『シオンの議定書』第五議定書注釈
【第五議定書注釈開始】ここからは、第五議定書(下記転載文書)の注釈に入る。この第五議定書では、『いたる所で腐敗が広まっている社会、富者
だけが詐欺同然の悪賢い奇策に富んだ社会、たるみ切った社会、道徳が進んで守られるのではなく、懲罰厳罰によって維持される社会、信仰心や愛国心が無国境
主義的信念に一掃された社会』が、彼ら(シオニストユダヤ人)によって作り出したモノであることを、言わずもがなで語っている。戦争も犯罪も、そして、諸
々の社会の混乱の基は、彼らの策略である。それは、彼らによる専制支配を促す前提であるとし、彼らがその選民であると断言する。神=バフォメット
(Baphomet悪魔)なのだが、彼らはその選民であるとの認識である。それを神という、これは最早『哀れ』としか云いようがない。
どのように、専制権を獲得し、維持していくか、事細かに曝露しているが、まさしく現代の政治経済の縮図である。そして、その要は資本=金力と
しているが、それこそ、彼らが創出した経済学であって、まやかしのモノであることを見て取れる。それを金科玉条とするのは余りに愚かしいことである。目覚
めた者は、原点から見直さなくてならない。
『通貨の本質』『社会制度の本質』『政治の本質』『統治者について』そして『神』....。一旦、頭を入れ替える必要がある。そうでないと、彼らの思うつぼだ。
そして何よりも、彼らにつけ込まれる心魂を見つめ直さねばならない。結局、欲に釣られて、彼らの思うつぼに嵌っている自分自身につて、悔い改めねばならない。【注釈終了】
【転載開始】『シオンの議定書』第五議定書
いたる所で腐敗が広まっている社会、富者だけが詐欺同然の悪賢い奇策に富んだ社会、たるみ切った社会、道徳が進んで守られるのではなく、懲罰厳 罰によって維持される社会、信仰心や愛国心が無国境主義的信念に一掃された社会に、どんな種類の統制支配なら適用できるか? あとで述べるような専制支配 以外に、どんな支配形態ならこのような社会にあてはめられるか? われわれは社会の全勢力をこの手に掌握せんがため強力に集中化した政府を樹立しようと思 う。われわれは新たな法律によって、国民の政治生活すべてを手加減することなく律しようと思う。それらの法律は、ゴイムが許してきた寛大とか特典とかを一 つづつ全部取り潰すだろう。いかなる時にもいかなる場所でも、行動や言葉でわれらに盾突くゴイムを一人残らず一掃する立場で臨み、専制ということの強力さ を遺憾なく発揮するのが、わが王国の特徴である。
私が述べているような専制は、時代の推移にはそぐわないという意見も聞くが、事実は正反対であることを証明しよう。
人民が王は神の意志を純粋に体現した者だと見ていた時代には、なんの不平不満も鳴らさずに王の専制権力に従った。だが、人民には権利というもの があるという考えをわれわれが彼らの心に植えつけてからは、彼らは王座に座る者を単に普通の人間とみなし始めた。〝神権による王〟の聖油は人民が見ている 前で王たちの額から消え失せてしまい、われわれが人民から信仰心を奪った時に、権力の強力な力は飛び散って公共の所有権となり、われわれがそれを押収した のである。
加えるに、巧妙に仕組まれた学説と詭弁により、社会生活の制約やその他ありとあらゆる方便により、あるいは、ゴイムにはまるで解らない手段を動 員して群集や個々人を支配する技術は、他の技術と相並んでわれらが支配の中枢である専門家がもともと手中にしていたものである。分析、観察、精緻な計算に 育てられ、この種の熟練技術に関してはわれわれには肩を並べる者がいないこと、練り上げられた政治行動と固い結束のどちらかではわれわれの競争相手がいな いのと同じである。いるといえば、イエズス会だけはわれわれと比べられるだろうが、われわれは無分別な群集の目には見える組織として存在するとは信じられ ないように工夫してきた。その裏でわれわれは終始一貫秘密の組織を維持し続けてきた。カトリックの首領であろうとシオンの血を受けたわれわれの独裁者であ ろうと、専制君主は専制君主であることに変わりはない。が、神の選民であるわれわれにとっては、このことは無関心ではいられないのである。
ほんの一時は、われわれが全世界のゴイム連合にうまくしてやられることもあったやも知れぬが、ゴイムの間には今では決して取り返しのつかぬほど 深く根を張った不一致があるので、われわれはついぞ危険にさらされずにいる。われわれは、ゴイムを宗教的・人種的憎悪によって個人も国民も対立反目応報を 繰り返すように仕組んだ。
