かわずの呟き

ヒキガエルになるかアマガエルなるか、それは定かでないが、日々思いついたことを、書きつけてみようと思う

熊野古道(伊勢路)へ行ってきました(その3)。

2011-06-14 | 

 熊野古道(伊勢路)への旅の報告の最終回として、今回は古事記に書かれている2地点と景勝「鬼ヶ城」を紹介します。最初は神武天皇上陸碑跡。高天原(神の国)から九州の高千穂の峰に天下ったニニギノミコトの子孫で東征を開始した神武天皇は、最初大阪湾あたりで賊に敗れ、急遽和歌山県沖を南下、潮岬を回ってこの地に上陸したといいます。上の写真は観光案内図。私たちは釣り船をチャーターして、海路からこの地点を訪ねました。

 上陸地点とされているところは、熊野灘の荒波が岩を噛む急峻な断崖の上にあり、太古の丸木舟では危険極まりない上陸となったと思われるが、そこは神様のこと、やすやすと上陸されたに違いない。でも待てよ。神武天皇は神様であったとしても、少なくとも200~300人いたと思われる部下たちが全員神様であったとは考えにくい。部下たちは天皇を敬い天皇に従った原住民、つまりは私たちの祖先ではなかったか。こう考えると、神は上陸の時だけ波を静めたに違いないと、夢は膨らむ。いずれにせよ天皇の一行は賊を征服しながら熊野川を北上して飛鳥の地に着き即位したことになっている。黄金に輝く八咫(やた)烏が天皇の弓の先に止まり、賊の目が眩み天皇側が大勝するのもこの途中のことであった。

 ここに祀られている神様はイザナミノ命。この神様は神武天皇よりももっと古い神代の時代、始めて男女の神が現れたときの女神様。このご夫妻は淡路島を始め、多くの陸地や神々、さらには動植物をお産みになった。しかし、最後に火の神様をお産みになったとき、大変な火傷を負われ、ついに亡くなってしまわれた。それからいろいろ神話は続きますが、その女神がここに祀られていました。

 ここは神話に時代ではなく、記録が残されている時代。先ずは海賊どもの隠れ家。続いて信仰の場となり観光の場となったって現在に至る。月並みな表現で恐縮だが、全てが自然の浪と風と岩が創り上げた巨大な芸術作品だ。チリ沖地震の津波によって遊歩道の一部が破壊され「通行止め」となっていました。

 順不同の上、舌足らずで拙い報告をここまで読んで頂きありがとうございました。これで熊野古道報告を終わります。

 


熊野古道(伊勢路)へ行って来ました。(その1)

2011-05-27 | 

 旧友たちと一泊二日で熊野古道(伊勢路)へ行って来ました。このグループは、かつては、日本百名山を全て踏破した豪傑をリーダーに、春と秋はトレーニングと称してトレッキングを、夏は何が何でも3000mを超えていることを条件に山歩きを楽しんできた仲間です。でも、自然の摂理というか、寄る年波には勝てず、もう山登りはダメだというものが徐々に増え、まだ健脚を誇っている仲間には申し訳ないが、最近は古寺や古道をハイキングするプランばかりになって来ました。私ももちろんダメな口で、高い山だったら「不参加」としていました。

 今回のプランは歴史好きなSさんが計画、「熊野古道(伊勢路)と古事記ゆかりの地を訪ねる」というもの、近くまでは車3台で行きました。今回の報告はまずは「概要」ということにします。

 

 太平洋に面した熊野灘は、今回の東日本大震災で壊滅的な被害を被った岩手県の三陸海岸と同じ典型的なリアス式海岸で、地図には書けない幾つもの小さな入り江や巨大の岸壁が荒波を受け止めている岬が複雑に折り重なっています。また一方では、七里御浜のように二十四時間一時も休むことなく押し寄せる荒波が各種の石を洗い、奇麗に磨かれた小石が敷き詰められた海岸線もあります。

