かわずの呟き

ヒキガエルになるかアマガエルなるか、それは定かでないが、日々思いついたことを、書きつけてみようと思う

於祖松君の詩らしきもの

2014-11-29 | 気ままなる日々の記録

詩らしき独り言『僕の左手君へ』       於粗末太郎作

 

きみが、僕の左肩から

ぶら下がってもう78年にもなるね。

初めはとても可愛かったと思うよ。

良く動く赤ちゃんの手ほど可愛いものはないからね。

だんだん大きくなって食事の時はお茶碗をもってくれるようになり、

あっ そういえば、僕が若かったとき、

ほんの年に数回だったけど、

君にフォークをもってもらったこともあったよね。

フォークでご飯を食べる時はナイフを使ってフォークの背中にご飯を乗せて口へ運ぶんだったよね。

あれはずいぶん難しかったね、でも君は上手だったよ。

 

最近では僕が庭木の剪定をするとき

横に張り出した枝の根元をシッカリと掴んで僕の体を支えて呉れていたよね。

右手は剪定ばさみを持っていて勝手にあちこち動き回り、度々危ない姿勢になったものだ。

そんな時も君は反射的に枝を掴み瞬間的に力を入れて僕の体を支えて呉れていたね。

君は、僕が何かを頼んだり命令する前に僕の気持ちを先取りして嫌な顔一つせず、

よく僕をたすけてくれていたよね。

あのころ、僕は君にもっともっとお礼をいうべきだった。

君にもっともっと感謝すべきだった。

今つくづく反省しているよ。

 

あの日(昨年12月15日)午前3時、トイレに立った僕は寒い!と思った瞬間にその場に崩れ落ち、

救急車で運ばれた病院で頂いた病名が「右脳視床下部内出血による左半身不随」だった。

あれから君もおかしくなったんだよね。

思えば君は何処も悪くないのに。

壊れたのは僕の脳だけなのに。

君はもう何もできなくなって、

見るからに無様な格好になってしまったよね。

可哀そうに。

 

夜中真暗な部屋のベッドで目を覚ました時、

ぼくは、きみはどうしているかと思うことがあるんだ。

君が何処にいるか分からないからだ。どこも動かさずに

両足も右手も何処にあって、どうなっているか、良く分かるのに。

君だけはサッパリ分からないのだ。そんな時ぼくは、右手をそっと動かして

君を探す。そして、僕のお腹の上で君を見つけたとき

おお、此処か!と云いながら、やさしく君を握りしめる。その時君の暖かいこと!

僕は右手で君を取り出し君の甲に頬摺りをする。そして思い出すのが僕担当の理学療法士の言葉だ。

「オソマツさん、気を付けて下さいよ。ウッカリして、左手が何かに挟まって切り取られてしまい

血が滴っていてもオソマツさんは気が付かない場合もあると思いますよ。

それだけに、何時も左手に気をつけてくださいよ」と。

 

  ぼくも、間もなく三途の川とかを渡ることになると思うよ。

その時僕は君の甲に頬擦りをし、思い出話を君にしながらジャブジャブと渡るとおもうよ。

その時は、君も内緒の話を僕にしてくれないか。

いまがら、しっかり頼んでおくよ。

 

そういえば「私の彼は左利き」と云う歌が流行ったことがあったね。

歌っていたのは麻丘めぐみさんだったと思うよ。あの歌が聞こえてくると

君とは全く関係ないのに君はそわそわしていたね。僕はチャンと知っているんだから。

こんな話を二人でペチャクチャ話し、

クツクツ笑いながら渡ろうよ。

こう書いているだけで、

何か楽しそうに思えて来たよ。

きみはどうだい?

