山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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戦国の争乱と榛名地域(榛名町史)③

2016-04-19 19:56:26 | 歴史資料
長野氏の関連した寺、長純寺

長純寺、長野氏の子孫の方のお話では、この地域で(箕郷町周辺)長の付く寺は長野氏が創建したと考えてよいとのこと。
長純寺地図
箕輪小前の信号から県道126号線でふれあい公園に進み、城見橋のバス停から南に市道を右折し突き当たって右折すれば寺に着きます。

お堂の右の裏手に業政公墓所の案内があり、墓地を抜けて

駐車場をも抜けて上に行くと梅林の(箕郷町は梅で有名です。)間に見えてきます。

現在も大切に整備されています。長野業政は今でも地域では尊敬されている武将です。

石の供養塔
次回 大円寺近くに葬られた業盛の墓所

長享の乱と長野一族
都鄙の和睦は、その後も紆余曲折がったものの、文明十四年にようやく実現し、上杉氏と成氏との対立は解消した。ところがここで新たな対立が生じた。これまでともに提携して成氏と戦ってきた山内上杉氏と扇谷上杉氏との対立である。その切っ掛けとなったのが、文明十八年(1486)七月二十六日に起こった扇谷上杉定正による太田道灌の謀殺である。この時、道灌は「当方(扇谷上杉家滅亡」と最後の声を発したと言われる。)
 道灌の暗殺の背景には、扇谷家内の内訌とそれに絡む山内家と扇谷家の対立があった。扇谷家では長尾景春討伐によって影響力を広げた道灌を妬み、除こうとする曽我氏らの勢力があり、定正がそれに乗ってこの挙に及んだものである。一方山内家はこれまで目下に見ていた扇谷家が、道灌らの活躍によって力を伸ばしたことに危機感を高めていた。両家の対立は、それぞれの重臣らも巻き込んで抜き差しならぬ段階に達していた。実際、道灌暗殺直後に相模など南関東では所々で紛争が起こったという。
 山内方でも直ちに対応策が取られた。「北国紀行」によると尭恵が同年十月二十日に上野国府に赴き、長野陣所に入ったが、ここは「軍兵野にみてり」という状況であった。長野陣所は長野氏が設けた陣営である。また、長野顕忠の陣所もあり、そこで尭恵は歌を詠んでいる。上野府中付近に山内方の武将たちが事態の急変に備え、軍兵を駐屯させていたとみられる。
 この後、両上杉家の対立は遂に戦いに発展する。長享の乱の勃発である。扇谷定正は古河公方足利政氏と結びつき、山内家臣の足利長尾氏を切り崩して、陣営に引き込んだ。これに対し、山内家は十一月に足利長尾氏の居城勧農城(栃木県足利市)を攻めた。
 その後、両者の抗争は本格化し、翌長享二年には、二月三日の実蒔原合戦(神奈川県伊勢原市)、六月十八日の須賀谷原合戦(埼玉県比企郡嵐山町)十一月十五日の高見原合戦(埼玉県比企郡小川町)が起こった。が、雌雄決するまでには至らなかった。その後も両軍は相模・武蔵で戦いを繰り返すが、延徳二年(1490)十二月に一旦和睦が成立した。

つづく



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