 上の写真は中日新聞社刊「いま活断層が危ない」(名古屋大学地震火山・防災研究センター編著)から撮ったもので、2005年9月5日に起こったM7クラスの地震で熊野灘一帯が南に動いたことを示す図です。★印が震源地、矢印の長さが動いた距離(右下が5㎝を示す矢印)を示しています。熊野灘(愛知県も)はユーラシアプレートの上にあり、こプレートはすぐ近くでフィリピン海プレートと激しくぶつかり合っています。この衝突線を南海トラフト(★印付近)と呼び、ここが予想される東南海地震の震源地です。数年前に読んだこの本のことを思い出しながら歩きました。

 熊野古道は一番海岸線に近い部分に続いていて、起伏に富んだ細い道です。海岸線より少し高いところを通っているのが明治以降に整備された道(旧道)で、簡易舗装がなされ軽自動車一台が通れる幅、ちょっとした平地に退避帯が設けられ対向車とすれちがうこともできます。一番高いところを通っているのが国道42号線で、多くのトンネルや橋脚をつくることによって開かれた道で、今の日本の富と技術の結晶です。私たちは42号を走り、所々で旧道に降り、狭い駐車場に車を置いて古道まで下り、古い神社に参拝し苔むした石碑の解説を読んだりしながら歩きました。

 最初に私が「胸の震え」を感じたのが上の風景です。「限界集落!」この言葉は嫌いですが、幾つもあるこうした入り江を通る度に、この言葉が執拗低音のように脳裏にこだましました。古道はこうした家々の近くも通っています。家々の佇(ただず)まいから、老夫婦だけが住む屋並みであることがわかりました。よく手入れされた狭い畑には各種の野菜が育ち、入り口には鉢植えの草花が可憐な花を咲かせ、屋敷まわりの掃除もきちんと行われていました。しかし、子どもや若者の姿はどこにもありません。私は家の近くで少し立ち止まったりもしましたが、カメラを向けることはできませんでした。道はすべて軽自動車がやっと通れる程度で、救急車はここまで入ってこられるだろうか、買い物はどこまで行かなければならないのだろう、と勝手に思いを巡らせました。こうした家々の庭先でついに人影を見ることはありませんでしたが、ここに住む人々の端然とした生き方に思い至り、最敬礼したい気持ち。だが、もう一方で、津波がここを襲う、そうした状況が消しても消しても重なって見えてしまう。出口のない連想の中で、やっと「これが歴史なのだ」といい聞かせ古道を歩きました。


小浜の常高寺(旅の二日目)

2011-02-28 | 

 今日は朝から雨。一昨日、イチゴとエンドウの除草と施肥(醗酵鶏糞を根元に埋め込む)をしたので恵みの雨です。そこで旅の二日目に訪れた小浜の常高寺について報告します。

 このお寺はJR小浜駅の近くの国道27号線沿いにありました。NHK大河ドラマの主人公「お江」のすぐ上の姉「お初」が眠る寺で、ドラマにあやかって観光客誘致に力を入れているようです。山門は江戸時代のもので歴史を感じましたが本坊は数年前の再建でイマイチでした。

 でも案内に出て下さったここの和尚さんが話芸の達人。格式の高い臨済宗のお寺で、多分、説教師としてのご経験も豊富ではないかと推察しました。「お初さんは京極高次の正室でしたが、残念ながら子どもに恵まれませんでした。ところで今日ここにお越しのご婦人方は、皆さん正室ですか、側室の方はおられませんか?」と言った調子。これだけで私たち一行は大騒ぎ。元気なおばさんが「ワタシ、どっちだか分らん」と大声で答えられて、また大笑い。しばらく真面目な説明が続いたあと突然声の調子を変えて「1609年、夫高次は小浜城内で病を得て没します。享年46歳、お初は41歳。若いですねぇ~。夫の死を悼んでお初は落飾して高常院と名乗ります。偉いですねぇ~。ところでお越しのご婦人方で、夫が亡くなったら出家しようと思っておられる方はおられますか?」と。この声が名調子で、またまた大笑い。

 上の写真はこのお寺で頂いた観光案内「お初が愛した小浜」からスキャンしたものです(以下の写真も同じ)。高次の死後京極家は高次の側室の子忠高が後を継ぎますが、後継者忠高の正室はばっちりお初の姪初姫(妹お江の娘、父は二代将軍)です。これは子どもの無かったお初が妹お江の娘を養女にしていたからで、忠次が認め推進した養子縁組でした。以下に浅井三姉妹に関する家系図を載せておきます。

