後半は,理論的な問題点の指摘だ。共謀罪は,私達が一生懸命勉強し,いまも,多くの司法試験受験生,ロースクール生が勉強している理論と本当にかけ離れている。教授の皆様,本気で反対して下さいよぉ。成立したら,いままで教えてきたことはどうなるんですか?
■■引用開始■■
三 理論的な問題点
1 行為主義違反
第二に、共謀罪は、近・現代の刑法の諸原則に反する可能性が高い。
まず、最初に指摘しなければならないことは、伝統的な刑法理論が前提としてきた「行為原理」に反するということである。
行為原理とは、「処罰の対象は社会を侵害する行為に限られる。」という原理をいう。この原理の意義は二つある。一つは、処罰の対象は外部に表れた「行為」に限られ、思想は処罰されないとする原則で、憲法一九条と表裏をなすものである。もう一つは、外部的に表れた「行為」であっても、それが社会に害を与えるものでなければ処刑されないという原則である。ここで、「社会に対する害」とは、一般的には、社会を構成する個々人の権利・利益の侵害及びその危険を指すものと解されている。
ところが、共謀罪は、とりわけ「実行に資する行為」「実行に必要な準備」を要しない政府案では、「共謀」、すなわち、「合意」のみで完成する。そうであるとすれば、この法案は、上述した行為原理の二つの意義に照らして問題がある。
すなわち、第一に、共謀罪が思想ないし内心を処罰するのではないかという疑問がある。これに対して、政府は、「合意」という外形的事実があるから行為原理違反とはならないと反論する。しかし、問題は、「合意」という現象それ自体は、日常的な出来事であって、外形的には何ら社会侵害的な作用を持たないということである。すなわち、共謀罪の可罰性は、合意の内容という人の内心に依拠しているのであって、外形的に犯罪的意味を持ちうる行為を構成要件要素として要求しない限り、行為主義の第一の意義に反することは明らかである。
第二に、たとえ「犯罪行為」の「共謀」であったとしても、それが外部に向けて発せられない限り、社会に害を与えるものではないという問題がある。確かに、「犯罪行為」の「共謀」は望ましいものではないが、合意の内容が外部的に明らかにならない限り、それは社会に対する有害なメッセージとはならない。合意は、本来、当事者間のプライバシーの領域にあるものであって、それだけでは社会に作用するものではないのである。そうだとすれば、共謀のみを処罰することは、行為原理の第二の意義にも抵触する。
このような問題は、既に日本政府自身が自認してきたところであり、現に、当初は、「すべての重大犯罪の共謀と準備の行為を犯罪化することは我々の法原則と両立しない。」との意見が出されていたのである。日本政府は、その後、対象となる重大犯罪の範囲が限定され、組織犯罪集団の関与を条件に付すことが可能となったことを理由に、突如として共謀罪新設に積極的に取り組むようになった。しかしながら、「対象」が限定されたとしても、「行為」に関する行為原理との抵触は解消されない。そもそも刑法典その他特別法に規定されている陰謀、共謀の処罰ですら、問題をはらむものであるのである。それを、あえて拡張する理由はどこにもないのである。
2 構成要件の不明確さ
次に指摘しうるのは、共謀罪の構成要件が極めて不明確(ないしは広範)であるということである。
共謀罪の構成要件メルクマールは多岐にわたるが、その中核をなすのは、「共謀」という概念である。これについては、酒場で犯罪実行について意気投合し怪気炎を上げただけでも処罰されるのではないかという懸念が示されているところ、法務省は、「特定の犯罪の遂行」の具体的・現実的「合意」が必要であるという理由で、この程度で処罰される危険はないと説明している。
しかし、このような法務省の説明は、欺瞞に満ちている。法務省の説明は、合意の内容が限定されるというだけであって、共謀の態様については何ら触れるところがない。現に、政府自ら、共謀罪の「共謀」は、共謀共同正犯の「共謀」と同じであり、場合によっては、目くばせでも成立すると説明しているのである。そうであるとすれば、「合意の内容」の立証いかんによって、露骨な言い方をするならば、自白の取り方いかんによって、酒場で怪気炎を上げる行為も処罰の対象となり得るのである。
しかも、問題を合意の内容に移してみても、実は、法務省が説明する限定解釈の手がかりは存在しない。すなわち、伝統的な共謀共同正犯理論では、共謀は、黙示的なものでもよく、順次共謀でもよいとされている。しかも、共謀の成立にあっては、必ずしも共謀者全員が犯行の細部にわたって認識していることまでは必要とされないとされているのである。このように、共謀共同正犯における「共謀」は、法務省の説明とは異なり、具体的、現実的でなくてもよいと解されており、そうであるとすれば、法務省の主張は、「共謀」という文言を限定解釈しなければ成立しないものである。しかし、これを限定する手がかりは、法文上、全く存在しないのである。
