観音様がみている
佛さまが見ている
みんな見ている
ちゃんとみている
とは、
故相田みつを氏の書の言葉である!!
何の事はない。みんな同じ事、同じ道理、同じメカニズムの話であろう。
『人にウソはつけても、自分にはウソがつけない。』のである。心の構造は、物理化学的には解明しきれるものではない。それは心理学とて同じであろう。
唯物論ではとうてい説明できないものである。
それは単純な論理だ。
物が発生するには、物たらしめようとするエネルギー(念)が先にある。それがサイエネルギーというものだ。精神エネルギーとも言う。
出来た物を、いくら切り刻んでもその元が解明できるわけがない。知恵者は、その元を類推するに止まるだろう。元とはエネルギー(念)である。これを神と言う者もいる。創造主と言っても良いし、サムシンググレートと読んでも同じ事だ。
それと同じで、お天道様と呼ぼうが、観音様と呼ぼうが、佛さまと呼ぼうが、本質は同じ事だ。それりゃ、その道の専門家はそれぞれがそれぞれに微妙に違いがあると言うだろうが、専門家でない一般人は、同じ事だと解釈して差し支えがない。
つまり、
人間は、何を思い、何をするかという根本的出発点は、自らがすべてを自覚するように出来ていると言う事である。だから、いくら黙秘権を使っても、自分の思った事、自分のした事は言い逃れできない。
黙秘権が通じるのは、他人に対してだけである。
他人からは、いくらでも逃げる事が出来る。しかし、自分からは決して逃れる事は出来ない。これが自己責任という奴で、一生付きまとうし、一生どころではないだろう。多生にも付きまとう。
多生など信じない者は、愚かである。
今生限りなどと、高をくくっているととんでもない事になる。大体化けて出てくるの様な類は、今生で、高をくくっている類である。そうでなければ化けて出る必要はない。
唯物論者でも、いきなり幽霊に出くわすと腰を抜かす。本来、唯物論者は、幽霊などと言う者を信じない者であるはずであるから、恐れるに足りないはずであるが、99%腰を抜かす。心の深層がそれを知っているからだ。
心の深層と言ったが、ユングのいう、深層心理と言っても同じ理屈であるが、深層心理などと言う領域を発明する事からして、唯物論者は執拗だ。どちらかというと深層心理が先で、表層真理が後ぐらいは、ものの理屈というべきだが、物から解こうとするからこういう事になるのである。
脳科学などとなると、偏執とも言うべき偏執科学だ。科学からして偏執と言うべきであるが、それを言うと科学万能の時代、こちらが偏執狂と言われかねないから、差し置くが、脳科学が、すべての思いを物理化学的に解明しようとしている。
言わば、とってつけた屁理屈である。
屁理屈でも、簡単な理屈は解明できたように見える。しかし、奥義は踏み込めない。だから、簡単にウソをつく事が出来る。そのウソを本人は知っているのである。それは脳が知っているののでは決してない。心が知っているのである。
その心が、あたかも脳にあるかのようなウソを吐く。しかし、本人は知っている。眠っているとき心が悩むのである。本来、脳に心があるのならば、眠っているとき人は悩む必要はないし、そもそも悩む機能など不全であるはずだ。
悪夢はそうして起きる。
それと同じで、唯物論者も幽霊を怖がる。怖がらない唯物論者を、私はかつて見た事がない。寧ろ、幽霊を信じている素直な人間は、怖がらない。
何故って?