 お初は、夫と自分の両親(浅井長政とお市)の霊を弔うために高常院を建てます。私が感心したのは、お初のきめ細かな心使いが分かる遺言状が残されていることです。「かきおきのこと」がそれで、亡くなるひと月ほど前に書かれ、城主忠高に宛てられたものでした。お初は晩年江戸の京極屋敷で大勢の侍女や侍に護られて暮らしていましたが、自分の死後その者たちの身の振り方をきめ細かく頼んでいました。例えば、年老いた侍女たちには常高院の近くに家と扶持を与え出家させて寺を護らせること、若い侍女には本人の希望をよく聞き結婚させるなどの面倒をみてやった欲しい、というようなことです。

 訪ねたお寺には「おかきおきのこと」の拡大写真が掲げてありました。ここで再度解説の和尚さんにご登場頂きます。「お初の直筆がこの寺に残されていて、その拡大写真がこれです。達筆ですねぇ~。きちんと書かれていてお初の性格がよく現れていますねぇ~。ところで皆さんはこれが読めますか? 私にはチンプンカンプン、さっぱり読めません」「英語より難しい。英語は辞書を引けば大体のことは分かりますが、お初の字は辞書の引き方も分からない」。一同納得。

 


京都の東寺から小浜の常高寺までの旅

2011-02-23 | 

 JA愛知北が主催した「農事組合長会の親睦旅行」に参加した。バスで京都→丹波→福井と巡る一泊二日の旅で、農協婦人部長も加わった賑やかな旅でした。最初に訪れたのが、日本一の高さを(55m)を誇る五重塔を有する東寺。この寺は弘法大師空海が嵯峨天皇から賜ったもので、受け取るにあたって「真言密教の根本道場にしたい」という条件を付けたという。

 この日は特別公開の期間に入っていて、五重塔の一階部分の拝観が許されていた。この五重塔には空海が唐から持ち帰ったという仏舎利(釈迦の遺骨)を心柱の基部に埋めたという伝承があり、いわば釈迦の石碑にあたるという。そこで一階部分に安置されたのが阿弥陀如来坐像など四如来坐像と諸菩薩の立像などであった。石段を登り重厚な木扉をくぐって歴史の重みを感じる薄暗い部屋に入るや、それまで賑やかだった私たちの一行が俄かに沈黙の石像群に変わる。眼前に現れたのは薄暮にも似た空間に浮かびあがる金色の如来像。その華麗なお姿と溢れる慈愛に私自身も身を震わせた。室内は撮影禁止で、以下に掲げる写真は東寺で求めたガイドブックからスキャンしたものである。

 「人は物語りながら自らの生(せい)を生きている」。この言葉に接したのはもう十数年前で、ユング派の心理療法士といて世界的に有名な河合隼雄氏の本の中であった。その時はカウンセリングの世界での特殊な見方だと思ったものだが、最近読み終えた大沢真幸著『「正義」を考える』NHK出版では、今日の日本の混沌は、日本の社会が「自分の人生を物語化できない社会」になってしまったからだと規定し、リストラ・派遣社員・会社の倒産・孤独死などを切り口に、このテーマを多角的に論考していた。この本の論考はそれなりに興味深いものであったが、私にとっては、そうなんだ、 「人は物語りながら自らの生(せい)を生きている」という見方は、今では社会学全般で常識なんだ、ということの発見であった。そして、この四如来坐像を拝観したときも、この如来像のお姿が、当時の人々の人生の物語の中に確実に溶け込んでいたに違いないという思いに達し、感動を深くした。(最初の五重塔は883年完成、以後落雷等により焼亡を繰り返し、現存のものは徳川家光の寄進により1644年に完成したもの。四如来像の制作年代は手元の資料では不明)

