湘南オンラインフレネ日誌

フリースクール湘南オンラインフレネ学習的就労支援活動・災害ボランティアの実践を書き溜めていきます。

2/17 災害ボランティア活動を振り返る

2018-02-18 04:39:41 | 地震津波災害ボランティア
2018/02/17 記
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地元医が午前中だけやっているので、母の食欲の件で相談に行き、エンシャ・リキッドを処方してもらった。祖母の命を支えた流動食の缶詰だ。祖母の時に食事をさせる側に母はいたので、味や効果は知っていた。脂っこくていやだなといいつつ、半分ずつ2回に分けて飲むことを承知した。少しほっとしている。とりあえず、先ほど1缶、完飲。味の文句、雨あられ。

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映画「life 生きていく」は東日本大震災に翻弄された家族の回復の道をたどった話。鎌倉は継続支援している活動があるところなので、映画とともに、いい話ができたらと思っていた。

阪神淡路大震災のときもそうだったが、いわゆる外部ボランティアは仮設住宅ができて大半が去り、災害公営住宅ができはじめて、ほぼ地元活動にバトンタッチする。ところが20年を経て、地元活動を担ってきた人たちが高齢化して、地域の取りまとめと支援をやめ、巡回に支えられていた単身高齢化被災者が窮地に追い込まれてしまう。そういう長いスパンの支援の視野を反復しないような活動を仕掛けていくという経験を活かした活動が必要だと思う。街のコミュニティ・デザインに関連するところだ。人生が頓挫させられるのが災害だから、それに取り組む現場経験は受け継がれていかなくてはならないと思う。これが「懇話会」一般向けではないが、行政目線では見えないことも沢山ある。しかし、引き出さねば浮き上がらないのも現場の経験。厚志が利用する場であって、啓蒙の場ではない、この辺が弱いところ。政党どうこうの島組根性を越えて、利用すればいい場なのだが。

もう二十年前になるが、交通事故の長期入院を済ませ、教育活動と不登校・引きこもり青少年との活動を、約束通り自営塾を再開せず、社会参加活動の残り火の災害ボランティアとフリースクール支援を始めた時、入院中温めてきた「ケア・パートナー」制という方法を煮詰めていた。就労を個人単位で考えるのではなく、チーム就労のような方向で話をはじめられないかというものだった。引きこもり青年たちは、社会的な挫折感を持つ者が多く、自己有用感が必要で、実は結構世話焼きが多い気がしていた。当時LDが注目され、LD学会が出来た頃だったが、発達障碍の軽度な青年たちと組ませることで、兄弟のような支え合いによる就労の道がひらけるのではないかと考えたのだった。

ところがここには、運動上の大きな断層があった。引きこもり青年たちの活動は、教育の課題として県青少年センター中心に行われており、一方発達障碍の方は手帳をもつ福祉の課題として、地域自治体にまかされていた。発達障碍も精神障碍も幅が広く、引きこもり青年たちの活動とも親和性が強かった。引きこもり支援活動の側は、引きこもりは障碍ではないと反発。障碍者畑の活動家の方々は、引きこもり畑の活動を知らなかった。「ケア・パートナー」は、いわゆるメンター制のような相談役ではなく、チームの兄貴(姉御)であることが違う。世話を焼き、頼られる関係が就労チームとなると、給与の財源のでどころが異なるために、無理だという。つまり自営の形で実現できないかと考え、三島に事例を見学、ともしびショップとしてカフェをデザインすることになった。

出来立ての市の自立支援協に、訪問支援の「ぽ***」とともに、申し入れたが、ある団体から傍聴者としてのみの参加となり、一方で某政党系の方から猛反発をくらうことになった。所場荒らし批判である。結局、某団体のシャットアウトと、別団体の強迫じみた猛反発の狭間で、境界の活動はサポセンに移った。私たちの支援活動も、「ぽ*ぽ*」も障碍者活動の厚い壁に敗退したのだが、今はいつの間にか軽度発達障碍の団体が何事もなかったように参加している。私はその制度の実現のために当時の養護学校高等部を回り、就労担当者の会の会合に出るようになった。一方で自立支援協の相談役の**さんの講演会などを行ってきたが、某団体の方と別会合で出会うことが多くなり、その団体への活動要請は上からシャットアウトするようになった。やればやるほどに制度実現は遠のいて行った。

