かわずの呟き

ヒキガエルになるかアマガエルなるか、それは定かでないが、日々思いついたことを、書きつけてみようと思う

松の剪定を始め、2本終わりました。

2011-12-27 | 気ままなる日々の記録

 生垣の剪定を終わり、松の剪定に入りました。松の剪定で一番の課題は「足場の確保」です。庭師さんは、どの足も伸縮自在の3本足の脚立を持っておられ、岩や窪みのある場所でも、足を調節してうまく脚立立てられ、その上、いのち綱を腰に巻いて曲芸師のような姿勢でも仕事をされます。しかし我々はそうはいきません。工夫を重ねて足場をつくり、ゆっくりと作業を進めます。

    

 上の写真は最初の松で、比較的足場が作りやすい場所のまつです。脚立を2本使って足場板を通し、それに乗って作業をしています。

 昨年よりますます体が硬くなった感じで、足場作りを慎重にしています。そこで今年初めて導入した新兵器が下の写真の右側です。

     

 中学時代の友人で現役大工の棟梁のN君に、相談したら“ホームセンター・コーナン”で上の写真のものを買ってきて脚立につけろ、という助言を頂きました。その上“うちの脚立を一つ貸してやる”とのこと。お借りした脚立が写真の左側で、足の長さを調節してでこぼこの所にも脚立を立てることができます。買ってきた4個の部品を洗車台に取り付けたのが下の写真です。これらの道具をフル回転させて挑んだのが2本目の松で、この松の根元には、大きな岩がありさらにサツキやツツジの株が密集しています。

       

    

 とまあ、二日間かけて完成させた2本目の松。剪定終了が下の写真です。(とことどころ手抜きが見られますが)

 生垣や松の剪定で切り落とした小枝を集めて堆肥を作っているところが下に写真です、来年の秋には畑に運びます。

 

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

友人の案内で「行基寺」と「七里の渡し」へ行って来ました。

2011-12-23 | 気ままなる日々の記録

  “眺望の素敵な「行基寺」へ行くことになったが、きみもよかったらどうぞ”とのお声がかかり、えぇ? こんな季節に? と思いながらも出かけました。ついでに旧東海道の「七里の渡し」も見るとのこと。

 

 「行基寺」というのは岐阜県海津郡高須町にあります。車では、東名阪を弥富ICで降りて国道155号を少し北上して県道125に入り、木曽・長良・揖斐の3川を渡り、さらに多度町で国道258号に入り、5~6㌔大垣方面へ進んだあたりにあります。上の写真は寺の駐車場から撮ったもので手前の川が揖斐川、すぐ隣が長良川、その少し向こうが木曽川(ちょっと見えにくい)です。

 先ずは、こんな片田舎の山腹にあるお寺に似合わぬ立派な山門に驚きましたが、さらに門扉の「三つ葉葵」(徳川家家紋)に驚きました。聞けばここは高須松平家の菩提寺だとか。
 尾張徳川家第二代光友公は家康にならって、我が子から高須家・大久保家・川田久保家の3分家を創設され、尾張徳川家(尾張藩)の後継者が絶えた場合は跡取りを出し、幼少の場合後見役を勤める家柄と定められたとのこと。つまりここは江戸時代、御三家筆頭の尾張徳川家の御三家筆頭であったというわけです。事実、尾張62万石の歴代藩主17人のうち4人が高須松平家の出身でした。石高は3万石と小藩でしたが、江戸城では御三家・御三卿に次ぐ名門であったそうです。

 このお寺に参詣すれば、幕末期、数奇な運命を歩んだ尾張の徳川慶勝、会津の松平容安、桑名の松平敬公・義比は、実は高須松平出身の4兄弟であったもとも偲ばれます。
 このお庭の向こうに広がるのは豊穣な尾張平野と大都市名古屋。ここからの眺望はやはり全国屈指と言っていいと思われます。

 私たちはこの後揖斐川沿いに下って「七里の渡し」に向いました。

 旧東海道で熱田の「宮の渡し」からここ桑名までの距離が7里であったとか。残念ながら遺跡は何も無くなっていますが大自然はそのままだと思われます。揖斐川を随分さかのぼったところに宿場を設けていたこと、水位の変化に対応できるように石積みの入り江を構築していたことなどが分かりました。あとはフォトチャンネルでご覧下さい。 

友人の案内で「行基寺」と「七里の渡し」へ行って来ました。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

やっと生垣の剪定が終わりました。

2011-12-19 | 気ままなる日々の記録

 12月5日に訪れた湖東三山の報告に明け暮れして、この2週間の報告を怠ってきました。フォトチャンネルの作成にまごまごしながらも、相変わらずの毎日を送り、先ずは生垣の剪定を優先して進めていました。その間に、近所の友人(私より1歳年上のお婆さん。庭先や畑でいつも雑談していました)が突然亡くなり、枕経、お通夜、ご葬儀と連日お参りに出かけていました。

   

