創設2年目の大正11年、県立周東中学は土地の狭い町の中心部を抜け出し、南側にあるだだっ広い干拓地「古開作」に移転します。
広いグラウンドを見た二代目校長・須貝太郎は「できたばかりの本学は、英才教育に加え、スポーツによる自治活動を通じて特色ある校風を樹立せねばならない」とぶち上げ、その象徴として同年8月、野球部を結成しました。
そのとき参加した第1期メンバーで、現在も確認できるのは松村正、福田耕亮、宮村栄雄、荒井安一、田中清人、松本清。いずれもこの3年後の大正14年、柳井町初となる夏の甲子園出場時にレギュラーとして名を連ねるメンツですが、この当時は野球の何たるかもよくわかっていない、ガキンチョの集団です。
当時のメンバー荒井安一は、当時の自分たちの状況について、校友会誌で「自分たちが未だ1年生の当時、開校以来尚浅い9月の午後、仮グラウンドの一隅に時々見受けられた幼いユニホームの一団。これぞ他日山陽の天地を震駭し堂々山陽の覇者たるの名をほしいままにしようとは、当時誰人も予期せざることであった」と回想しています。
須貝校長は、この素人集団に息を吹き込むため、さらに驚きの英断に出ます。
大正12年5月。この年度から「柳井中学」と改称された野球部に、校長は名監督を招聘します。しかも当時とっておきの名監督を、です。
その名は鈴木立蔵。8年間の監督生活で、柳井中学を4度の甲子園に導いた名将です。
鈴木立蔵は東京外大でスペイン語を修めた語学堪能な教諭。また、講道館柔道2段位(当時の2段は、取得が現在の倍くらい難しかった)を持つ武道の達人でもありました。そのため当初は武道教諭として採用。その後英語教諭に転じ、昭和5年に柳井中学を追われるその時まで、英語教師が本業でした。
福島県から山口県への異動なぞ、各都道府県教育委員会が人事権を握る現在では略不可能なのですが、当時の中学教諭は文部省令に基づく全国転勤人事であったため、こうした思い切った異動が可能であったわけです。
と、ここまで見ただけでは鈴木立蔵は、スペイン語と柔道以外に特技がなく、なぜ野球部の監督になったのかが全く不明です。
さくっと言いますと須貝校長にとって「スペイン語」も「柔道」もどうでもよく、本当の狙いは、鈴木の持つ確かな野球の腕と、早大人脈にありました。
鈴木立蔵はどうした理由なのかは判然としませんが、なぜか早大野球部と深い縁故があり、その野球の腕と人脈の太さは、とても他校OBとは思えないすさまじいものがありました。
オッチャンの数年後輩にあたる杉原修治さんの回想文には、鈴木の姿がこのように描かれています。
「先生は当時我が国における野球界の名士の1人であったことは間違いない。特に早稲田大学と関係が深かった。部外からのコーチは早稲田出身又は現役の名選手ばかりであった。」
「佐伯達夫、井口新次郎、松本終吉、伊丹安広、高橋(左投手)の諸氏から自分たちはコーチを受け、良い経験となった」
当時は大学野球の選手が中等野球のコーチをするのはごく当然の行事でしたが、上記の臨時コーチたちを一人一人調べると、いずれも当代一流、しかも早大の選手ばかりということがわかります。
まずは佐伯達夫。市岡中学出身。大正2年早大入学。オッチャンがハワイで見たとされる第3回早大アメリカ遠征にも参加し、選手時代には「日本一の内野手」と称された加藤吉兵衛と共に鉄壁の二遊間を形成。大正3年から始まった「三大学リーグ(早慶明)」でも大活躍しました。
のち高校野球の振興に尽力。高野連三代目会長を務めた「高校野球の父」。その一方、不祥事を起こした学校には激烈な処分を下し続け、「佐伯天皇」と揶揄された御仁。死去直後の昭和56年、特別表彰にて野球殿堂入り。
井口新次郎。和歌山中学出身。大正12年早大入学。現役時代は強打の三塁手。終戦後に制度化された「先輩理事」の初代を務める。佐伯達夫とともに高校野球の振興に尽力し、平成10年、特別表彰にて野球殿堂入り。
松本終吉。市岡中学出身。大正8年早大入学。第2回全国中等学校野球優勝大会において、史上初のノーヒットノーランを達成した名投手。
