飄(つむじ風)

純粋な理知をブログに注ぐ。

魂の法則⑭ 愛 VS 我欲

2013-06-15 19:53:52 | 魂の法則

この章は、前回に比べて、圧倒的に長い!
一気に転載する!!
愛については考察すれば、必然だ!!
愛の法則は、魂の法則の佳境である・・・
魂は、愛の旅立ちそのものであるからだ!!

 

 愛が、魂を生んだとも言えるであろう。創造主とは、愛そのものであると考えることが出来る。理屈は兎も角、愛によって全てが生まれたと認識しても、強ち、間違いとは言えないだろう。

 それにしても、さすがは西洋合理主義の愛の法則であろう。分かり易い。分析が鋭く、喩えが平易である。下手な心理学よりも、心理学的であろう。

 これが、心理学でないのは、魂に関して、時空間を超えて語られているから、聖書的である。一つの福音(良い報せ)と言っても良いであろう。私の判断するところ、100%納得できる。

 勿論、100%納得できると書いたからとて、100%良い方向に実践できるという意味ではない。私は凡愚であるから、今転生して学んでいる身であり、魂である。しかし、ことごとく、思い当たるフシばかりだという意味だ。

 

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 多くの方々もそうであろう。長いが、何度も何度も読み返す値打ちがある。そして、その思い当たる節々を点検して、修正して、反省する事が出来れば、成長は早い。請け合うことが出来る。そういう意味での100%納得だ。

 それは、無条件の愛の実践無くして、真の幸福はないと言うことだからだ。よく言われる至福の歓びは、こうして生まれるものであろうと、『想像』する。


 また、別名、『無所得』の愛とも呼ばれる。太陽のごとき愛の実践だ。見返りを求めない愛の実践だ。それは個々の魂全てに備わっている『能力』だと、断言している。阻害する要因を点検することで、誰でも輝かすこと出来る。

 力強い福音である。

 

 尚、全文を読むには、日本語サイト:http://tamashiinohousoku.blogspot.com.esで、ダウンロードできる。

 

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題名: 「魂の法則」
スペイン語原題: “LAS LEYES ESPIRITUALES”
著者: Vicent Guillem Primo ヴィセント ギリェム・プリモ
邦訳: 小坂 真理
知的財産権登録番号 V-2095-08 (Valencia, España)
Copyright © 2008 Vicent Guillem Primo
Japanese Translation Copyright © 2013 Mari Kosaka
ホームページ: http://lasleyesespirituales.blogspot.com.es/
日本語サイト:http://tamashiinohousoku.blogspot.com.es
メールアドレス:tamashiinohousoku@gmail.com

 

Photohttp://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.es_ES

 

「魂の法則」 by Vicent Guillem is licensed under aCreative Commons Reconocimiento-NoComercial-SinObraDerivada 3.0 Unported License. Creado a partir de la obra enhttp://lasleyesespirituales.blogspot.com.es/.
本書に修正を加えず営利目的にしない条件で、現在利用可能な全ての媒体によって、本書全体またはその一部の複製を許可するものとする。

 

【本文転載その⑭開始】

愛 VS 我欲

*愛せるようになるために、最初にするべきことは何ですか。

 愛すためには、自分自身でいなくてはならない。そして自分自身でいるためには自分を知らなければならない。

 他者を愛したければ、自分を知り、自分を愛すことから学びなさい。自分自身を愛せない者には、他者を愛すことができない。

*でも僕は、他者を愛すためには自分自身を放棄しなくてはならない、と理解していたのですが。

 絶対にそんなことはない。君がしなくてはならないのは、我欲を放棄することだが、感情を放棄することではない。

 君たちは、愛とエゴとを混同しているので、愛についての概念が、間違ってしまっているのだ。自分を愛すというのは、自分が他者より優れていると思い込み、利己的な気まぐれを満たすことに専心することではなく、自分の情緒的な必要性や感情を認めて、それを人生の原動力となるように発展させていくことだ。

 だからこそ私は、真に愛すためには、自分自身を知ることが非常に重要だと言っているのだ。自分を知るということは、感情と思考とを区別できることを意味し、感情から生まれるものと我欲から生まれるものを認識できることだ。