左手「オソマツさん、今の状態では車いすでないと、ジャブジャブは無理でないですか?」

オソマツ「オーオ、そうだったなあ。三途の川には手すりの付いた歩道はないのかなあ」

左手「どうでしょうね。三途の川を調べておきましょうよ」

ヤフーで検索結果

(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - [三途の川の用語解説] - わたり川,みつせ川 などともいう。ともに俗称である。『金光明経』によれば,地獄,餓鬼,畜生の三悪道が 三途の川とされるが,通俗には『十王経』 (偽経) に説かれているところの冥途に行く途中 に……)

 要するに車椅子や手すり付きの歩道橋ができる前の時代に書かれた経典だから言及されていない。従ってリハビリに励み、ジャブジャブ渡ることができるようにするという結論が妥当だ。

これだけ障害者や高齢者が多い時代になった。冥土も三途の川も改築工事をしているとは思うが……

 

 『太郎と花子』内の蓮池にて、於祖松君の歩行訓練。

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豊かな社会を考える

2014-11-22 | 気ままなる日々の記録

最近ここで以前のように『アマゾン』で本を買うことができるようになり、、ジャンジャン購入して、乱読しています。値段は、本屋さんで買うより安い感じか、少なくとも同じくらいで確実に配送されてきますから便利です。新書版なんか、明らかに全自動で梱包されたと思われる包装で郵送されて来て郵送費は加算されません。本屋さんが受け取る手数料で郵送費が賄えるということでしょうか。

アマゾンと云えば[キンドル』のことも書かねばなりません。[キンドル』の発売元はアマゾンです。[キンドル』は幅が新書版より5ミリほど広く長さが同じく新書版より少し短いデスプレイを持つスマホのような機能を持つ端末機です。この端末機に本の全ページのコピーが電波に乗って送られてきます。読者は指を画面を滑らせてページを繰り読んでいきます。画面に親指と人差し指を付けて広げれば文字が大きくなり反対にすぼめれば、小さくなります。私は今キンドルで漱石の「心」を読んでいます。片手で持つとチョット重くなるのが難点ですが、『ペーパーレス・ブック』(紙のない本)とでも云うのでしょうか、人気のある漫画本がこれでよく売れているようです。発売元はもちろんアマゾンです。本の値段はざっと普通の本の三分の一弱でしょうか。息子が退院祝いに呉れたキンドルもやっと使いこなせるようになりました。

こんな便利な本の買い方が普及しては、本屋さんが大変です。そういえば、本屋さんが喫茶店を併設して、本の立ち読みをその喫茶店内ОKと云うお店が大繁盛とかいうニュース見ました。

 

ところで読んだ本ですが①講談社α新書、川口マーン恵美著『住んでみたヨーロッパ9勝1敗で日本の勝ち』②集英社新書、堤未果著『沈みゆく大国アメリカ』です

①は下品でどぎついタイトルですから好みではありませんが、EUのことがよく分かりませんので読んでみようと思ったわけです。そういえば、①の帯紙には『EUは崩壊する』の文字が躍っています。アメリカ経済圏や日本経済圏に対抗するために人・もの・お金が自由に動く経済圏を創ろうとして、歴史も文化も生活習慣も異なる幾つもの国の国境を取り払って造ったのがEUです。今になって経済原理だけではいい製品は出来ないということが明らかになったということでしょうか。つまり、その仕事に関わる人々の誠実さとか几帳面さあるいは紳士としての思慮深さが社会を支えているということです。安心・安全技術力の高さを誇っていたドイツも今ではドロボーが多く粗悪品が溢れ油断も隙も許されない社会になっているようです。

例えば盗難防止のため頑丈な鉄柵で家を囲んでいたある民家がドロボーに入られお金と宝石類を沢山盗まれたそうです。警察が調べた結果、鉄柵の合鍵が使われていたことが判明。その合鍵は,5~6年前鉄柵の工事をした会社の下請け会社のどこかで鍵の型番が窃盗団に売られ、色々な書類が破棄されるのを待って窃盗団が合鍵を作り、使用した、たということのようです。ある仕事に対して下請けが下請けに出し元請け会社も全貌を掴みきれない状況の中で仕事がなされ、結果に責任なんか取れるはずもなく、警察権も他国には及ばず「捜査協力」止まり。その上地中海を越えてアフリカ方面からEUへ不法入国した労働者が街に溢れ、何でもしてすぐに逃げる。これでは治安なんか良くなるはずもない。