その結果、共謀罪は、「共謀」という文言を字義どおり適用すると法務省自身が懸念するように広範であるのに、縮小解釈の手がかりがないという避退窮まった事態に陥るのである。
3 刑の不均衡
さらに、共謀罪については、処罰の不均衡をもたらし、耐え難い法体系の矛盾を引き起こす。
すなわち、共謀罪については、死刑又は無期若しくは長期10年を超える懲役若しくは禁錮の刑が定められている罪の共謀に対して5年以下の懲役又は禁錮、長期4年以上10年以下(民主党案では長期5年を超え 10年以下)の懲役又は禁錮の刑が定められている罪の共謀に対しては2年以下の懲役又は禁錮が科されているが、現行刑法典には、殺人、放火、強盗等について、2年以下の懲役を定める予備罪の規定が存在する。これは、害悪が具体化した方が刑が軽いことを意味し、不当である。
さらに、共謀罪の保護法益が、法務省の説明するとおり、共謀に係る犯罪と同じであるとすれば、共謀が予備段階に達すれば、共謀罪は予備罪に吸収されると解さざるを得ないが、そうすると、予備罪のある犯罪については、共謀で思いとどまるよりも、予備まで実行した方が有利になる。これは、共謀者に対し、予備行為を実現させる動機にもなりかねず、極めて問題である。
他方、刑の不均衡を回避し、犯罪への動機付けを否定しようとするならば、予備段階に至ったとしても、共謀罪は独立して成立すると解さざるを得ないが、このような解釈は、伝統的な予備、未遂、既遂の解釈を根底から覆すことになろう。さもなければ、共謀罪の保護法益は、共謀に係る犯罪と異なると説明せざるを得ないが、これは、法益に関する法務省の説明と矛盾する。いずれにしても共謀罪は、法体系に矛盾をもたらすのである。
4 自首減刑の問題点
最後に、共謀罪には、実行前の自首により刑が必要的に減軽又は免除されるとする規定がある。しかし、この規定にも、重大な問題がある。
既に、共謀罪に反対する論者が繰り返し指摘しているように、この規定は、密告を奨励することになりかねない。すなわち、共謀罪は、2人以上の者が特定の犯罪の実行を合意することによって成立する。したがって、共謀者の1人の自首は、必然的に他人の犯罪の申告を伴うこととなる。結果として、自首をした者は、いわば、他人を国家に売り渡して刑の減軽、免除を手に入れることとなる。これは、他人の犯罪の申告義務を課すに等しいが、このような義務付けに対し、社会の承認を得られるかは難問である。
さらに、自首規定は、予備や中止未遂規定との不均衡をも生じさせる。すなわち、共謀罪は、共謀によって既遂となる犯罪であるから、論理的には中止未遂の適用はない。そうすると、実行に着手した者は、結果を防止するだけで別の必要的減免を受けられるのに、共謀罪の場合は、自首を要することとなる。
また、予備については、強盗予備を除いて、任意的な刑の免除が認められているから、共謀罪との不均衡は明白である。これも、場合によっては、「共謀までしたなら、予備、着手してから中止した方がまし」ということになりかねず、我が国の法益保護にとって逆効果である。
なお、民主党の修正案や与党の再修正案は、自首の対象を限定しようとしている。これは、密告奨励という批判に対応するものと解されるが、対象となる犯罪については、同様の危険が依然として存在する上、軽い犯罪の方が必要的減免の範囲が狭くなるという矛盾をもたらすことにもなる。重要なのは、自首減刑の対象を限定することではなく、端的に、共謀者が任意に犯罪の実行を放棄又は結果を防止し
たこと(いわゆる行為による悔悟)を刑の必要的減免事由とすることである。
■■引用終了■■
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三 理論的な問題点
1 行為主義違反
第二に、共謀罪は、近・現代の刑法の諸原則に反する可能性が高い。
まず、最初に指摘しなければならないことは、伝統的な刑法理論が前提としてきた「行為原理」に反するということである。
行為原理とは、「処罰の対象は社会を侵害する行為に限られる。」という原理をいう。この原理の意義は二つある。一つは、処罰の対象は外部に表れた「行為」に限られ、思想は処罰されないとする原則で、憲法一九条と表裏をなすものである。もう一つは、外部的に表れた「行為」であっても、それが社会に害を与えるものでなければ処刑されないという原則である。ここで、「社会に対する害」とは、一般的には、社会を構成する個々人の権利・利益の侵害及びその危険を指すものと解されている。
ところが、共謀罪は、とりわけ「実行に資する行為」「実行に必要な準備」を要しない政府案では、「共謀」、すなわち、「合意」のみで完成する。そうであるとすれば、この法案は、上述した行為原理の二つの意義に照らして問題がある。