*それでは、愛と、愛ではないものをどう区別するのですか。

 愛は、その最高の顕現において、無条件でなければならない。本当に愛する者は、何の見返りも期待しない。私益で行動する者は、本当には愛していないのだ。

 愛は自由でなければならず、そうでなければ愛ではない。人を強制して、愛すように仕向けることはできない。

 愛したいと願う者は、自我を放棄することも望まねばならない。愛と我欲は、お互いに両立し得ない正反対の概念だ。エゴとは実際には愛の欠如なので、エゴを放棄しなければ愛せない。愛すことを学ぶというのは、我欲からの脱却を学ぶに等しい。愛す能力を高めれば我欲は減少するが、その逆も、また然りだ。

*魂はどうやって、愛すことを学ぶのですか。

 それは、長い時間をかけて進歩させてゆく永続的な工程だ。魂は、人間の段階になる前に学び始めるが、愛に関して新しく学ぶことは尽きないので、この工程も決して終わることがない。

 話すことを学ぶ時のように、他者との絶え間ない相互作用による以外には、愛を発達させることができない。

 魂がほとんど成長していない初期の段階では、自分より進化している存在から受ける愛を情緒として体験する。それを快く感じるのだ。また、愛の欠如、すなわち自分のようにまだ愛すことができない者の我欲も体験する必要がある。これは不快ではあるが、愛の欠如と愛の存在を認識して両者を区別し、愛の実在を評価できるようになるので、自分の感情を発達させるための刺激とはなる。

 つまり、魂は、愛せるようになる前に、愛の送り手として手本を示してくれる、自分より進化した者の愛の受け手として、感受性を磨く。また、愛の欠如という手本を示してくれる、自分と同等、あるいはもっと利己的な者とも共存しなければならない。このような相互作用を総合して、魂は最初に情緒を、それから感情を、成長させることができるのだ。

 魂が他者からの愛を認識できるようになるのは、愛の送り手になる準備が整った時だ。最初に初めての愛情が芽生えるのは、自分を愛してくれた人(通常は家族の一員)に対してであり、自分に利己的な態度を取った者には敵対心を抱き、関わりを持たなかった人は何の関心もないただの人となる。この段階での魂は、愛すと情熱的であるが、愛を失うと報復的で恨みがましい。

 魂は、より進化した次の段階では、苦しみ自体が愛とは相容れない否定的なことだと気づく。そしてもはや、自分を傷つけた者に害を与えることを望まず、被った痛手を賠償させる手段であった復讐を放棄する。この段階を、進歩した条件付きの愛、と呼べるだろう。

 そのうち魂の理解力と感受性のレベルがかなり高まると、自分を憎み蔑んで、耐え難い苦痛を与えた者たちも含めて、この世の全ての存在を愛す、という大きな飛躍を遂げる準備が整う。すなわち、イエスのような進化した存在たちが「汝の敵を愛せよ」と言って伝道したのと同じ、無条件の愛に達する最終段階に入るのだ。

 もちろんこれは一朝一夕にできることではない。最初の段階から最終段階に到達するには、途方もない歳月が必要となろう。

*理解できるように、これらの段階を要約していただけますか。

 いいだろう。この道程は継続的なものだと言ったが、良く理解できるように、以下の段階に分けてみよう。

1.愛の受け手としても、送り手としても鈍感。

2.愛の受け手として部分的に敏感であり、送り手としては鈍感。

3.愛の受け手として敏感で、送り手として部分的に敏感(条件付きの愛)。

4.受け手としても送り手としても、とても敏感(進歩した条件付きの愛)。

5.受け手としても送り手としても、完全に敏感(無条件の愛)。

*情緒と感情の源泉となるものは何で、両者はどう違うのですか。

 魂は進化の初期の段階では、情緒を感じることしかできないが、通常、このような情緒は、外界からの刺激に反応しているに過ぎない。

 情緒の感知力は、人間以前の段階から発達し始めている。実際、犬や牛や馬やイルカなど、多くの高等哺乳類が、様々な形でかなり深い情緒を感じたり表現したりしているのを、認めることができるだろう。

