■ 数日前「情報処理」というタイトルで投稿した。建築の実務に関することを書いたが、ブログには趣味としての建築についてしか書かないと決めているので削除した。
今回再度同じタイトルで書く。
情報学を勉強したわけではないので初歩的な私見に過ぎないが、生命体が生きているということを外界からの「情報」を知覚してその情報に反応することだと定義することが出来そうだ。生物としてのヒトが生きているということももちろんこの定義から外れない。
社会的な存在としての人が生きているということも同様に捉えることができそうだ。だだしこの場合には光や音、気温等の単純な情報(刺激)に加えて絵画や音楽、文学、メディアが発するニュース、他人がもたらす話題等々、高次な情報も当然含まれる。
これらの情報を受容した人はそれを自身で処理(判断)して(他人に相談することもあるが)その情報に反応する。大雑把な括りだが、生きるとはそういうことだ。
いくつか例示する。
インフルエンザが流行するという情報を得たら予防接種をしておこうと判断して病院に出かけて接種する。安売りをするというスーパーの情報を得たら買いだめをしようと出かける。長野市で高橋真梨子のコンサートがあるという情報を得たら聴きに出かける。川上弘美の小説を読んで「ああ、いいな」と思う。明日は晴れるという情報(天気予報)に基づいて出かける準備をする等々。
人は外部からの情報を受容してその情報を処理して外部に向けて情報を発信したり行動するということを延々と繰り返している。生きるとはそういうことだ。
さてこの先どう続けよう。どうも最近展開した話題をまとめるところまで到達しない。お疲れモードなどといってごまかしてはいるが、歳のせいか、いやいや脳内で情報処理が上手くいかないということだろう。
続きを次稿(?)に書こう。