②『沈みゆく大国アメリカ』ですが、丁度読み終わったころ、黒人少年を射殺した警官が起訴されないことに抗議して各地で暴動が起きているというニュースが飛び込んできました。

この本は『オバマ大統領が目指した国民皆保険《オバマ・ケアと呼ばれているようです》ここでいう保険は医療保険です。日本のように健康保険証一枚で全国どこの医療機関に罹っても保険が適用されるというシステムは世界に誇る制度のようです。アメリカの医療保険は(A)、各個人が医療保険会社と契約する。(B)、会社が正社員に関して業界団体が推薦する医療保険に加入させ保険料の半分を負担する。のどれかのようです。だから低所得層で医療保険なしと云う国民が大勢います。子どもが遊んでいて骨折したというだけで高額な医療費を請求され自宅を失うというケースも多々あるようです。

 更に驚くことは、大人は 労働者を始めすべて大手銀行に口座を持っていなければなりません。給料が振り込まれ税金がその口座から引き落とされるからです。当初は税金を徴収するのに公務員を使うのではなく”民間委託”考え方で大手銀行にまかせたようです。問題は口座に残金がない場合です。このとき銀行は高金利でお金を貸し付けます。

 銀行は口座主の所有する不動産に抵当権を設定します。つまり、口座主はうっかりしているとアッという間に銀行から高金利のお金をかりたことになっているのです。医療費も口”座から引き落とされます。オバマは当初企業に全従業員の医療保険加入を義務づけようとします。

しかし共和党の猛反発や経営者協会からの反発で改正を余儀なくされパート従業員に関しては保険料を政府負担にするという改正をします。そうしたら、企業は正社員の人数を減らしパート社員を大量に増やしました。つまり、低所得者の医療費倒産を防ごうという発想はゼロです。その背景には奴隷制が見え隠れしています。そうでなくても、メキシコ方面から不法入国してきて数年おとなしくしていて新たに国籍を手に入れた闖入者の面倒をどうして富裕層が見なければならないのかと云う反発が根強く残っています。国民としての一体感が無いのです。歴史や地理的条件によるこの富裕層の貧民層に対する蔑視感はどうしようもありません。

 我が国でも高齢者が莫大な医療費を使うということが問題になっています。若い人たちの医療費負担を重くしているという問題です。我が国が誇っていた国民としての一体感や相互扶助にひびが入り始めた兆候です。適正な政治決断が求められています。ここで老人世代の意見として私見を述べれば、寿命に逆らうような延命治療はお断りするということです。完治の見込みのないがん患者に部分的な手術を繰り返し患者は苦しみ莫大な医療費を使い、寝たっきりで全身にできた床ずれの治療に悲鳴をあげながら1年長生きをして医療の勝利、保険制度の勝利、、と云えるのか。豊かさについて考えましたが。民族の歴史や国民の誠実さや政治の適格な選択等幾つもの要素がからまってじつげんされるもので昨今の我が国の政党のマニフェストのような軽薄なものではないようです。

            

