水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

ご機嫌な彼女たち(3)

2016年05月15日 | おすすめの本・CD

 ~ 「大丈夫?」と、寧が聞いた。
「憤りたい気持ちはわかる」と、万起子が答えた。
「わかる? なにがわかるんですか」
 美香がくちゃくちゃな顔をして聞き返した。
「わかるわけがないですよ。あなたたちには」
「わかるわけがないって、どうしてそんなことがわかるのよ」
 万起子が負けずに言い返した。
「だって、あなたたちはお嬢さんじゃないですか。大事に育てられて、結婚して子どもも産んで、離婚したって、こんな贅沢な生活をしてるじゃないですか」
 なんの苦労もせずにこの生活を手に入れたわけじゃない。プライドをズタズタにされたことも、理不尽な悪意にさらされたこともある。何度もある。好き好んで離婚したわけじゃない。余裕をこいて生きているんじゃないんだ、寧もわたしも。普段の万起子ならそう言い返しただろう。でも言えなかった。お嬢さんじゃないですか。そう言われてしまったら、ぐうの音も出ない。あなたたち、と線をひかれてしまったら、その先には踏み込めない。
「わたしは結婚もしないで美雨を産んだんです」
 と、美香が言った。
「美雨には可哀想なことだったかもしれないけど、でも美雨が生まれてきてくれて、わたしはすごく嬉しくて、美雨がいるだけでほんとにしあわせだったんです。美雨は明るくて、頭がよくて、全然わたしと違って。それにわたしのことをとっても好きだったんです。とっても。だけど、ある日突然、口をきかなくなって、笑わなくなって。なにをしてもだめで」
「それで呼び出しが……」
 ひとり言のようにつぶやいた万起子の言葉に美香が頷いた。 ~


 「愛情が足りないのかもしれません」と示唆する担任には、内心反発していた。
 経済的に余裕のない自分が、唯一惜しみなく与えてきたのは愛情だという自負があった。
 美香のことを「こころから偉いと思う」と言う万起子は、「自分は翔がいなけれなよかったのに」と思ったことがあると話し始める。
 驚きながら聞いているうちに、美雨を怒った場面がうかんでくる。
 仕事が忙しく、疲れ果てて帰ろうとしたその矢先に店長に嫌みを言われた日、まとわりついてくる美雨を怒鳴ってしまったことがある。
 自分は母の愛情を受けて育たなかった。
 そんな自分には、どこか子どもに対する残虐な気持ちがあるのではないか。
 それをひた隠しにしよう、自分で蓋をとじようとしているだけではないか。
 ある日、本当の自分は顔を出したらどうしよう。
 子どもを捨てて逃げてつかまった若い母親のことが、どうしても他人事とは思えなかった。


 ~ 「叱ることが怖いんです」
 と、美香は言った。
「叱っているうちに、どんどんエスカレートして、虐待してしまうんじゃないかって。結局は、そうなんじゃないかって」
「でも、そんなことしないでしょ、あなた」
 万起子が言った。
「だから、どうしてわかるんですか? さっき、愛情をかけているっていったからですか? 愛情があったって、虐待するかもしれないじゃないですか。あったってやってしまいそうになるのが怖いんです。わたし、二度、美雨にひどいことをしたことがあるんです。そんなことしたくないのに、それなのに。美雨が怯えて泣けば泣くほど、もっといじめたくなって」
「こちらの気分で怒ってしまうことはあるわよ。同じことを子どもがしても、こっちの機嫌の良し悪しで怒らなかったり怒ったりつてことは、よくあることよ」と、寧が言った。
 そんなんじゃない。そんな生易しいものじゃないと美香は思った。やっぱりお嬢さんなんだ。たっぷり愛情を受けて育って、そして今度はじぶんが受けたように愛情を注ぐ。結局、このひとたちと自分とは違うのだという気持ちがつのった。
「そうじゃないのよ」
 と言ったのは、美香ではなく万起子だった。
「谷本さんが言いたいのはそこじゃないのよ。子どもの顔を見ているうちに、気持ちが収まるどころか、どんどん腹が立ってきて、残酷な気分になっていく。それを怖がっているの。わたしもそうよ。谷本さんさあ、それ、ほんとは子どもに向かってるんじゃないんだと思う」 ~


 怒りの矛先は、本当は子どもではないと言う万起子の顔を美香は見つめる。
 ほかの母親たち、そして世の中に向かって、あなたはキバを向いているのだと。


 ~ 「さっき、わかるって言ったのはそういうことよ。寧にはわからない。わたしもそう思うことがある。問題を起こさない子がいて、母親同士の付き合いもうまくやっちゃって、そんな寧になにがわかるって思ったことはいっぱいある」
「ほんとに?」
「ほんとよ。あんたにはあんたの言い分があるだろうけど。でも、翔がしょっちゅう問題を起こして、その度に呼び出しを受けて、そのことをほかの保護者にも知られているって、けっこうきついのよ。翔はすっかり問題児ということになっちゃってて、保護者会に行けば、子どもが問題を起こしてばかりいるのに、仕事をしている場合じゃないでしょうっていう顔で見られる。でも、もしわたしが母親じゃなくて父親だったら? 仕事があるのに、子どもを育てて、その子がなにかしでかしたら学校にもちゃんと顔を出すおとうさんだってことにならない? 褒められはしないとしても、仕事なんてするなとは言われないでしょう?」
 万起子の話を聞いているうちに、美香はずいぶんと落ち着いてきた。涙が乾き、涙のあとを寧に指摘されて、ごしごしと手でこすったりもした。
「コーヒーでもいれようか」
 寧の言葉に、美香と万起子が同時に領いた。
 出ることのない答えを諦めずに探すみたいに、それから三人は長いこと話し合った。そして少しずつ、ほんとうに少しずつ、こころを通わせていった。
 いつのまにか朝がきて、窓の外が明るくなった。 ~

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