伊丹安廣(「廣」が正しい)。大正13年入学。強打の捕手として活躍。大正15年春には首位打者を獲得。昭和4年には主将に就任。人気実力とも日本一を誇った東京六大学のスター選手として活躍。卒業後はノンプロの東京倶楽部捕手として活躍し、都市対抗優勝にも貢献。戦後は東京六大学野球リーグ運営に参画し、明治神宮外苑長を歴任。昭和53年、特別表彰にて殿堂入り。
高橋(左投手)…これは完全な推測ですが、高橋外喜雄ではないでしょうか。
高橋外喜雄(ときお)。早稲田実業出身。昭和2年早大入学なので、オッチャンとは同学年。早実在学時は6回も甲子園出場。このヒトの人生はオッチャンの人生に大きくかぶり、また、甲子園で直接対決をしておりますので、そのあたりは稿を改めてお話しします。
このようにざくっと調べただけでも、のちの殿堂入りメンバーが3人も確認できます。しかも、井口・伊丹の両者は早大時代にオッチャンの直接の先輩として君臨し、高橋に至っては同級生として、辛酸と栄光を共にします。
井口、伊丹、高橋といった面々は、オッチャンや後述する清水光長が早大に進学し、その縁故でコーチに来たのでしょうが、佐伯、松本にあっては鈴木監督に何らかの縁故がなければコーチに来ることはなかったでしょう。
鈴木はただ、中央球界に縁故があるというのみならず「先生の監督ぶりは中学界では日本一といわれ、甲子園その他各地の大会での監督振り、特にシートノックのうまさは観客を魅了したものである。見事な水平打法によるキャッチャーフライの上げ方にはしばしば感嘆の声が上がったものだ」(杉原修治さんの回想より)とあり、当代一流の野球技術者であったことがわかります。
こうした優秀監督が赴任し、実力が徐々に高まりつつあった柳井中学野球部と、岩国中学野球部でクサクサしていたオッチャンがいつしか融合を果たすのは、ごく自然ななりゆきだったのかも知れません。
【参考文献】
・「柳井高等学校野球部史」柳井高等学校野球部史編集委員会
・「東京六大学野球連盟結成90周年シリーズ⑥早稲田大学野球部」ベースボールマガジン社
・「都市対抗 2016」毎日新聞社
・フリー百科事典ウィキペディア「高橋外喜雄」の項目
広いグラウンドを見た二代目校長・須貝太郎は「できたばかりの本学は、英才教育に加え、スポーツによる自治活動を通じて特色ある校風を樹立せねばならない」とぶち上げ、その象徴として同年8月、野球部を結成しました。
そのとき参加した第1期メンバーで、現在も確認できるのは松村正、福田耕亮、宮村栄雄、荒井安一、田中清人、松本清。いずれもこの3年後の大正14年、柳井町初となる夏の甲子園出場時にレギュラーとして名を連ねるメンツですが、この当時は野球の何たるかもよくわかっていない、ガキンチョの集団です。
当時のメンバー荒井安一は、当時の自分たちの状況について、校友会誌で「自分たちが未だ1年生の当時、開校以来尚浅い9月の午後、仮グラウンドの一隅に時々見受けられた幼いユニホームの一団。これぞ他日山陽の天地を震駭し堂々山陽の覇者たるの名をほしいままにしようとは、当時誰人も予期せざることであった」と回想しています。
須貝校長は、この素人集団に息を吹き込むため、さらに驚きの英断に出ます。
大正12年5月。この年度から「柳井中学」と改称された野球部に、校長は名監督を招聘します。しかも当時とっておきの名監督を、です。
その名は鈴木立蔵。8年間の監督生活で、柳井中学を4度の甲子園に導いた名将です。
鈴木立蔵は東京外大でスペイン語を修めた語学堪能な教諭。また、講道館柔道2段位(当時の2段は、取得が現在の倍くらい難しかった)を持つ武道の達人でもありました。そのため当初は武道教諭として採用。その後英語教諭に転じ、昭和5年に柳井中学を追われるその時まで、英語教師が本業でした。
福島県から山口県への異動なぞ、各都道府県教育委員会が人事権を握る現在では略不可能なのですが、当時の中学教諭は文部省令に基づく全国転勤人事であったため、こうした思い切った異動が可能であったわけです。
と、ここまで見ただけでは鈴木立蔵は、スペイン語と柔道以外に特技がなく、なぜ野球部の監督になったのかが全く不明です。
さくっと言いますと須貝校長にとって「スペイン語」も「柔道」もどうでもよく、本当の狙いは、鈴木の持つ確かな野球の腕と、早大人脈にありました。