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貧乏が厭なら勉強をおし。

2014-11-10 | 気ままなる日々の記録

このタイトルは司馬遼太郎の「坂の上の雲」に出てくる四国伊予藩の下級武士秋山家で父が息子たちに云った言葉だそうだ。息子たちは以下(ヤフーのネット検索べ見つけた「坂の上の雲」のあらすじと紹介より)のように勉強した。
 日本騎兵を育成し、中国大陸でロシアのコサック騎兵と死闘をくりひろげた秋山好古。東郷平八郎の参謀として作戦を立案し、日本海海戦でバルチック艦隊を破った秋山真之。病床で筆をとり続け、近代俳諧の基礎を築いた正岡子規。この三人を中心に、維新を経て近代国家の仲間入りをしたばかりの「明治日本」と、その明治という時代を生きた「楽天家達」の生涯を描いた司馬遼太郎の歴史小説。1968年(昭和43年)から1972年(昭和47年)までの 約4年間、産経新聞夕刊に連載された。また、2009年から3年間、NHKでスペシャルドラマ「坂の上の雲」が放映される。この「ブログ」では、昔読んで身震いした203高地の戦いにふれ、日本と云う国がよきリーダーを育てるのに如何にダメな国であるかを述べたいと思っています。

次に明治37~38年に戦われた日露戦争に目を向けます。激戦地の一つが203高地。この高台は遼東半島内にある天然の良港旅順港を見下ろす標高203mの高台の名前で、日ロ双方にとって戦略上の重要地点で、開戦当初はロシア軍基地があり、それを奪還しようと日本軍が戦いを挑んだ攻防戦です。ロシアのバルチック艦隊がこの港に入ったら日本海の制海権はロシアに奪われてしまうと思われ、何としてでも203高地を奪還してそこに大砲等の基地を建設して、旅順港を日本側の管理下に置きたいという作戦上の最重要戦でした。「坂の上の雲」を初めて読んだ時身震いが止まらない個所があった。それは、乃木将軍が突撃を繰り返し戦死者の山を築いたところだ。これに関して今ネットで調べてみると最近モスクワで日露戦争時代の旅順港の写真が見つかったということで、これをもとに戦死者の山はどうしてできたかをNHKが調べて番組を創り放送したようです。それが、「そのとき歴史が動いた-203高地の攻防」でその映像がネット上で公開されていました。ここでは、この番組にもたれて戦死者の山のことを書きます。先ず203高地の場所です。日清戦争で日本が中国から賠償として取った遼東半島の一角。ここは「三国干渉」で中国へ返したが、そこを、ロシアが中国(清国)から租借し、ロシア極東海軍の軍港にしていた旅順港があるところ。天然の良港旅順港を取り巻くように旅順市街地があり、この市街地には病院を始めロシア極東海軍を支えるのに必要な倉庫や商店街がありその商店街を取り囲むようにロシア陸軍の要塞が築かれていた。

 この要塞の構造に対する日本軍の認識が問題になります。日本海軍はこの要塞は清国時代のもので決して強固なものではないと見ていました。この要塞を取り巻くように小さな山脈がありその中に標高203mの高台が「二百三高地」です。ここを奪取しここに大砲を並べると旅順港に入っているロシア艦隊を砲撃で撃破することができますので、この地点は日露双方に取って戦略上の重要地点になるわけです。日本陸軍にここを攻略奪取を求めたのは日本海軍でした。

 ロシアのバルチック艦隊が日本海に向かって航行しているというニュースが入ると日本海軍はロシアの旅順艦隊とバルチック艦隊の二つの艦隊に挟み撃ちにされとても勝てない、バルチック艦隊が到着する前に旅順艦隊を撃破したいという理由でした。これに対して、日本陸軍は203高地の隣の高台から砲撃すれば旅順艦隊を相当傷めることができると考えていました。事実陸軍が設置した28サンチ砲で砲撃し、旅順市内に放った中国人スパイの報告により「旅順艦隊に大勢の負傷者が出た」という情報を陸軍は持っていました。つまり陸軍と海軍のメンツを掛けた戦略論争になっていたのです。ここで海軍は明治天皇を取り込むことに成功し、御前会議で「203高地総攻撃」を決定させ天皇命令まで出させます。やむなく陸軍は総攻撃を繰り返し戦死者の山を築きます。陸軍と海軍を統率するのが大本営ですが、ここが総合判断できず陸軍と海軍の勢力争いの場となっていて最後天皇を味方にした方がかつという全く前近代的な政策決定構造になっていたため戦死者の山ができたわけです。つまり、無謀な突撃を繰り返していた訳です。