 「人々が、自分の人生を物語化できない社会」に関して言えば、今日的に最も困難な課題は「死後の物語り」だろう。「千の風になって」の流行がそれを物語っている。法然から親鸞にいたる時代の人々が、重厚にして華麗な仏像を容易に自分の人生の物語りの中に取り込むことが出来たのに比して、私たちは曲がりなりにも科学的という思考を身につけているので困難を伴う。ただ、ここで見落としてはならないことは、科学的な思考も、人生の物語りを求めているのも、ちっぽけな人間の脳の仕業に過ぎないという点だろう。そしてその脳自身も、宇宙的な大自然の中の一部なのである。厳然として存在する宇宙的な大自然の営み、これをどう自分と結び付けるか、それが私に問われている気がする。写真上は東寺の金堂、下は金堂内の薬師如来坐像。下はガイドブックからのスキャン。


斎王 哀しき雅(みやび)か聖なる巫女(みこ)か

2010-11-21 | 
三重県多気郡明和町の斎宮歴史博物館を訪ねました。ここは斎宮遺跡であると同時に再現博物館で、発掘は現在も続けられています。

                               

斎王(いつきのみこ)とは、飛鳥・奈良・平安・鎌倉・南北朝と660年間にわたり天皇の名代として伊勢の大神に仕えた76人の若き女性たち(伝説の斎王9名を含む)の総称です。彼女たちは、新しい天皇が即位すると、その天皇直系の未婚女性の中から占いで選ばれ、都での約3年間に及ぶ潔斎生活ののち、最盛期には500人のお供と共に、様々な儀式を行いながらこの地にやってきました(斎王群行と言った)。

                  

ここでの生活は、正月の神宮遥拝に始まり年200日にも及ぶ諸行事を主宰するとともに、伊勢神宮の大祭では大宮司から神が宿るとされる太玉串(ふとたまぐし)を受けとり、瑞垣御門(みずがきごもん)に立てるという大役を年3回、外宮と内宮で計6回受け持っていました。さらに、男子禁制・仏教的諸事禁止、和歌を始めとする諸学問と雅な所作の学習が課せられていました。 任が解かれるのは天皇の退位(崩御または譲位)や斎王自身の病気あるいは斎王の肉親の不幸などのときでした。つまり、いつ任が解かれるのかが、本人を始め誰にも分からないという点にあったといいます。

          
              

斎王が住む場所を斎宮(いつきのみや)といいました。ここには、多くの女官をはじめ大勢の下働きの男たちの暮らしもありましたので、第二の御所のような生活空間がありました。しかし、南北朝以後天皇の力が衰えるとともに財政が逼迫、天皇が代わっても新たに斎王群行さえ行うことができず、いつしか斎王も斎宮も歴史からその姿を消していきました。『万葉集』を始め『伊勢物語』『源氏物語』『大和物語』『大鏡』『栄華物語』等々多くの文献に残された斎王と斎宮(さいぐう)でしたが、昭和45年まではその場所さえも定かでない状態でした。

              

住宅地造成工事中、偶然に発見された土器からここが「幻の宮」跡地ではないかという研究者の指摘により調査を開始し、次々と発見された土器・柱穴や井戸の遺構により斎宮の全貌が明らかにされ、昭和54年137haの地域が国の史跡に指定されました。発掘は現在も続けられています。
南北朝以前の我が国の歴史に思いを馳せるとき、この歴史博物館の重要性は言葉では言い尽くせないほどの重みがあります。当時の人々にとっての神々と政治については、考えれば考えるほど夢と謎の深まりを感じます。


信長の非情、一乗谷朝倉遺跡

2010-11-12 | 
歴史好きな友人の企画で朝倉遺跡を訪ねました。元来は「山歩きの会」ですが近ごろこうした平地歩きの企画も多くなりました。
 天正元年(1573)朝倉氏は柴田勝家を総大将とする織田軍に敗れました。この戦の前に織田軍は浅井・朝倉の連合軍に敗れ、浅井家に嫁いでいた信長の妹のお市の方と娘3人の悲劇は有名です。
 朝倉氏は、先祖が現在の兵庫県あたりの名門豪族で、応仁の乱の折に越前に進出、北国街道と美濃街道の交差するこの要衝に地に城と立派な城下町を築き、武勇財力ともに北陸では屈指の大名家として怖れられていました。しかし、捲土重来、万全の準備のもとに襲いかかった織田勢には万策尽き、出陣時に3万を誇った軍勢も、城に逃げ帰ったのはわずか数百人だったと言います。

                 