 右が南面、左が東面です(北面は過日報告しました)。脚立に乗っての作業でそこそこ疲れますがまあ楽しい作業です。私が好きになれない作業は“後か片づけ”です。結構な量の切りくずを一輪車で運び、スレート板で四方を囲った“腐葉土製造装置”の中に投げ込みます。たたみ一畳分の大きさのスレートで囲っていますから相当の量入りますが、東西南北の生垣の剪定分だけでいっぱいになりました。数日後踏みつけたり土を入れたりして抑え込み、今度は松の剪定くづを入れます。およそ一年半でいい腐葉土になりますので畑に入れます。

 

 上の写真は我が家の北西角にある“クロガネモチ”で、毎年、丸坊主にしています。明日からはいよいよ松の剪定に入ります。年内に三本の松が終了すれば「自分で自分を褒めてあげる」つもりです。松の剪定で一番の問題は「足場の確保」です。我が家の松の周りには岩が配置されていて、梯子さえママなりません。例年苦労していますが、“よるとしなみ”のことも考えて、ちょっとした小道具を買い込みました。それがうまくいくかどいか、楽しみです。

 花壇の生垣のサザンカが一斉に咲き始めました。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

湖東三山の百済寺へ行って来ました。

2011-12-15 | 気ままなる日々の記録

最後に百済寺(ひゃくさいじ)の報告をします。

この寺は聖徳太子のご発願で行基菩薩が建立したといういい伝えがあるとか。もし本当なら湖東三山で最古のお寺ということになります。聖徳太子は、この地が交通の要衝であることに着目して国家鎮護の願いを込めてご発願になったといいます。

事実、この地は何時の時代も奈良・京都に向う交通の要衝で、それがこの寺の運命を翻弄してきました。最も凄惨だったのが織田信長の攻撃でした。その解説板も写してきました。焼き討ちの後、安土城築城に必要な石はこの寺のあらゆる個所から運んだといいます。

戦国時代、お寺はよく最前線の武将たちの宿泊所に利用されました。その時どちらの側に味方するかが大問題です。敗者の側につくと勝者によって焼き払われてしまいます。多くは江戸時代に再建されましたが、再建されなかった寺もありました。

百済寺は江戸時代の再建です。ここも入り口近くに美しい庭園があり、そこを通り抜けた後石段を登ります。頂上に本殿がありその横に名鐘の誉れ高い見事な鐘楼があり、何と寸志奉納の後、鐘を打つこともできます。それだけ住宅地から離れているということでしょう。

湖東三山の百済寺へ行って来ました。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

湖東三山の金剛輪寺を訪ねました。

2011-12-11 | 気ままなる日々の記録

 今日は金剛輪寺を報告します。訪ねた日は11月5日、午前11時ごろからの散策でした。私の写真はフォトチャンネルでご覧頂くとして、ここでは写真集『湖東三山 天台宗 金剛輪寺』からスキャンしたものを掲載して、金剛輪寺の歴史を見ておきます。

 寺伝によると、本山は聖武天皇ご勅願により天平13年(741)に行基菩薩が創建されたとのことです。ご本尊は聖観世音菩薩で、行基菩薩が彫り進んでいるとき木肌から一筋の生血が流れ出たという伝説から「生身の観音様」と呼ばれています。嘉祥年間(848~851)には比叡山延暦寺から慈覚大師円仁が登山して道場を開き、天台密教の浄刹となりました。本堂は元寇の役の必勝祈念堂として弘安11年(1288)に再興されていて、鎌倉時代の代表的な和様建築として国宝に指定されています。

 この美しい三重の塔は昭和53年に復元されたもので重要文化財に指定されています。最初は「阿弥陀如来坐像」(重要文化財)次が「十一面観音立像」(重要文化財)です。人々を救おうとするお心の現れた慈悲に満ちた柔和なお顔に惹かれます。

 次が「不動明王二童子像」(重要文化財)です。天台密教の道場でもありましたから悪を懲らしめる仏も祀られています。「悪」は、衆生の心の中にも、外界のも存在し、不動明王はこの悪と対峙しています。最後の写真は不動明王の左下に控えている「制吨迦童子坐像」です。

 平安・鎌倉・室町と日本仏教の流れが凝縮した仏たちだと思われます。「生身の観音様」は秘仏となっているそうです。

湖東三山の金剛輪寺を訪ねました。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

湖東三山の西明寺へ行って来ました。

2011-12-10 | 気ままなる日々の記録

今朝、師匠に教えて頂き、フォトチャンネルに初めて挑戦しました。お見苦しい点がありましたらお許しください。
 老婆心ながら次の点を申し添えます。
①写真の中央にある横向き三角形をクリックしてください。 
②画像の右下隅の砂時計に似た図形の右の四方に矢印が出ているところをクリックすると画面が大きくなります。画面を大きくしたお楽しみください。 
③止めるときはパソコンキーボードのESCキーを押してください。最後はブログを閉じます。

