水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

54年8ヶ月6日5時間32分20秒3(2)

2017年07月19日 | 学年だよりなど

 

    学年だより「54年8ヶ月6日5時間32分20秒3(2)」


 帰国後、陸上競技の裾野を広げることが第一と考えた金栗は、全国の学校関係者に手紙を書く。
 マラソンを通じて体力と気力を養うことが、若者の成長につながる、必要ならばいつでも出向いて指導する旨を切々と綴り、師範学校の先輩たちや、各地の校長に送った。
 実際に訪れた学校は全国60校に及び、全国各地でマラソン大会が催されるようになった。
 郷里の熊本県玉名市には、当時金栗の記した「マラソン十訓」が残されている。


 ~ 一、規則正しき生活をなせ。
   一、全身の強健を計り忍耐力を養え。
   一、速度は緩より急に、距離は短より長へ。
   一、感情の昂奮を抑へ、精神の平静を保て。
    一、過労を避け早く寝て熟睡せよ。勢力を浪費するな。
   一、滋養物を摂取せよ。暴飲暴食を慎め。
    一、酒、煙草の類は必ず厳禁せよ。
    一、練習は細心に、競走は大胆に。
    一、競走年齢は十七、八歳より三十五、六歳迄が最も適当。
    一、競走は最後迄堂々、力を尽くせ。 ~


 「競走」を他の競技におきかえても、いや「試験」や「仕事」におきかえても通用する本質的な教えと言えるだろう。もちろん自らも走り続けた。
 1913年(大正2年)、日本初の全国大会である第1回陸上競技選手権大会では、2時間31分28秒で優勝する。まだシューズなどなく足袋で走っている時代である。
 翌1914年の第2回大会では、2時間19分30秒にまで縮めた。当時の世界記録に匹敵する記録だった。金栗自身も、周囲も、次のベルリンオリンピックへの期待を高めた。
 25歳で迎えるオリンピック。彼の競技人生で最も充実した時期であろう。金栗自身の精進の度合いも鬼気迫るものがあったという。
 1914年、ベルリン郊外には、二年後のオリンピックに向けての新しい競技場が完成していた。
 新設の競技場でまさに全ドイツ大会が行われようとしているとき、サラエボ巡幸中のオーストリア皇太子が、セルビアの青年に暗殺されるという事件が起きた。
 このサラエボ事件がきっかけとなり第一次世界大戦がおこり、ヨーロッパ全土に戦乱が広まっていくことはみなさんもよく知っているとおりである。第6回ベルリン・オリンピックは開催されず、リベンジを期す金栗の夢はさらに四年後へと先延ばしされることになる。
しかし、金栗はくさることなく、精力的に活動し続ける。
 「東海道五十三次駅伝」を企画したのもこの頃である。
 京都三条大橋から上野の不忍池までを23区間にわけ、宿場駅の間を伝馬のように人間がリレーし、昼夜兼行で走り抜こうという企画だ。ぶっちぎりで優勝した「関東チーム」のアンカーは金栗本人だった。東京に入ると、金栗の走りを一目見ようとする人々で沿道はあふれたという。

コメント
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