 その数年前、織田軍は比叡山の焼き討ちを断行しています。敗北を宣言し兵を引いた比叡山側になおも追い打ちをかけ、僧兵と何の関係もない修業僧を殺し寺社に火を放ったのです。この所業を知っていた朝倉城下町の人々は、「朝倉敗れる」の知らせを聞くや全員が僅かな家財を抱えて逃げ出したと言います。 噂に違わず、数日後に城下町にたどり着いた織田軍は、無人の城下町に火を放ち、一乗谷は3日3晩火の海だったそうです。そして約450年、つい50年ほど前までは山間(やまあい)の静かな山村でした。

                 

 この地が京都の金閣寺や銀閣寺とならぶ国の重要文化遺跡に指定されるに至ったキッカケは、何と昭和40年ごろから行われた「耕地整理」でした。田畑を整地して農業の機械化を実現するための工事です。工事中の田畑から見事な石組や礎石が出土、さらに武家屋敷からは当時の生活を知る上で欠かせない生活用具までも大量に発見されたのです。皮肉なことに、これらの用具は大量の灰に包まれていたために、その後土砂に埋まっても極めて保存状態が良かったと言うのです。写真の上2枚は、焼き討ち前の城下町を復元した模型、下の2枚は、左が発掘中のもの、右が発掘された石垣の上に復元された家屋です。

徳山ダムへ行って来ました

2010-10-21 | 
 報告が遅くなりましたが、109日友人たちと徳山ダムを訪ねました。このダムは堤高161m、堤長427m、総貯水量6億6千万立方米(浜名湖の水量の2倍とも)のロックフィル式多目的ダムで、日本最大規模を誇っています。総工費3,500億円、計画策定から完成までに32年を要し、その間の政治・経済情勢の変化に伴う紆余曲折でときどき紙面を賑わせた話題多きダムです。現在も、付帯事業からの撤退を河村名古屋市長が表明して問題になっています。付帯事業というのは、このダムの水を全長44キロ先の木曽川まで地下水路等で運び名古屋市の水需要に応えようという事業です。ところが、河村市長は「名古屋市は現在も将来も水は余っている」と言いだしたのです。

     

     

 そんなことを思い出しながら堰堤に立ちましたが、上流に広がる美しい景観と頬をなでる心地よい空気の流れに身も心も洗われ、俗世の悩みは瞬く間に消え去りました。紅葉シーズンは11月の中旬とか、この日は行楽客もまばらで、ゆったりとした時間を楽しむことができました。このダムの完成で、徳山村は全村水没。

     

                  
 
 

 ダム湖の傍らに建てられた資料館に展示されてた徳山村のスナップ写真が、うっとりとしていた私の心を激しく揺さぶりましたこの写真の中には、現在私たちが失ったものが溢れています。笑顔・連帯・扶助・使命・質素と豊かさ、ああもう言葉では表せません。


沖縄へ行って来ました(その3)

2010-09-19 | 
                            

約500年もの長きに亘って琉球王朝の宮殿であった首里城は、あの凄惨な沖縄戦によって焼失。1972年の本土復帰以来、何期にも分けた復元工事が続けられ、2000年に世界遺産に登録され、今日では殆どの建物が精緻に復元されています。私たちは名古屋に帰る最後の日にこの世界遺産を訪ねました。

           

石段が続き、幾つかの門をくぐり、右折左折を繰り返したのち、眼前にドンと現れた正殿にまず圧倒されます。高さ16m、幅28m、正面の唐破風妻飾りに牡丹唐草、朱塗りの背面に浮き立つ金箔の龍。正面に玉座を配した「儀式の間」をはじめとする気品に満ちた「首里城正殿」、続いて「南殿」、「番所」と巡るうちに、視線が隅々にまで届くようになり、改めてその文化度の高さに圧倒されます。沈金で鳳凰を描いた丸櫃、螺鈿で龍を描いた大盆、見事な染色と描画が施された衣装など琉球王朝に仕えた職人の技の凄さに驚かされます。


           

「守礼之邦」の名に相応しく琉球王朝は、洗練された儀式と行き届いた接遇によって平和外交を展開し、東アジアの物流の拠点として繁栄を続けました。下の写真は、外国からの客人をもてなすとき舞われた琉球王朝独特の「歓迎の舞」で、現在は、服装も所作も当時のままの舞が観光客のために舞われています。この舞から琉球王朝の文化の高さと平和外交の心意気が読み取れます