生きてる人間は、肉体を持った幽霊である事を自覚しているからだ。幽霊は肉体を失った人間である。それだけの違いであって、寧ろ、生きてる人間が、少なくとも今生においては、生体システム的には完全である。
幽霊は、不完全生体システムで今生に彷徨っている存在で、文字通り、迷っている人間だ。そんなものは屁のかっぱと言うべきだ。実体は半分無いのであるから、怖れるには足らない。
寧ろ、哀れな存在だ。供養すべき存在だ。
因みに、供養とは手向ける事を言う。手助けする事を供養というのである。
だから、供養は化けて出ないようにする手向けである。
話が、少し、逸れてしまったようであるから、戻す。
誰しも、善意の第三者と言うべき存在が、心には内在している。これを良心と言っても良いし、本心と言っても良いであろうが、それが常に今生の表面意識を監視しているのである。表層意識と言い換えても良いが、深層意識と言うにはあまりに無礼千万な存在だ。
心理学では、深層意識が表面意識の従たる存在かのように捉えがちであるが、寧ろ、良心の方が上である。監視しているものが上である事は当たり前である。
それが見ていると言う事だ。そうではない人間は居ない。それをお天道様と呼んでいるのである。観音とは、音を観ると書く。音とは振動である。すべては波動している。物質とて同じだ。すべてを観ている事を観音という意味であるから、観音様は偉い。
しかし、
意味は、漢音様は心の中にある一つの機能であると考えれば分かり易いであろう。神は心の中におわしませる。この一言で足りる。
だから、他人にウソはつけても、自分にはウソがつけないのだ。
すべてはお見通しであるから、お見通しの存在が、『最後の審判』をするのである。それを逃れる術はない。『最後の審判』は、自分自身がするのと同じであるが、自分自身とは何か? それが分からないから、天にまします神さまと言う話になる。
自分自身は分かる事を、『悟り』と言う。立心偏に吾と書いているではないか?
ウソを吐くと、鬼が裁くのではない。鬼の形相で、自分自身の良心が裁くのである。このことを言いたいために、とりとめもなく書いた。以上!
たまには良いだろう・・・・。
僭越ながら、ちょっと、補足します。
漢字の「罪」という字は、漢和辞典によると、もともとは、自分の「自」が上で下に「辛」と書いていたのだそうですが、秦の始皇帝が皇帝を名乗るにあたって、「皇」の字とよく似ている、もともとの「自」に「辛」から「罪」に変更させたのだそうです。
「自」に「辛」って。。。
まさに、「自分自身が辛く感じることが、罪」つまり、「良心の呵責を感じるようなことは罪」とか「自分自身を偽って、辛く感じるようなことをするのは罪」ってことなんじゃないかと、漢字自体が、きちんと表していたんだ、ということを知り、驚くとともに、人の叡智の奥深さを感じたのでした。
自分を省みれば、ウソをつく自分の反対側でそんな自分を傍観する自分がいます。
感情が高ぶっている場合はその反対側の自分に気がつかないことが多いですが、もしも顕在意識(表層意識)と潜在意識(深層意識)が常に繋がっていて顕在意識の価値観で人生を生きることができたとすれば、自分を含めて人はこんなにも愚かにはならないことでしょう。
馬鹿は死ぬまで治らないとよく言いますが、ある意味では真理ではないかと思います。
死んだ後で気がついても後の祭りであり、生きている間にいかに本当の自分(深層心理の望む生き方)に気がつくことができるか、という意味では。
死んだら終わりと考える方も多いでしょうし人それぞれの価値観りますが、どのような考え方であっても「自分にウソはつけない」というのは当てはまるように思います。
この場合の自分というのは深層心理であり、万物が共有する意識ということになると思いますが、もしもこの世が一切のウソがつけない世の中であれば、人は自分の愚かさに気が付き直ちに己を正すことができるのではないかと思います。
誤→もしも顕在意識(表層意識)と潜在意識(深層意識)が常に繋がっていて顕在意識の価値観で人生を生きることができたとすれば
正→もしも顕在意識(表層意識)と潜在意識(深層意識)が常に繋がっていて潜在意識の価値観で人生を生きることができたとすれば
誤→死んだら終わりと考える方も多いでしょうし人それぞれの価値観りますが、
正→死んだら終わりと考える方も多いでしょうし人それぞれに価値観は変わると思いますが、
人は騙している時、「その顔」になっています。
気の毒に思います。
結局、自分に裁かれるのだから、と。
「神は誰をも裁かない、裁くのは己のみ」でしょうね。