すなわち、第一に、共謀罪が思想ないし内心を処罰するのではないかという疑問がある。これに対して、政府は、「合意」という外形的事実があるから行為原理違反とはならないと反論する。しかし、問題は、「合意」という現象それ自体は、日常的な出来事であって、外形的には何ら社会侵害的な作用を持たないということである。すなわち、共謀罪の可罰性は、合意の内容という人の内心に依拠しているのであって、外形的に犯罪的意味を持ちうる行為を構成要件要素として要求しない限り、行為主義の第一の意義に反することは明らかである。
第二に、たとえ「犯罪行為」の「共謀」であったとしても、それが外部に向けて発せられない限り、社会に害を与えるものではないという問題がある。確かに、「犯罪行為」の「共謀」は望ましいものではないが、合意の内容が外部的に明らかにならない限り、それは社会に対する有害なメッセージとはならない。合意は、本来、当事者間のプライバシーの領域にあるものであって、それだけでは社会に作用するものではないのである。そうだとすれば、共謀のみを処罰することは、行為原理の第二の意義にも抵触する。
このような問題は、既に日本政府自身が自認してきたところであり、現に、当初は、「すべての重大犯罪の共謀と準備の行為を犯罪化することは我々の法原則と両立しない。」との意見が出されていたのである。日本政府は、その後、対象となる重大犯罪の範囲が限定され、組織犯罪集団の関与を条件に付すことが可能となったことを理由に、突如として共謀罪新設に積極的に取り組むようになった。しかしながら、「対象」が限定されたとしても、「行為」に関する行為原理との抵触は解消されない。そもそも刑法典その他特別法に規定されている陰謀、共謀の処罰ですら、問題をはらむものであるのである。それを、あえて拡張する理由はどこにもないのである。
2 構成要件の不明確さ
次に指摘しうるのは、共謀罪の構成要件が極めて不明確(ないしは広範)であるということである。
共謀罪の構成要件メルクマールは多岐にわたるが、その中核をなすのは、「共謀」という概念である。これについては、酒場で犯罪実行について意気投合し怪気炎を上げただけでも処罰されるのではないかという懸念が示されているところ、法務省は、「特定の犯罪の遂行」の具体的・現実的「合意」が必要であるという理由で、この程度で処罰される危険はないと説明している。
しかし、このような法務省の説明は、欺瞞に満ちている。法務省の説明は、合意の内容が限定されるというだけであって、共謀の態様については何ら触れるところがない。現に、政府自ら、共謀罪の「共謀」は、共謀共同正犯の「共謀」と同じであり、場合によっては、目くばせでも成立すると説明しているのである。そうであるとすれば、「合意の内容」の立証いかんによって、露骨な言い方をするならば、自白の取り方いかんによって、酒場で怪気炎を上げる行為も処罰の対象となり得るのである。
しかも、問題を合意の内容に移してみても、実は、法務省が説明する限定解釈の手がかりは存在しない。すなわち、伝統的な共謀共同正犯理論では、共謀は、黙示的なものでもよく、順次共謀でもよいとされている。しかも、共謀の成立にあっては、必ずしも共謀者全員が犯行の細部にわたって認識していることまでは必要とされないとされているのである。このように、共謀共同正犯における「共謀」は、法務省の説明とは異なり、具体的、現実的でなくてもよいと解されており、そうであるとすれば、法務省の主張は、「共謀」という文言を限定解釈しなければ成立しないものである。しかし、これを限定する手がかりは、法文上、全く存在しないのである。
その結果、共謀罪は、「共謀」という文言を字義どおり適用すると法務省自身が懸念するように広範であるのに、縮小解釈の手がかりがないという避退窮まった事態に陥るのである。
3 刑の不均衡
さらに、共謀罪については、処罰の不均衡をもたらし、耐え難い法体系の矛盾を引き起こす。
すなわち、共謀罪については、死刑又は無期若しくは長期10年を超える懲役若しくは禁錮の刑が定められている罪の共謀に対して5年以下の懲役又は禁錮、長期4年以上10年以下(民主党案では長期5年を超え 10年以下)の懲役又は禁錮の刑が定められている罪の共謀に対しては2年以下の懲役又は禁錮が科されているが、現行刑法典には、殺人、放火、強盗等について、2年以下の懲役を定める予備罪の規定が存在する。これは、害悪が具体化した方が刑が軽いことを意味し、不当である。
さらに、共謀罪の保護法益が、法務省の説明するとおり、共謀に係る犯罪と同じであるとすれば、共謀が予備段階に達すれば、共謀罪は予備罪に吸収されると解さざるを得ないが、そうすると、予備罪のある犯罪については、共謀で思いとどまるよりも、予備まで実行した方が有利になる。これは、共謀者に対し、予備行為を実現させる動機にもなりかねず、極めて問題である。