           

しかし、1609年の島津の琉球侵攻から明治12年の沖縄県設置(琉球藩廃止)までの歴史や、1946年以降の米国による占領から1972年の本土復帰、そして今日の基地問題と、常に世界情勢の変化と東京の対応の間で翻弄されている沖縄の歴史を考えると、私たちは孫の世代と共にもっともっと沖縄の歴史を学ばなければならないと思いました。  

沖縄へ行ってきました(その2)

2010-09-12 | 
                 

                 

今回は、沖縄でカメラに収めて植物や動物を紹介します。上の二枚はホテルの生け垣で撮ったものです。赤い方はハイビスカスだと思いますが黄色の方の名前が分かりません。そこで勇気を出してフロントで訊ねましたが「チョット待って下さいよ」と言ってあちこちに電話をしてくれました。そして答えは「詳しい者が出かけていて分かりません」とのこと。沖縄の人にとってはあまりにもありふれた花で名前など気にもしていないようでした。私も身近な雑草の名前はほとんど知りません。下の二枚は散策した公園で撮ったものでマンゴウとバナナです。

                                

                

上の写真は「沖縄美ら海(チュラウミ)水族館で撮ったものでジンベエザメやマンタです。とにかくデッカイ水族館で度肝を抜かれた感じでしたが、写真撮影は失敗の山となりました。巨大な水槽の透明な壁面にも驚き「この技術はただごとではない!」と思いましたが、何と、この壁面を作っている工場は四国の町工場で、世界中からの注文を受けているとのこと。この町工場では、現在も技術開発を進めていて、最近では、狭いところを通り抜けることを好むアザラシのために波打つドーナツ型の水路を作ることにも成功したそうです。

                 

美しい動植物に溢れる沖縄ですが、危険も潜んでいます。名前を聞いただけでも恐ろしい「ハブクラゲ」が左で、右が「ごンズイ」です。ハブクラゲに刺されると激痛・ミミズ腫れ、そして水泡・壊死と進み、稀には呼吸困難に陥るそうです。刺されたら酢をたっぷり塗って氷で冷やすこと、と書いてありました。ゴンズイも同様で背ビレと胸ビレに毒があり、この毒はゴンズイが死んでも消えることがなく、死んだゴンズイを踏んで被害に遭うこともあるそうです。

                         

左はお馴染みのミノカサゴで海で釣りをする人が最も恐れている魚、右はイソギンチャクの仲間でこれも要注意。海に入る時も野山を散策する時も注意書きをよく読み、地元の人に教えていただいてから行動するということは、基本中の基本です。 

沖縄へ行ってきました。(その1)

2010-09-01 | 
                             
息子夫婦から航空券が届きました。彼らは羽田から、私たちはセントレアから那覇に向かい、ホテル・コスタビスタで4泊5日のバカンスを楽しもうというものです。その時の記録から今回は「沖縄の空と海」を紹介します。

                 

抜けるような青空の彼方に力強く湧き上がる雲、その下には、地球の丸さを感じさせるほどの広がりを見せる紺碧の海。沖縄のビュー・ポイントでは、どの地点に降り立っても、その地名を問う気さえ起きない圧倒的な美しさにたじろいでいました。

                 

セントレアからの飛行機は臨時便で、機内は子ども連れの若い夫婦で溢れていました。そんな中、偶然隣の席につかれた気安そうな同年輩のご夫婦に「どちらからですか?」と声をかけると「豊田からです。あちらに娘夫婦と孫がいます」とのこと、「私たちも羽田から来る息子夫婦と現地で合流します」と言いながら、つい「ありがたいことです」と言っていました。このご主人は沖縄返還の年、バスの改造のための技術者として沖縄の工場に派遣され、突貫作業に従事されたとか、「もう当時の面影はないでしょう」と感慨深げでした。
圧倒的な美しさの中に立ちすくみながら、やがて、自分は沖縄のことを何も知らないなあ、ひめゆりの塔、戦艦大和、壮絶な地上戦、明治の沖縄処分、薩摩の侵攻、琉球王朝、そして最近では何ともお粗末な鳩山迷走、などなど断片的なことを思い出すだけではこの風景に申し訳が立たない、などと思っていました。