 情緒を感じる体験を重ね、決断をする際に情緒に配慮するようになるにつれて、魂は感情を発達させ始める。感情は、情緒の進化した形態、と考えてもらって良いだろう。

*情緒と感情の違いと、両者の関係を、より詳しく説明いただけますか。

 情緒の継続時間は短く、一般的には、外部または内部の何らかの刺激によって誘発される。

 感情はもっと長く続き、魂により深く根ざしており、外界からの影響を受けるとは言え、外部の誘因が必ずしもその原因ではなく、魂自体の意志による。

 感情と情緒は緊密に結びついている。感情は、情緒を呼び覚ますことが可能だ。感情は、情緒を湧き出させる内なる泉のようで、その意味では、情緒は感情の表現形態の一つである。また、外界からの影響で感じられた情緒は、特に感情に影響し、感情を起動させたり抑制する刺激剤となる。

 最も発達した感情は、愛である。無条件の愛の感情を体験するに至ると、それは永遠に尽きない感情なので、それを目覚めさせたり育てるために外界からのいかなる刺激も必要としなくなる。

*情緒や感情は、魂のどの部分で生まれるのですか。

 愛の情緒や感情は、霊体で生まれる。

 利己的な情緒や感情は、霊体で感じ取られるものの、エゴ的な要素はメンタル体で付加される。

*お話が分かりませんが、利己的な感情や利己的な情緒とは何ですか。

 利己的な姿勢から生まれる、否定的な感情や情緒だ。実際には、利己的な態度は思考であるので、頭で生まれる。

*それでは、感情と思考は、別々の源から生まれるのですか。僕はこれまで両方とも、頭脳の産物だと思っていました。

 それが実は、同じ源ではないのだ。

 感情は魂(霊体)から生まれ、思考は頭脳(メンタル体)から生まれる。

*我欲は頭脳で生まれ、愛は魂で生まれるということでしょうか。

 そうだ。今言った通り、利己的な情緒や感情は霊体で感じ取られるが、エゴ自体は頭脳で生まれるのだ。

*その点を明らかにして下さいますか。どうしてエゴが頭脳から生じて、そういう利己的な感情や情緒は魂で感じられるのか、分からないのです。

 もちろんだ。ガラス張りの丸屋根の下で懐中電灯をつけている人を思い描いてみよう。

 屋根のガラスが透明ならば、懐中電灯が発する光も、外から内部に入る明かりも、ガラスを通って変化することはほとんどないだろう。しかし、丸屋根のガラスが透明ではなく不透明だとしたら、内部から外部へ出る光も、外から丸屋根の中に入る光も、そこを通過することで屈折してしまう。

 懐中電灯を持った人は霊体に相当し、ガラスの屋根はメンタル体に相当する。丸屋根の不透明さが我欲を象徴している。

 利己主義は、他者の感情や情緒(入ってくる光)をそれらが霊体に届く前に変化させてしまうので、その捉え方が変わってしまうだけでなく、霊体から生じる感情や情緒(発信される光)やそれらの表現の仕方さえも変えてしまい、頭脳を通過する際の利己的要素にまみれたままで、他の人に受け取られてしまう。

*愛と我欲の関係が、人間の本質にどう作用するのか、まだ良くイメージできません。一体なぜ人は、愛することも利己的になることもできるのですか。この点を、どうか明らかにして下さい。

 ああ、もちろんだ。人間というもの玉ねぎで、芯に愛という光を放つ魂を持っていると想像してみなさい。

 中心の光の発信元は何重もの層に包まれていて、その各々が少しずつ光の進行を妨げるので、全部の層に覆われてしまうと、外に出て行く光はほぼ完全に遮られてしまう。

 これらの層の一つ一つは我欲を表しているのだが、最終的に愛という光を輝かせ、その最高の表現が可能になるように、序々に取り除かれていかねばならない。層を除去していくにつれて、内部の光(愛)は外に出易くなる。

 一番外側の層は、最も原始的で表面的な我欲に相当する。それは、虚栄心である。中間層は自尊心であり、一番内側のものは尊大である。

 人はそれぞれ、我欲を消去する工程の様々な地点にいる。

 地球に住む魂の大半は、最初の層の幾つかを除去できたに過ぎない。中間層の何枚かを取り除くことに成功した者もいるが、我欲の最も深層部を排除する過程にいる者は僅かである。

 この工程は連続的なもので種々様々なレベルの魂がいるとは言え、大きく三つのグループに種分けしてみることができる。

 層の除去段階に従って、親切で見栄っ張りな魂、寛大で気位の高い魂、愛情深く尊大な魂に分けられる。

*なぜ、肯定的な形容詞と否定的な形容詞の二つを使って分類するのですか。

 分類によって、魂の利己的な部分を際立たせるのではなく、各段階の魂が発達させている資質も認めるようにしたいからだ。最初の形容詞は、魂が愛の育成に努める際に到達可能な代表的な資質を表し、二番目の形容詞は、魂の我欲の段階を示している。