他方、刑の不均衡を回避し、犯罪への動機付けを否定しようとするならば、予備段階に至ったとしても、共謀罪は独立して成立すると解さざるを得ないが、このような解釈は、伝統的な予備、未遂、既遂の解釈を根底から覆すことになろう。さもなければ、共謀罪の保護法益は、共謀に係る犯罪と異なると説明せざるを得ないが、これは、法益に関する法務省の説明と矛盾する。いずれにしても共謀罪は、法体系に矛盾をもたらすのである。
4 自首減刑の問題点
最後に、共謀罪には、実行前の自首により刑が必要的に減軽又は免除されるとする規定がある。しかし、この規定にも、重大な問題がある。
既に、共謀罪に反対する論者が繰り返し指摘しているように、この規定は、密告を奨励することになりかねない。すなわち、共謀罪は、2人以上の者が特定の犯罪の実行を合意することによって成立する。したがって、共謀者の1人の自首は、必然的に他人の犯罪の申告を伴うこととなる。結果として、自首をした者は、いわば、他人を国家に売り渡して刑の減軽、免除を手に入れることとなる。これは、他人の犯罪の申告義務を課すに等しいが、このような義務付けに対し、社会の承認を得られるかは難問である。
さらに、自首規定は、予備や中止未遂規定との不均衡をも生じさせる。すなわち、共謀罪は、共謀によって既遂となる犯罪であるから、論理的には中止未遂の適用はない。そうすると、実行に着手した者は、結果を防止するだけで別の必要的減免を受けられるのに、共謀罪の場合は、自首を要することとなる。
また、予備については、強盗予備を除いて、任意的な刑の免除が認められているから、共謀罪との不均衡は明白である。これも、場合によっては、「共謀までしたなら、予備、着手してから中止した方がまし」ということになりかねず、我が国の法益保護にとって逆効果である。
なお、民主党の修正案や与党の再修正案は、自首の対象を限定しようとしている。これは、密告奨励という批判に対応するものと解されるが、対象となる犯罪については、同様の危険が依然として存在する上、軽い犯罪の方が必要的減免の範囲が狭くなるという矛盾をもたらすことにもなる。重要なのは、自首減刑の対象を限定することではなく、端的に、共謀者が任意に犯罪の実行を放棄又は結果を防止し
たこと(いわゆる行為による悔悟)を刑の必要的減免事由とすることである。
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また、民主党が共謀罪について自民へ歩み寄りをする可能性は通常国会を経てあり得ないと判断されているようで、早期に強行採決へ動きそうだというお話もされてました。
また忙しくなりそうですね。
思想・表現の自由は民主主義国家における国民の国家権力に対する自由です。日本国の歴史においては国家権力が刑罰を持って、国民の思想・表現を抑圧した特別高等警察、思想検事等の弾圧史があります
このような日本国の刑罰史を踏まえて、日本国憲法は国家権力の刑罰権を抑制しています。
ゆえに、侮辱罪・名誉毀損罪での実刑は、ほとんどありえないのです。
国民相互の思想・表現の自由は国民相互の関係で律してくださいというのが憲法の趣旨だからで、そもそも、国民相互の思想・表現の自由の問題は刑事関係ではなく、民事関係だと考えます。
国民の思想・表現の自由を刑事問題とする場合は、国家権力が国民の思想・表現の自由の侵害する場合に適用すべきです。
例えば、「日の丸・君が代」事件、「NHK・ETV政治介入、人事異動」事件、「各種取材拒否」事件、「各種情報非公開」事件、教科書検定問題等です。
日本国における国際・国内テロ集団の実態についての情報公開が不十分で、一般論としては「国際・国内テロ集団」に対象を限定すれば、共謀罪は必要だといえます。
なぜなら、そもそも、国際・国内テロ組織はテロのためにすべての組織活動を行っており、このような組織活動はテロの共謀、予備、準備と言えるからです。
しかし、そう考えるなら、暴力団対策法の適用対象を国際国内テロ組織へ拡大し、その上で、暴対法に共謀罪を創設して警備・公安警察を廃止する。同部門は刑事警察へ統合・一本化する。
そうして日本国における暴力団、国際・国内テロ組織に刑罰、重刑を執行し、暴力集団の壊滅を図ればよいことです。
ただし、日本国は民主主義国家であるので、そうした措置を執るからには、暴力団等国際、国内テロ組織の実態が国民に共有されなければなりません。
政府はこうした凶悪組織の実態を国民に対して、具体的に説明する責任があります。
暴力・テロの実態の組織・団体に共謀罪を含む刑罰を執行すれば、完全に人権侵害であり、それこそ国家権力の「暴力」だと言えます。