日帰り旅行の下見に行きました。

2010-08-14 | 
                                 
8月下旬から9月上旬にかけて、2つのグループの日帰り旅行を計画する係なり、下見に出かけました。行き先は琵琶湖の最北端「奥琵琶湖パーク・ウエイ」にある展望台からの眺望を楽しんだあと、マキノ・プリンスでランチ、続いて京都大原三千院参拝としました。

                                  
お天気が良かったら、展望台から湖半沿いの道を3.5キロ下りながら、ゆく夏を惜しみ、忍び寄る秋を楽しんでいただこうと思っています(車は周回して下の国民宿舎前で待ちます)

                                         

                                  

三千院では全員でお抹茶を頂き、そのご解散。帰途に就く集合時間だけを決めて思い思いの観賞と参拝を楽しんでいただく予定です。所要時間とキロ数を調べました。不安要因は三千院から京都東インターチェンジまでの道路状況です。少し早めに帰路につけたらと思っています。


鳳来寺山に登りました

2010-08-08 | 
                           
7月28日、友人と鳳来寺山に登りました。石段数1,423、(一説に1,425段)所要時間は45分ほどでしたがひと汗もふた汗もかきました。ただ、足を止めれば、木立を抜ける風の心地よさに疲れも和らぎ、古の人たちと心を通わせた思いでした。(左が参道入り口の山門、右が最初のころの登山道です)

                     
参道の後半は急な石段が続きます。でも「石段が急になったら頂上が近い」と聞いていましたので頑張りました。右の写真は、本殿の横をさらに登ったところにある家康を祀った「東照宮」です。

                      
山麓にある「博物館」に寄りました。昭和10年にNHKラジオが全国放送で鳳来寺山からブッポウソウの鳴き声を実況放送したところ、全国的な大騒ぎになったようです。そして得た結論は、「ブッポウソウ」と鳴いているのは「コノハズク」で「ブッポウソウ」は「ブッポウソウ」と鳴いていない、ということのようです。写真左はブッポウソウのはく製で、右はゲージの中で生きている「コノハズク」です。 

立山の室堂まで出かけましたー2-

2010-06-15 | 

昨日の続きです。この写真は室堂からバス道を撮ったものです。開通当初は積雪が15mにも及ぶそうです。この日は、途中の深いところでバスの屋根より2~3m上まで残っていました。

帰りに越中八尾に寄り「風の盆」資料館を訪れました。上の写真は風の盆の踊りが通るメイン・ストリートです。写真の塀は「八尾郵便局」の裏側で、公共施設が率先して「町並み景観保存」に協力している様子がよく分かります。圧巻は銀行で、古いデザインの格子戸を開けると、そこにATMがありました。

立山の室堂まで出かけました

2010-06-14 | 

急に思い立って立山の室堂まで出かけました。何しろ思い立ったのが前々日の夕食時で、前日の午前中にネットで宿の予約とコースの選定という慌ただしさでした。

 上の写真は一泊目の宿の近くの「雨晴海岸(あまはらしかいがん)」です。好天に恵まれると水平線の上に銀嶺に輝く立山連峰が眺望できたはずですが、生憎でした。奈良時代中期(東大寺建立の頃)この地に国守として赴任していた大伴家持が国内巡視のため能登半島の先端まで出かけ帰路舟で帰着したのがこの港だったそうです。家持はこの地の美しい自然をたくさんの歌に託して残しています。  「立山に降り置ける雪を常夏に見れども飽かず神からならし」 このうたもここで読んだのかも知れません。

上の写真は室堂からバス道の方向に目を向けたものです。今年は雪解けが10日ほど遅いとのこと、その分雪景色を楽しむことができました。 観光客もほどよい人数で、シーズン中の混雑を思うと天国でした。驚いたのは中国人観光客の多さ、シンガポールからの中国系ヤングカップルとは少し英会話を楽しみました。雪が多くて少し残念だったのは、弥陀ヶ原ホテルの前の木道散策ができなかったことです。続きは、明日の報告とします。