たまにはぼそっと

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丹後半島のレイライン その7  船岡神社

2021-09-01 07:13:45 | レイライン

京都府京丹後市峰山町二箇24−1



小高い丘の上にあります。



画像が良くありませんね。次のように書いてあります。以下、「水石の美を求めて」から引用させてもらいます。
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船岡神社境内のこの岡を、昔から船岡と呼んでいます。
ここは、四道将軍、丹波道主命の館であったので「府の岡」と呼ばれていたのが、後に「船岡」に変わってきたのであろうといわれています。
丹波道主命は丹波比古多々須美知能宇斯王命(たにはのひこたたすみちのうしのみこと)いい、彦坐王(崇神天皇の弟)の子であつて、崇神天皇即位十年に四道将軍に任ぜられ、山陰道に下り、丹波の小見(こみ)、比治(ひじ)の真名井原(まないはら)に館をつくりました。
ここで、食物の神の豊受大神をまつって、八乙女(やおとめ)に奉仕させるとともに、里ごとにも、豊受大神を祭らせて、善政を行いましたので、人々はその徳を慕い丹波道主命を尊称していたといわれています。
この付近一帯から横穴が発見され、須恵器、土師器、金環、鉄刀、鉄鏃等が出土しました。

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水石さんも訂正されていますけれど、「丹波道主命」=「彦坐王」として考えてください。

そして、伊勢神宮外宮の最初の地と言うことになりますけど、今回はそのことには踏み込みません。

ひとつわからないことは、サタヒコの父親である「彦坐王」と

母親の「川上摩須郎女(かわかみますのいらつめ)」の接点が分からない。

あれこれ探したら、船岡神社の東を流れる川の名前が「鱒留川」

摩須はこの川の「マスドメ」のマスかも知れないと書いてある資料に出会いました。

こちらです「鱒留(ますどめ)
京丹後市峰山町鱒留」


元々は、こちらに住んでいたのが、誰かに追われて衆良神社のあるところに逃げたのかもしれない。

彦坐王が、この地に来て、「玖賀耳之御笠(くがみみみかさ)」を退治したという話があります。

もしかすると、その玖賀耳之御笠に追われて、鱒留から衆良神社のあるところに逃げたのかもしれない

近くに、途中ヶ丘遺跡(とちゅうがおかいせき)と言う所があります

弥生時代前期~後期のもので、鉄鏃二点(後期)、鉄斧一点(時期不明)の出土があります。

そこから2kmほど北には、扇谷遺跡があり、

そこからは、弥生前期末の砂鉄鋳造の鉄斧、鉄滓が発見されているそうです。

それがこの地で製造されたものかどうかはわからないそうですけど、このあたりは砂鉄の産地なのです。

ps 「鉄滓」(てっさい)とは、 鉄を製錬する際に出る不純物とのことです。
そのような物が、よその地域からわざわざ運ばれてくるとは思えないですね。


そして、この、扇谷遺跡には、延長は約八百五十㍍。

ⅤやU字形の幅四-五㍍、深さ三-四㍍の濠が二重にめぐらされていたそうです。

そして、それは、厳重な防御態勢を備えた要塞(さい)だったとのこと。

やはり、外敵がいたようです。

彦坐王がやってきて、玖賀耳之御笠を退治して、(殺したようです)船岡神社に滞在してからは

落ち着いたみたいですね。

この藤岡神社で奉仕していた八乙女の一人が彦坐王の妻、つまりサタヒコの母親だろうか?









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