 虚栄心に満ちた者は大変親切になれ、自尊心の強い者はとても寛大に、また尊大な者は、自我に打ち勝ち感情のために戦おうとする時には、とても愛情深くなれるのだ。

 我々一人ひとりの中に我欲が存在することを認めて、それを自覚して克服するために定義づけをすることは、何も悪いことではない。

 魂にとって悪いのは、自我の存在を認めようとしないことだ。つまり、本当に愛し真に幸せになるために除去すべき利己的な部分を全員が持っている、という現実を認めないことである。アルコール中毒者が自覚しない限り治療できないのと同様に、認めないものを克服することはできないので、我欲を認識できないと霊的に停滞してしまう。

*あなたが、虚栄・自尊・尊大と呼んだ我欲の三つの顕現形態のそれぞれの特徴について、更に詳しく説明して下さいますか。

 いいだろう。虚栄心・自尊心・尊大という風に、最も低俗なものから巧妙なものへと、少なくとも三つの形態に我欲を分類することが可能だ。

 我々は、通常の会話の中でこの三つの言葉を頻繁に使用しているが、これから見ていくように、霊的な概念はずっと幅広く奥深く、多くの面で通常使用する意味とは異なっている。これからその一つ一つを定

義して、顕現形態を分析してみよう。

*虚栄心とはどういうもので、どんな顕れ方をするのでしょうか。

 虚栄心は我欲の最も原始的な形態だ。これは、若い魂と、知的面では充分進歩したにも関わらず、感情面ではまだ初心者の魂に特有なものだ。

 虚栄心の最大の特徴は、自分本位なことだ。特に自分が必要とすることや基本的欲求を満たすことに熱心で、他者の必要性にはほとんど、あるいは全くというほど関心を示さない。多くの場合に、他者の自由意志を侵害していることには気づかず、自分の自由意志ばかりを優先しようとする。

 見栄っ張りな人は自分が中心であろうとして、他の人達から注目されることを望む。愛をほとんど知らないので、真の愛とおだてとの違いが良く分からない。愛よりも要求が多い。それゆえ、人間関係では、愛され愛すことよりも、知名度や賞賛や賛美を求め、おだてられたり自分の要望が叶うことを好む。

 見栄っ張りな人は常に自分と他者とを比較し、いつも人よりも上位に立とうとする。能力や物的面で自分より下だと見なした者を馬鹿にしたり蔑むことが多く、自分にとって有益だとと思う人を過剰に賞賛する。

 常に自分の利益を優先し、不公平な行動を取ることが多い。そして、利己的な行為をカモフラージュしようと、しょっちゅう事実を曲げる。感情が未発達なので自分自身に不満を覚えることが多く、孤独になるのを極端に嫌う。

 他者を大いに必要とし、自分の必要性のみならず趣味や気まぐれまでを満たそうと、しばしば相手を操り思い通りにするので、周囲の人を肉体的にも精神的にも隷従させてしまうほどだ。しかし、期待する満足感が得られなければ、直ぐにその人間関係に飽きてしまう。そのため、家庭では伴侶や子ども、仕事では部下などの弱者を、自分の影響下から逃れられない所有物のように見なし、蹂躙することがしばしばである。

 自分に値すると思っていた注目が得られない場合には、被害妄想や攻撃、脅しや嘘など、思いつく限りの策を弄し、いかなる手段や代償を払ってでも、注意を引こうとする。

 この欠点が顕著に顕れると、そのネガティブな息詰まる波動で周りの人々が消耗してしまうので、虚栄心というものを知らず、どう扱っていのかが分からなければ、長時間我慢できる人など滅多にいないだろう。

 これが、彼らには知人は多いのに、余り友人ができない理由だ。誰も何もせず自分だけがどれほど頑張っていることか、としょっちゅう自慢するにも関わらず、努力が要ることには直ぐに飽きて、他者に責任を負わせようとする。

 私心なく人にさりげなく尽くすことは稀で、いつもそれを誇示し、一般的に自分の行為以上の返礼を見返りに求める。見栄っ張りな人は、善い人になるつもりはなく、そう見せかけようとしている。