このことを過去二千年にわたって営々と積み重ねてきたので、手が付けられないほど劇しいものになっている。これが、われらに腕を振り上げたとし ても、支持してくれる国はどこにもただの一国もない理由である。われわれに対抗する同盟を結べば自分が不利になることを、どの国も肝に銘じているからであ る。われわれはあまりにも強力である・・われわれの力を逃れおおせるものはない。国家はわれわれの蔭の関与なしには、ほんの些細な協定を結ぶことすらでき ないようになっている。
Per Me reges regnant.(王は我によりて支配する)。預言者たちによれば、われわれは世界のすべてを支配すべく神自身に選ばれたのである。神はわれわれがこの使 命を遂行できるように、われわれに天与の才を授けられた。仮に反対陣営に天与の才が授けられたとしたら、われわれに闘いを挑んでいたであろうが、駆出し者 というものはしょせん古くから定着している者には太刀打ちできない。われわれと彼らのと闘いは、この世が始まって以来見たこともないような熾烈を極めたも のとなったであろう。さよう! 彼らの天才は現われるのが遅過ぎたのである。すべての国家機構を動かす車輪はエンジンが駆動する。エンジンはわれらの手中 にある。国家機構のエンジンとは・・金である。わが学識ある長老たちが創造した政治経済学は、長期にわたって資本に君主のような威信を与えてきた。
資本、それが束縛なく相携えて力を発揮するには、存分に工業と商業の独占がはかられねばならぬ。そのことはすでに世界のあらゆる隅々で、見えざ る手によって実践に移されていることであり、そのことは人民を圧迫する助けとなろう。今日では、人民を武装解除させることは、戦争に赴かせることよりも重 要である。さらに重要なことは、われわれの都合からいえば、人民の焔を抑えることよりも燃え上らせることである。さらに重要なことは、他人の考えを根絶す るよりは、その考えをすばやく掴みとり、われわれに都合がよいように翻案することである。われわれの役員会が採択している原理に次のことがある。非難に よって大衆を意気阻喪させること、抵抗心をかき立てるまじめな思考をさせないようにすること、心の力を空理空論の論争にそらさせること。
いつの時代でも世間の人民は、個人も同様であるが、言論と行動とを混同してきた。競技場で見ることに満足しているが、約束されたことが実行され ているかどうかを考えてみようとする者はめったにいなくて、もっぱらショーを見るだけで満足している。そこでわれわれは、人民の利益が進歩に向っていると 声高く証明するショー団体を作るだろう。
われわれは、あらゆる問題について、リベラルな顔つきを装おって全政党に入り込み、聞き手が嫌になるほど喋り立てて、弁論に対する嫌悪を植え付けるだろう。
世論をわが方に引き寄せるには、あらゆる角度から意見続出させ、相反する説をいくつも並べ立て、ある期間、十分ゴイムの頭を迷路に迷い込ませ て、一番いいのは政治上のことには何も意見をもたないことだと思い至らせなければならない。政治のことは一般大衆には解らない。なぜなら、大衆は自分たち を導く者を通じてしか理解できないからである。これが第一の秘訣である。
統治に成功するのに必要な第二の秘訣は、次のことにかかっている。すなわち、広い範囲にわたり国民の欠点、習慣、情欲、市民生活の状態を増殖さ せ混沌に陥れ、その中にあっては自分がどこにいるのか見当がとれない有様にさせると、その結果、人民相互の理解ができなくなる。これこそ別の意味でわれら にとっては有利なこととなる。すなわち、諸党派の中に軋轢の種子を蒔き、まだわれわれに従わおうとしない集団を撹乱し、どの程度のものであれわれわれの仕 事を妨害するような個人の企てに対して片っ端から気勢をそぐことになるのである。個人の企てほどまたとなく危険なものはない。その裏に天才があろうものな ら、このような企ては、われわれが軋轢の種子を蒔いた人民何百万人にも勝る力を持つのである。われわれはゴイム社会の教育を指導する際には、彼らが何か創 意を示す徴候があれば、いつでも気力を失って絶望してしまうように仕向けなければならない。自由奔放な活動というものは、別の自由奔放さに出会うと無力に なる傾向がある。衝突すると、容易ならぬ精神的打撃、失望、意気消沈が起こる。これらありとあらゆる手段を駆使して、われわれはゴイムを疲労困憊させたあ げく、国境を越えた現実の力をわれわれに提供せざるをえなくなるだろう。その現実の力は、いかなる暴力も用いることなく、世界中の国家支配力を次第に吸収 して、超政府を形作るのである。今日の支配者たちに代わって、われわれは超国家管理機関という怪物を設けるであろう。その手は鉗子のようにあらゆる方向に 伸び、その組織は巨大な規模に広がり、世界中の人間という人間を制圧せずにはおかないだろう。【転載終了】