鈴木立蔵はどうした理由なのかは判然としませんが、なぜか早大野球部と深い縁故があり、その野球の腕と人脈の太さは、とても他校OBとは思えないすさまじいものがありました。
オッチャンの数年後輩にあたる杉原修治さんの回想文には、鈴木の姿がこのように描かれています。
「先生は当時我が国における野球界の名士の1人であったことは間違いない。特に早稲田大学と関係が深かった。部外からのコーチは早稲田出身又は現役の名選手ばかりであった。」
「佐伯達夫、井口新次郎、松本終吉、伊丹安広、高橋(左投手)の諸氏から自分たちはコーチを受け、良い経験となった」
当時は大学野球の選手が中等野球のコーチをするのはごく当然の行事でしたが、上記の臨時コーチたちを一人一人調べると、いずれも当代一流、しかも早大の選手ばかりということがわかります。
まずは佐伯達夫。市岡中学出身。大正2年早大入学。オッチャンがハワイで見たとされる第3回早大アメリカ遠征にも参加し、選手時代には「日本一の内野手」と称された加藤吉兵衛と共に鉄壁の二遊間を形成。大正3年から始まった「三大学リーグ(早慶明)」でも大活躍しました。
のち高校野球の振興に尽力。高野連三代目会長を務めた「高校野球の父」。その一方、不祥事を起こした学校には激烈な処分を下し続け、「佐伯天皇」と揶揄された御仁。死去直後の昭和56年、特別表彰にて野球殿堂入り。
井口新次郎。和歌山中学出身。大正12年早大入学。現役時代は強打の三塁手。終戦後に制度化された「先輩理事」の初代を務める。佐伯達夫とともに高校野球の振興に尽力し、平成10年、特別表彰にて野球殿堂入り。
松本終吉。市岡中学出身。大正8年早大入学。第2回全国中等学校野球優勝大会において、史上初のノーヒットノーランを達成した名投手。
伊丹安廣(「廣」が正しい)。大正13年入学。強打の捕手として活躍。大正15年春には首位打者を獲得。昭和4年には主将に就任。人気実力とも日本一を誇った東京六大学のスター選手として活躍。卒業後はノンプロの東京倶楽部捕手として活躍し、都市対抗優勝にも貢献。戦後は東京六大学野球リーグ運営に参画し、明治神宮外苑長を歴任。昭和53年、特別表彰にて殿堂入り。
高橋(左投手)…これは完全な推測ですが、高橋外喜雄ではないでしょうか。
高橋外喜雄(ときお)。早稲田実業出身。昭和2年早大入学なので、オッチャンとは同学年。早実在学時は6回も甲子園出場。このヒトの人生はオッチャンの人生に大きくかぶり、また、甲子園で直接対決をしておりますので、そのあたりは稿を改めてお話しします。
このようにざくっと調べただけでも、のちの殿堂入りメンバーが3人も確認できます。しかも、井口・伊丹の両者は早大時代にオッチャンの直接の先輩として君臨し、高橋に至っては同級生として、辛酸と栄光を共にします。
井口、伊丹、高橋といった面々は、オッチャンや後述する清水光長が早大に進学し、その縁故でコーチに来たのでしょうが、佐伯、松本にあっては鈴木監督に何らかの縁故がなければコーチに来ることはなかったでしょう。
鈴木はただ、中央球界に縁故があるというのみならず「先生の監督ぶりは中学界では日本一といわれ、甲子園その他各地の大会での監督振り、特にシートノックのうまさは観客を魅了したものである。見事な水平打法によるキャッチャーフライの上げ方にはしばしば感嘆の声が上がったものだ」(杉原修治さんの回想より)とあり、当代一流の野球技術者であったことがわかります。
こうした優秀監督が赴任し、実力が徐々に高まりつつあった柳井中学野球部と、岩国中学野球部でクサクサしていたオッチャンがいつしか融合を果たすのは、ごく自然ななりゆきだったのかも知れません。
【参考文献】
・「柳井高等学校野球部史」柳井高等学校野球部史編集委員会
・「東京六大学野球連盟結成90周年シリーズ⑥早稲田大学野球部」ベースボールマガジン社
・「都市対抗 2016」毎日新聞社
・フリー百科事典ウィキペディア「高橋外喜雄」の項目
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