*それなら、そんな人が余りいないことを願いますよ。

 実のところ、人類の四分の三はまだこの初期の進化段階にあり、君たちの世界の政治家層の一番の欠点が虚栄心なのだ。もっとも、自認できること自体がより進歩していることになるので、今話したことが自分に当てはまると言う人はいないと思うがね。君たちの惑星がこんな状態なのも、そのせいだ。

*そんな風に利己的な人と暮らすのは、耐え難いでしょうね。

 このようなものや、もっと目立たないエゴから、君自身が無関係だとでも思っているのかね? 進化していない人と一線を画そうとして、理解しかねると言い切ること自体に、君自身の我欲がチラついている。

 虚栄心の段階は、その後の自尊心と尊大という段階と共に、完全性への道程において、全ての魂が一つ残らず通過しなくてはならないものだ。

 これらの段階を超えられた者は、ある時点で自分の欠点に気づき、克服の努力をしたのであり、高次の人の見習うべき手本のお陰で、それを成し遂げることができたのだ。進化した魂たちが自分たちだけで前進して、進歩の遅い同胞を見捨てたとしたら、一体どんな愛を育んでいると言えるのだろうか?

 このように露骨な説明をしてしまうと、大変手厳しく思えるだろう。しかし私には、誰かを差別したり除外する意図はなく、君たちが虚栄心という我欲の形態を理解し、その知識を自己改善に役立てるよう望んでいるのだ。

*この場合は、虚栄心になって顕れる我欲のことですが、魂は、自分のエゴをどのように自覚して、克服していくのですか。

 通常は、自分と似たレベルの者の利己的な行為を、身を持って痛感することによる。「霊的裁きの法則」は、他者の行為を通してであろうと、各人を自分の行為と向き合わせ、自己改革のために最大の恩恵が得られるようにする。

 魂は実際に苦しむことで感受性を高め、特に自分と似通った状況を経験した他者の苦悩を、より敏感に感じ取れるようなる。その者に対して芽生える連帯感は、愛の萌芽なのだ。

*魂は、自分の行為が生み出した苦悩を必ず実体験して、それらの行為が他者に有害であった、と学ばねばならないのですか。

 いや、自分の行動が他者に与えた害を自覚でき、自分の過ちや他者の経験から学ぶことができれば、理解したことになるので、その必要はない。しかしそのためには、感受性や愛が充分に発達していなければならない。なぜなら、愛がある場合にのみ、他者の気持ちを苦悩も含めて、自分のことのように感じられるからだ。

 初歩段階の魂の場合は、自分の利己的な行為を自分自身が味わって苦しんだ方が、速く進歩することができる。一方、愛を育むことができれば、自分の過去の体験や他者の体験を理解することで、もっと速く進歩できるのだ。

*理解によって、虚栄心を克服するにはどうしたらいいのですか。

 最初の一歩は欠点を自覚することで、その次は態度を是正することだ。

 自分の欠点を認識したからと言って、それが表面化しないようにできる訳ではない。自覚し認めるだけではなく、我欲に従った行動を避け、その言いなりにならずに気持ちに従って決断するなら、我欲は次第に力を失い、最終的には克服されるだろう。自覚すれば、虚栄心がどういうものかを深く認識でき、それがどのように自分に顕れ、何によって増長されるのかを知ることができる。

 幸せになるためには周囲の注目の的となるのが重要で、皆から褒めたたえられたりちやほやされて、喜びや贈り物や注目を山ほど貰うのがいい、と信じることで、虚栄心は増大する。

 虚栄心は、幸せになるためには、物であろうと人であろうと身の周りの全てのものを所有する必要がある、と自分にも他人にも思い込ませるように現実を変えてしまう傾向となって顕れる。

 虚栄心は、進路にある全てのものを吸い込む掃除機みたいに自分に溜め込みはするが、持っているものを何一つ評価しない。それは、見たところ世界一素晴らしくそれなしには幸せになれそうにないおもちゃを買ってくれと、地団太踏んで親に要求する子どものようだ。だが、おもちゃを手に入れると、何分とも遊ばず、直ぐに飽きて壊してしまう。

 従い、感情を呼び覚ます努力をせず、自分の気まぐれを満たすことばかりに夢中でいる限り、彼らは常に不満・空虚・不幸であり、他者から愛されてもそれが分からず評価もできない。

