとのたまわれて、道は同じです、なんて言うわけですが、凡夫には道はどれも違うわけでして、茶の湯をやっていて飯が喰えるんならそれでも良いんですけれども、そうはいかないわけでして、まず、凡夫の葉隠れとしましては「凡人とは喰う為に生きる民とみつけたり」と、言う感じなんじゃないかと思うわけです。
で、おっさん、行儀作法とか、テーブルマナーとか、そう言うのはなぜに生まれたのかな?と、ズーッと不思議に思って来たわけです。
いや、貧乏人の家と言いますか、あまり余裕の無い家庭程、礼儀作法に煩く無いと子供心に感じていたわけで、その差はナンだろうか? と、疑問だったわけです。
で、自分が社会に出て仕事などして行くうちに、仕事の質が変化する過程で、それなりの席に同席させられるようになり、さりげなく修行と経験を積まされたわけです。
そして、一通りのアレコレの作法などを身につけつつ、一番覚えた事は、その作法を知らないものは、部外者と見なされる・・・例え仕事の実務に粗相は無かったとしても、それらの作法に通じていないものはその席に居る事がまかり成ら無い世界なのである、と、言うのを学び、型破り、掟破りは排除されるのであるな、と、察知したわけであります。
と、言う事で、作法や型と言うのは、一つの約束事を理解しているものの合鍵と言いますか、割り符みたいなもので、部外者を疎外する為の手段なんである、と、おっさんは思うわけであります。
それが出来ると、心も出来る・・・なんて事を言うわけですが、そりやぁ~そうであります・・・だって、同じ方向を向く人間だけを選別する為の作法や仕来りな訳ですから、型にはまりたく無い人間は存在しないわけですから、その方面で良しとされる心持ちになるに決まっているわけです。
話しは飛躍しますが・・・会社のカラーと言いますか、臭い・・・公務員様でも良いんですけれども、やっぱし同じ臭いがしますよね・・・それは上記の理由と同じ事な訳で、それに馴染める人の集団になるのだから当たり前、と、言う事だと思うわけです。
と、言う事で・・・この書き込みの表題の「仕官の口を探す」でありますが、おっさんは多分、誰の色にも染まらないと言いますか、染まれない人種ではないのか? と、思うわけです。
なので仕官の口は端から無理筋でありまして、自分の食い扶持は自分で稼ぐしか無いわけであります。
いや、禄を食んで食い扶持を得ると言うのは、確かに仕事はしているんですけれども、意味は違うわけです。
さて、そうなると自営業しか無いわけですが、そこで、ふと、思っちまうわけであります・・・最低限喰えれば良いんじゃないのか? だったら、そんなに目の色変えて仕事なんかしなくても、借金も無いし・・・喰うくらいは何とかなるだろう、と、言う事で、仕官の口は、無理だろうと言う事では無く・・・要らないだろう、と、なったわけであります。
いや、それじゃぁ暇過ぎるとか、社会に対しての立場がとか、有るわけですが、そう言う、社会と言いますか、世間と対比して自分を確認する作業はもう要らないと思うおっさんには、社会に存在を認めてもらわないと自分の存在を見失う、なんて事は無いと、思うのであります。
で、侍が仕官して、主君の為に腹を切れたのは、やっぱし、名を残すことが生きる証しであったから・・・恥をかいて生を伸ばすくらいなら、名を残して早く逝く・・・それこそが自分の存在した証明であったからなのだろう・・・と、思うわけです。
と、言う事で、禅だの、武士道だの・・・そう言うものに正しい人としての道を求めてみたわけですけれども、社会を否定までしないけれども、積極的な関わりはなくても良いと思うと、何の縛りも無くなると、言いますか・・・要するに、相対的な比較から自分の存在意義を浮かび上がらせないと・・・なんと申しましょうか、横文字は使わない主義なんですけれども、手っ取り早い表現なんで使っちまいますと・・・アイデンティティーと言うヤツですね・・・自尊心とでも訳したらダメですか?
社会と言いますか、世の中との相対で自尊心を保つ・・・それさえ無くても良いと成れば、強いんだろうと思うわけです。
あっ・・・それ、ホームレス級の考えか?
ダメだなぁ・・・上手く書けないなぁ~。
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