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岸本晃の住民プロデューサーNEWS

青年は荒野を目指す、再び(京都にて)

 たまたま社会学をやっていたので日々の中で出会う現象の背景にある社会状況や人の変化等の深層を考える習慣があります。たまたまは本当にたまたまで決して目指していったものではありません。ところが最近どうもこのたまたまが非常に大事な要素であったことに気づきます。自分で言うのもおかしいですがたまたまでやってきたことがあまりにも多く、たまたまから生まれでたコトに溢れています。理論詰めで考えやってきたこと等はほとんどないと言ってよいでしょう。

 社会学を選んだのも浪人して山口大学にたまたま受かって数多ある専攻から消去法で行き着いたのが社会学でした。文理学部文学科の中に国文科や哲学科、東洋史、など10数の専攻があるのでしたが正直言って山口大学を選んだのは「当時の学力と家庭の経済事情で兵庫県加古川市から最も遠い大学」というのだけが理由でした。頭が理系ではなかったので文系の最も問題なさそうなところを考えました。哲学や東洋史に興味はありませんでしたので一個ずつ消していくと社会学しか残りません。

 社会学というと当時はマルクスもマックスウェーバーも知りませんが何となく「社会」を学ぶ学問と考えればこれは何でもできそうなだな、と感じました。実際政治を付ければ政治社会学、文学を付ければ文学社会学、地域社会学、パチンコ社会学、買い物社会学・・・、となんでも行けそうです。本屋に行くとそれほど好きにみんなが書いています。映画社会学、女性社会学、子ども社会学・・、そこでこの「社会学」なるイメージは無くても間口の広さだけでやれそうに感じさせてくれる専攻を選びました。

 たまたま山口大学の山本陽三教授は「大学に来なくてよい、俺が主催するコンパだけは出てこい、単位はやる」と最初の新歓オリエンテーションで豪語してくれました。今思えばこの教授との出会いが今に繋がる最初の出会いです。幼稚園から高校まで先生との出会いはそんなに運がよかったとは思えませんが大学でやっと理想の先生に出会えました。御陰で5年間大学には行きましたが授業は全く出ないで世間を渡り歩いていました。それが社会学になったのですから有り難い。コンパだけは100%出ました。単位はくれました。

 学生時代のこの生き方がそのままずっと今まで続いているんだな、と今は振り返ると感じます。今言えるのはたまたま山口に向かったからです。加古川から、というか「家から一歩でも遠い場所に行って知り合いや面倒見てくれる人が一人もいない土地で一から一人で生き始める」ことをはじめたのが19歳でした。

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