 自分自身の努力や意志によって成し遂げることでなければ、それを本当に理解して評価することも楽しむこともできないが、虚栄心の強い者は、何に対してもほとんど努力をせず、他人が自分のためにしてくれるのを望む。

 目的を持った場合には、外見的・物質的・表面的なものが多く、魂の内面的目標であることは滅多にない。

 見栄っ張りな者は、自分で火を起こすのが面倒なので、いつも隣人の焚き火で暖を取る人に似ている。常に他人に依存し、自分自身では何もしない。自分に独自の火を起こせば、他人に頼って暖まる必要はない。この火は、霊的次元では愛の炎であり、魂を慰め暖め、進歩して本当に幸せになる力を与える。

*でも、幸せになろうとして成功を求める人は大勢いますが、彼らに言えることはありますか。

 自分自身を偽っていると言いたい。成功は虚栄心を満足させるが、感情にとっては落とし穴となる。幸福を勝ち取る唯一の方法は、自分を愛で満たすことだ。

*理解を通して虚栄心を克服するにはどうするべきかを、短くまとめていただけますか。

 いいだろう。虚栄心の強い者が欠点を克服する第一歩は、幸福は外部にあるのではなく、内面次第なのだと理解することだ。

 我々全員が学ぶべき大切な教訓は、 真の幸福とは、他者が自分を愛すかどうかで決まるのではなく、自分が愛せるかどうかによるということだ。だから幸せになりたければ、他者が自分を愛してくれるのをがむしゃらに求めるのを止め、自分自身の感情を目覚めさせるようにしなさい。

*見栄っ張りな人にはどう助言して、自己進化に役立ててもらいますか。

 他者の賞賛や慈しみ、成功や信任を得ることでは、絶対に幸せになれない。

 自分の人生に不満足で、孤独感や虚無感があるとしたら、不幸の原因を外部に探さないことだ。原因は外にあるのではなく、自分の中にあるからだ。

 満ち足りることは絶対にないので、他者の火で暖まろうとしてはいけない。他者が君のためにしてくれたりしなくなることに自分の状態が左右されないように、自分自身の炎を起こしなさい。

 利己主義は脇に置いて愛しなさい。内面の虚無感を満たす唯一の方法は、無条件に愛すことなのだ。

*今言われたことは、前に話されたことと矛盾しているようです。他者から愛されることを放棄したとしたら、どうして自分を愛せるのでしょう。

 説明が良くなかったかもしれない。愛されるのを放棄する必要はない。間違ったやり方で幸せを求めている、と言いたいのだ。天秤の片方の皿にだけ重りをかけて、均衡を保つように要求しているのだ。

*どういう意味かがはっきり分かりません。理解できるように例を示して下さいますか。

 良いだろう。世界にある全ての愛を分配するために、全人類を巨大な広場に集合させたとしよう。

 そして先ず「愛が欲しい人はいますか」と聞くのだ。すると、100%の人が「僕だ、僕だ。最初に僕だ。僕が最も必要としている」と訴えながら手を挙げることだろう。

 しかし次に「愛を与えようという人はいますか」と聞けば、広場は直ぐに空っぽになり、手を挙げようと居残る者は僅かだろう。

 分与できるものは何か? 少数の者が与える愛だけだ。

 これが君たち人類に起こっていることで、大半は愛を受け取るつもりしかないので、世界を支えているのは僅かな者の愛なのだ。しかも大半の者は、愛を受け取っているのではなく、主に我欲を満足させているだけのだ。

 我々は主体性に欠け、愛が外からやって来るのを待っているのだ。外部からの愛が、あたかも魔法のように我々に達して幸せにしてくれて、秘薬のごとく何をする必要もないと思い込んでいるのだ。

 しかし、必要なものを全て受け取っても、受身であり続けて我欲を克服しようと努めないのであれば、内面の全てを与えて君を愛してくれる存在が現れても、「まだ足りないよ。僕はまだ幸せではない。もっと愛してもらう必要があるよ」と言うだろう。そして、絶対に内面の虚しさを満たすことができないので、もっともっと、と要求するのだ。

 くれたものは決して評価せずに、貰っていないものばかりにこだわる。人生のどんなに些細な障害であろうと、文句の口実となる。朝起きた時に、曇り空なら寒いとぼやき、天気が良ければ暑いと愚痴るのだ。