湖東三山の西明寺へ行って来ました。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

湖東三山(西明寺、金剛輪寺、百済寺)へ行って来ました。

2011-12-08 | 気ままなる日々の記録

もう、5~6年ほど前になるでしょうか、郷土史に関する本を出版しようとしていた人たちのお手伝いをしましたが、その時の編集委員の人たちと4人で「紅葉を楽しむ」ドライブに出かけました。湖東三山へは何度も行ったことがあります。しかし、行く度に“新しい感動”があり、「先回は何処を見ていたのだろう?」などと自責の念に駆られます。

 

 先ずは参道。しかし、実際にはカーナビで中腹の駐車場まで連れていかれてしまい、この写真は西明寺発行の「龍應山 西明寺」からの借用です。ゴメンナサイ。

 この写真は自前です。12月5日午前9時45分ころでしょうか。前夜の雨に洗われて、言葉を失うほどの鮮やかな紅葉があたり一面に溢れ、ときには、ハラハラと風に舞う中を歩くことさえありました。

 創建は平安初期の承和元年(834)、仁明天皇のご勅願により三修上人の手によると伝えられているとか。国家の安寧を仏に願った時代であったことと、人馬の力だけでこんな岩山の上に本殿と塔を建てるという大事業を成し遂げた人々の情熱に思いを寄せると、熱いものがこみあげて来ます。もっとも、寺史に関する貴重な資料は「信長の焼き討ち」によって失われ、多くの歴史が口伝によるものだそうです。建築様式から、それぞれの建物が鎌倉時代や室町時代のものという研究もあるようです。

 この苔の美しさにも言葉を失いました。苔が美しいのは梅雨どきだと思いがちですが、冬の苔も見事です。そう言えば、うっすらと雪化粧をした庭の苔もあでやかですよね。

 寺宝には鎌倉時代の「密教法具」があるようです。西明寺は、いわゆる「天台信仰」といわれる比叡山の天台宗派に属しています。そこに密教法具があるということから最澄と空海の覇権争いや天台密教誕生のドラマなども思い起こされます。

 三重の塔は、現在解体修理中で、その工事現場も公開されていました。上の写真は「桧皮葺と竹釘」を説明するために用意された模型です。これを見るだけで「莫大な桧皮と労力」を思い目が回りそうです。

 解体修理中のため非公開となっている三重の塔の中に安置されている大日如来像です。今年の春、団体旅行で連れて行かれ参拝を許された、秘宝公開中の「東寺五重の塔」の内部とよく似ていると思います。ご本尊が大日如来であるところも興味深いところです。

 本堂の横にある鐘堂です。少し離れているだけでしたが、ここには観光客も少なく、蕭然と佇む鐘楼にも歴史と情緒が溢れていました。

 最後にエピソードを一つ書きます。
 織田信長の命を受けて、元亀二年(1571)西明寺は焼き討ちに会います。多数の武士が攻め込んできたとき、機転のきく一人の僧侶が自ら僧坊に火を放ち、寺のすべてが焼け落ちたように見せかけ、本堂と薬師如来、三重の塔など多くの寺宝を護ったというのです。また、駆けつけた多くの信者が背に背に仏像を背負って逃げ、仏像を戦火から護ったという口伝もあるとのことです。尊いことです。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

庭先からの季節の便り

2011-12-06 | 気ままなる日々の記録

久しぶりに「庭先からの季節の便り」をいたします。旅先からの報告や珍しい研究会の報告を重ねている間にも、着実に季節は巡り、我が家の庭先には師走の花々が咲き始めました。一番威張っているのはやっぱり「皇帝ダリア」ですが、やはりどこか寂しそうです。

このころ、赤い実といえば「南天」と「ウメモドキ」です。今年はウメモドキの実着きが良く、あまりにすごく小鳥も寄り付かない程です。右が「南天」左が「ウメモドキ」です。

       

年の瀬といえば「サザンカ」。花壇の生垣にサザンカ植えてからもう20年にもなりでしょうか。毎年厭と言うほど咲いてくれます。

       

今年も「スズメバチの巣」を見つけました。昨年とは正反対の南側花壇の生垣の中です。もっとも「見つけた」と言うより「丸見えになっていました」と言うべきでした。スズメバチが巣をつくったサザンカの木が突然枯れ、葉を落としてしまったからです。サザンカは原因不明の突然死をよく起こすとのこと。スズメバチもとんだ災難に遭ったものです。

       

左の写真は、頂いた稲藁を乾燥させるために作った「ハザ」です。子どもの頃は、何段にも重なった「ハザ」がどの家にも沢山建てられていて、農村のこころ和(やわ)らぐ冬の風物詩でした。確か、モミが付いているときも付いていない時も「ハザ」と呼んでいたような気がします。今も私はこれを見ていると心が和(なご)みます。

 冬季に庭仕事も始めました。上は北側の生垣で三つの面(北側の面と南側の面と地面に平行な上の面)の剪定を終わったところです。生垣のこの部分だけ刈り落とした槇を掃き取りません。このまま土にして、やがて次の命の栄養になるだろう、ということです。下の写真は「クロガネモチ」の木で、毎年このように剪定しています。この木はもう一本大きなヤツが裏にあります。

 次回は「湖東三山(西明寺、金剛輪寺、百済寺)」の紅葉の報告をする予定です。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加