一方、引きこもり団体の中には、私の案が引きこもりを障害者と同一視していると反発。結局、「ケアパートナー制」はお蔵入りとなった。私の頭の中には、ヨーロッパの「ソーシャル・ファーム」のイメージがあって、その日本の提唱者の方の講演会を2011.3.8に開いた。元厚労省事務次官で某病院系列の理事長だったひとだ。ところがその3日後に東日本大震災が起こり、すべての企画は消し飛んだ。もともと災害ボランティアを続けていた私は、関係を持っていた引きこもり青年とともに、支援活動に救急参加したのだった。

幸い災害ボランティア活動には、長年の付き合いがあった。有珠山の噴火災害のとき、国内の学校授業に火山灰を持ち込んで授業を組み立ててもらう提案をし、地元と連携して全国400校が授業を行った。子どもは親に現物を見せれば、支援活動につながるという計算だった。そのときの協力者たちだった。しかし主流の支援者は、元気づけと祭りの派遣、鯉のぼりの絵のコンテストを行い、わかさいもとホタテ販売という従来の支援法をなぞり、灰の提供者も某宗教団体系町会議員への転身というなかで、介護との板挟みの最中、交通事故で入院となった。報告される活動はブースをたてて、ちゃんちゃん焼きをするなどという従来の活動にもどり、授業情報交流の夢は、つぶれていった。

ただそのときにつてから、陸前高田と大船渡の地元活動とつながりをつくり、東海新報の記者を茅ケ崎に招待したり、市会議員さんの離れに宿泊所を確保するなどの準備を進めていた。被災再生自転車の確保も済み、被災地見学の下地を整えていった。ところが参加者の交通費が得られず、鶴嶺高ボラ塾の有志は、茅ケ崎市が交流する南三陸にボラバスを出すという話に委ねざるをえず、個人出費で付き合いの長い引きこもり青年を陸前高田に連れて行った。実質は準備もろとも無に帰した。地元中小企業ルートから美容師組合の連携活動や、障碍者団体の椿油の加工販売、かもめの卵社長個人出費の防災博物館の招待枠確保や、某被災高齢者施設への中古自動車提供(これは頓挫、陸前高田市議に引き取られた。私の趣味のコレクションと自営塾の残金貯金が車検に消えた。)や、有珠山噴火時代の被災ペットの新しい飼い主さん探しのルートで、にゃんだーガードと,ねこひと会の関係で獣医さんやペットショップと引きこもり青年をつないだりした。ところがこれも寒川町に拠点を構えた某暴力団系の活動と同一視されて、会場は惨々たる状虚となり、私と暴力団との怪しげな噂が立っていった。血統書付きの犬と助成金トレーラーは、儲かるからだ。

陸前高田の障碍者施設産品の椿油は、横浜のフェアトレードのネパリパザーロが輸出の道をつけ、のちに資生堂が購入に入った。併行して行っていた、現在のプロジェクション・マッピングの動く影絵がつくLED照明器具を百人百灯展参加作品とつなぎ、障碍者制作品にしたり、被災地のメッセージハンカチを某私立小学校とつないだりとしたが、価値は認められなかった。その大型装置は今、街をカンバスにプロジェクションマッピングとして花咲いている。つねにこれらは、当時の定型からはみでたものだ。当時斬新な発想で登場していた古本を必要とするところにという優れた活動をしていた++さんに頼んで、グラフィックな実用書を仮設住宅会議室に送ってもらっていたのもこのころだ。

いろいろなことをした。しかしそれは主流支援活動ではないために、拡散せずに封じられていった。サポセンもまた、定型外を受け入れぬ想像力の限界を潜ませていたのだ。

今回の「ティーンズ防災絆教室」も、直下型大型災害の地元準備に益となる超党派の活動だ。市民活動は息が短いが自由意志に元すいている。地域自治組織の活動は歴史があり必要で結びついている。この双方が出会い、過渡期の仕事として「大人の知り合い作り」を進める提案だ。今、ここにもう一味の魅力を付け加えるのに苦心しているが、まもなく提案にこぎつける。偏狭な思いに遮られたくない。そのためにも、のど元過ぎた防災活動の必要性を納得させる一手を考えている。
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茅ケ崎の某小学校の小4(当時)の子に対するいじめを第三者委員会が認めた。人格を否定するようないかなる卑しい行為も許されるものではない。注視していく。

夜間傾聴:ひとり

(校正1回目済み)
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