 これは、幸福の求め方が間違っているからなのだ。自他に対して能動的に呼び起こす愛のみが、空虚な感覚を満たすことができるのだ。それゆえ、幸せになるためには、愛を受け取るだけではなく、愛を与える必要があるのだ。

*虚栄心の問題に戻りますが、虚栄の段階にいる全ての人に同じ特徴があるとは言えないと思うのですが。

 同じ特徴ではなく、虚栄には様々な段階がある。

 虚栄の初期の段階では、我欲は、強欲(自分の持っているものを他者と分かち合いたくない)、貪欲(他者を犠牲にしてもどんどん欲しがる)、羨望(自分が欲しがる物的なものを持つ人を拒絶する)といった、より原始的で物質的な顕れ方をする。

 魂が感情面を認識して進歩した次段階では、物質的な利己心は、霊的なものへと変化する。この段階での魂は、まだ我欲にしがみついてはいるが、同時に感情も発展させ始めている。まだ愛を与えようとはしないが、愛の存在を認知し心地よいと分かっているので、愛を受け取ろうとする。

 強欲が執着(特定の人からの思いやりや愛を他者と共有したくない)に変わるのはこの時で、貪欲は独占(皆が自分だけに注目して優しくしてくれるのを望む)に変わる。一方、羨望はもっと上手く化けて、自分にはないが欲しいと思う美徳を持つ人達に対する反感へと変わる。

 感受性が強くなって正義の概念はもっと発達するものの、我欲から離れられていないため、損得が絡むと、故意に自分の得になる不公平な行動を取ることが多く、自覚している分だけ余計に罪深いと言える。

*根本的にどのように進歩すれば、虚栄心の段階を克服したと言えるのですか。

 虚栄と自尊とを区別する主な進歩は、魂の愛を目覚めさせることである。

 虚栄心の強い者は一方的に愛を受け取るだけだが、自尊心の強い者は、もう愛の送り手となれる魂である。それは、かなりしっかりと主体的に、本当に愛すことができる能力を獲得したことを意味する。

*虚栄心の強い者は愛すことができない、または愛を体験したことがない、ということですか。

 もちろんそうではない。全ての魂は愛すことができる。実際、自尊心のレベルに達した魂は、全てがそれ以前に、虚栄心の段階を経ている。

 また当然のことながら、一夜にして愛の発信者となったのではなく、愛の炎を灯すか消すかという、感情の発露とエゴとの葛藤が長く続いた期間があったのだ。

 虚栄心の強い者の炎は弱く、絶えずついたり消えたりを繰り返す。感情面で努力する確固たる意志に欠け、利己的な気まぐれを満たすことにまだ一生懸命なので、炎を育むことに力を注がないのだ。

 別の言い方をすると、虚栄心の強い者がまだ自分の炎を灯せず活性できずに、他者の火で暖まろうとする一方で、自尊心の強い者は、すでに自分の内面の炎を起こす方法を発見している。また、その火が力強く燃える時に生じる真の愛の片鱗を認識し経験したことがあるので、より鮮明な体験ができるように、確固たる意志で炎が消えないように努力している。

*魂はどうやって、自分の火を起こす方法を学ぶのですか。

 自分自身の体験と、進化した魂たちを手本にして学ぶのだ。

 虚栄心の強い魂は、通常、身近に転生した愛の送り手となるもっと進化した魂によって、手ほどきを受ける。それは自分の伴侶であったり、父親や母親、息子や娘、兄弟や姉妹などの家族である。多くの場合、他者が自分に尽くすことに慣れ切っている進化の遅い魂は、その時点では与えられていることを自覚できずに、もっともっとと要求し...遂には失う羽目になる。

 その時になって失われた愛を懐かしみ、かつての愛を再び味わいたいと願い、愛されていたのに評価できなかったことを自覚し認識し始める。この欲求によって、自分をそれほど愛してくれた人達に対する最初の感情が芽生え、それが以後の転生に持ち越される。つまり、人が愛を与えられるようになるには、最初に愛を受け取れなければならない。

 要求ばかりしていた魂は以後の転生では、自分より進化の劣った者と身近に共存する体験を課され、過去に他者に求めたのと同じように要求されるであろう。こうして、他者の利己的な行為の中に自分のエゴを認識し、自分自身と向き合うことになるのだ。

 この学習は、愛の受け手または送り手という、主な役割を転生ごとに交代しながら、数え切れないほど継続することもある。送り手として与えれば与えるほど、受け手として受け取れるようになる。

