日本に住むミャンマー人達が日本政府に要望書を提出した。
ミャンマー国軍に対して欧米のように制裁をせよと。
その回答は、「もっとも良い方法を考える」。
いかにも日本政府の回答で、一見答えているようで何も言っていない。
そうしている間に民主化運動を進める国民は多くの死者を出している。
どうしたらよいのか。
民主主義を推進する日本政府ならば、民主化を阻止する勢力に圧力を与えるべきだと私は思う。
しかし、それでは中国に対してはどうするのか。
北朝鮮に対してはどう向き合うのか。
政治の世界は一筋縄では行かない。
ミャンマーは非常に難しい国家である。
日本と確実に違うことこと、それは多民族国家であること。
70%を占めると言われるビルマ人と100を越すと言われる少数民族。
ミャンマーの国軍は仮想敵をこの少数民族と見做し戦い続けている。
何故こんなことになったのかと紐解くと、ここにもかつての欧米の政策があった。
過去の植民地政策で、統治する為に執った手段。
ビルマ人を迫害しキリスト教に改宗した少数民族を優遇した。
国民を分断し敵対させ、本当の敵をカモフラージュする常套手段を採った。
本来ならば統治するイギリスを敵と見做せばよい。
しかし、それをさせない為の強国の姑息な手段。
ところが第二次世界大戦の時には日本軍もここに手を貸した。
敵はイギリスに有りとして、義勇軍を編成させイギリス追放を成功させた。
この時の義勇軍のリーダーが後の国軍のアウン・サン将軍だ。
日本軍はこの後ビルマの独立を手土産に、実質的な植民地とする。
けれどもインパール作戦の大失敗で再びイギリスの統治下となった。
その後全世界に拡がった独立運動の元、友好的に独立の道をたどる。
しかし、アウン・サンは独立寸前に暗殺されてしまう。
彼は民主化を夢見ていたが、後の政権トップは別の道を選択した。
軍事政権を揺るがぬ物にする為に少数民族を敵と見做し攻撃したのだ。
国民の為に敵と戦う国軍は国民の味方であるという理屈だ。
ビルマ人はイギリス統治下で優遇されていた少数民族を好ましく思っていなかったからそれは効果的だった。
確かに、少数民族は数十に及ぶ反乱軍を組織していた。
その理由はそれぞれが独立や自治を求めていたから。
その中、平和を祈る人々の手で協調政策を採ろうと画策した人物がいる。
完全では無かったがある程度成功した。
そして、1988年の民主化運動へと繋がっていった。
これは結果としては失敗に終わったが、民主化の夢が国民に広がった。
そして遂に2011年、議会制民主国家への道が開かれたのだ。
アウン・サン・スーチーは父アウン・サンを知らない。
しかも民主化運動の前に、イギリス人と結婚してイギリスで生活していた。
たまたま民主化運動の時ミャンマーに帰国していて、リーダーに担ぎ上げられたのだ。
そして20年の長きに亘り自宅軟禁となる。
しかし、2011年には民主化運動の党首となり政治家となった。
そして前回の総選挙では記録的大勝利を挙げた。
それが、今回のクーデターへと繋がった。
軍人達は、国軍の地位が危ういと感じたからだ。
この国軍と国民の間には大きな溝がある。
この溝こそがミャンマー国民に悲劇を与えることになる。
この溝とは、民主国家を知る国民と国軍しか知らない軍人。
国軍の兵士も士官も彼らの言う戦争に明け暮れている。
第二次世界大戦以来戦い続けている。
だから、軍のことしか解らないのだ。
一方、民主化の結果経済的に豊かになった若者は海外に目を向けた。
自由世界を学び豊かになる為に留学した。
それほど豊かで無い若者も自由世界に出稼ぎに出て行く。
親や祖父母から苦しい時代の話を聞いている世代。
民主国家にあこがれを抱き、積極的に学んでいる。
幸せとは何かを知ってしまったのだ。
軍事政権は今、どうすべきかが解らなくなっている。
収拾の付け方、国際社会との向き合い方、国民とのあるべき姿。
戦略も無く始めて仕舞ったクーデター。
味方してくれるのは、中国・ロシアなどの専制国家のみ。
このままでは国民の求める民主化はあり得ない。
民主国家を標榜する日本は、動かなければならない。