 愛の道を歩むのか、それとも我欲の道を続行するかは、魂の意志次第なのだ。

*虚栄の段階を超えた魂は、他にはどんな進歩ができたことになるのでしょうか。

 虚栄心から充分に解放され、完全に自尊の段階に入った魂が成し遂げたことを大まかに説明しよう。それは、しっかりとした愛の送り手になり、感情を理解できる魂になったことで達成できたものだ。

 先ず、正義の概念がもっと進歩している。自尊心に達した人は、外見的なものよりも本物で公正なものに気づいている。一般的に気位の高い者は、より公平に行動する。不平等になりそうな場合は、自分が得しようとはぜず、他者が被るであろう損害も考慮して決断する。

 もはやちやほやされたいとは思わず、真に愛され愛すことを求める。

 気位の高い者が獲得した見栄っ張りとは反対の資質は、控えめになることであり、目立つことはしようとせずに、公正で寛大であることに満足を覚える。

 自尊心の強い者は、自分が愛する者には寛大である。それゆえ、人間関係においても注目の的になろうとはしない。百の表面的なつき合いよりも、一つの本物の友情を望むのだ。

*気位の高い人は、見栄っ張りな人よりも霊的に進化しているので、進化の仕方も速いということでしょうか。

 そのようなことはない。進化の速度は、我欲から脱却して愛そうとする、魂の意志と力のかけ方によるのだ。

 自尊心の強い者でも進化が止まってしまって、多くの転生で停滞したままになることもあるし、虚栄心に満ちた者でも大いに努力して、素早い進歩を遂げることがある。

 だが、感情面の知識や自覚が大きいので、進化した者の方が能力があることも確かだ。彼らは進化しようとする意志がより一層固く、停滞すると苦しみが募るので、その不快感に後押しされて前進する。

 多くの転生経験を持つ進化した魂と、まだ若く余り進化していない魂とを比較することは、七歳の子どもと十五歳の若者に同じ知能検査をして、その結果の有効性を信じることのように、馬鹿げている。七歳の子がどんなにIQが高くても、普通は十五歳の方がいい結果を出すだろうが、それは、その子の方が年上で学習にかけた時間が違い、肉体的にも精神的にももっと発達しているためで、比べることには何の価値もない。

 それゆえ、他者と進化度合いの比較はするべきではなく、自分自身が前回からどれだけ進歩できたのかを比べるべきだ。進化のレベル差は、どれだけ速く学んだかだけで決まるものではなく、魂がどれだけの時間をかけて進化してきたのかにもよるからだ。

 霊的な年齢は人それぞれだが、一般的には、古い魂の方が若い魂よりも進化している。それは進化にかけた時間がその分長いからだ。

 しかしながら、若い魂が大変速く進歩して、自分より年上の魂を追い抜くという特別なケースもあるし、その反対に、大変古い魂が霊的に長時間停滞してしまって、もっと若い世代の魂に追い抜かれるということもある。

*進化レベルと進化速度との違いがはっきりする例を出していただけますか。

 同地点からスタートする二台の車のうち、一台が、もう一台よりも一時間早く出発するようなものだ。初めは二番目に発車する方が遅れているが、もっとスピードを上げれば、いずれ一台目に追い着けるだろう。

 走った距離が魂の進化レベルに相当し、速度がその時々の進化のリズムだ。

*自尊心の問題に戻りますが、自尊とは何で、どういう顕れ方をするのでしょうか。

 自尊心の強い者の最大の問題は、他者に感謝されなかったり、利己的に振舞われたり、愛してもらえないことを、なかなか受け容れられないことだ。特に、愛情の絆を築いてしまった場合は、そうすることが難しい。

 気位の高い者は、自分を愛してくれる者は容易に愛せるのだが、自分を愛してくれない者を愛すことがまだ難しい。そのため、自分が好きな者を在るがままに認めようとはせず、その美徳にも抵抗があるが、特に欠点は認めがたい。

 また、自分の考えが間違っているかもしれないと認めるのが、本当に難しい。
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1 コメント

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想像主が愛そのものなら全能なんだから助けるだろ... (通りすがり)
2013-06-16 12:09:30
想像主が愛そのものなら全能なんだから助けるだろうが普通。
まさに空理空論。
馬鹿馬鹿しい

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