 NHKの番組では半藤さんが出ていて陸軍が持っていた情報と海軍が持っていた情報に大きな違いがありその違いを冷静に調べなおすという観点の欠如が招いた悲劇と云っていました。情報処理能力の欠如が第二次世界大戦中も日本の最大の欠陥でした。

 ここで思い出すのが例のインパール作戦です。兵隊に自分の食糧として米を背負わせ遠征を命じます。しかも、雨季に!です。兵隊たちは飯盒炊飯ができずみな栄養失調で全滅します。例の有名な「ビルマの竪琴」の舞台になった作戦です。乾パンやビスケットと缶詰をどうして用意しなかったのか。雨季でなくても、この林の中に日本軍が何人かくれているかはすぐわかったといいます。お昼になると飯盒炊飯を始めるので立ち上る煙の数を数えればすぐわかったと云います。オソマツというのも憚られるアホさ加減を終戦まで変えませんでした。日本の軍隊のこの病的非合理性は現在の政府省庁に残っています。情報分析に基づく合理的・総合的な判断が苦手なのです。すぐに勢力争いやメンツの問題にしてしまいます。

ここで日本人の優れた点も書きます。それは28サンチ砲です。サンチはフランス語でセンチのことのようです。つまり直径28センチの大きな砲弾を打つ大砲のことです。最初はフランスでつくられたようですが、203高地攻略に使われたのは純粋に国産。大きな砲弾を真横に飛ばそうとすると推進力に大きな力が必要になるから、放物線を描いて目的地に飛ばそうとした大砲です。目的基地までの距離を測り、それによって大砲の仰角を決めて打ち上げ、弾丸は放物線を描いて目的地に着弾し爆発します。この大砲によって203高地の要塞を破壊することに成功しましたし、旅順艦隊に大きなダメージを与えることができました。

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小春日和のぶらぶら歩き

2014-11-06 | 気ままなる日々の記録

小春日和のぶらぶら歩き

 

秋の野草を土手に見つけました。タンポポは春の花と思っていましたら秋にもさいており、急いでシャッターを押しました。テレビによると西洋タンポポだそうです。1日前に見たときは綺麗な円形の綿帽子でしたが、それはもう崩れてきました。

コンバインをご覧ください。1000万円以上はすると思われる大型で、昨日はポニーテールのお嬢さんが見事に運転していました。バックも含めて機械操作が実に豪快でお見事。思わず道から拍手を送りました。お嬢さんと一緒に来ていた男の人は道に止めた軽トラの中でコーヒーをのんでいました。ここに時代を感じました。

以前から気になっていましたが、稲に混じって沢山の雑草が実をつけていました。コンバインはその雑草を稲と区別して扱い、コーヒーの男が時々出てきて雑草を取り除いていました。

これでこの地方の稲刈りは全部終了したようです。

 

 

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祖父と薪取りの思い出

2014-11-03 | 気ままなる日々の記録

 昭和20年は約明治80年ですから、私の祖父は明治12年の生まれだと思います。晩秋のぽかぽか日和の日には必ず祖父と林へ薪取りに出かけたことを思い出します。私の子ども時代は、どの家も晩秋に其の冬に必要な薪を取りに出かけていました。当時はまだ電気ストーブもガスストーブもなく、暖を取るには専ら火をたくしかなく、お風呂なんかも沢山の薪が必要でお風呂を立てた家へ貰い湯に出かけたり来て貰ったりしたものです。学校がお休みの日はお弁当持ちで家の林に出かけました。林に着くと祖父はまずその日の全体の計画を説明しました。最初は下草刈りといって鎌のしごとをします。ススキやハギなど、1~2メートルほど伸びた灌木を刈り取ります。

祖父は残しておきたい灌木に印をつけ、この木はここで大きくする,と数年先の林の姿をデザインしながら下草を刈ります。子供には鎌の使い方が難しいから主に剪定ばさみで灌木を根元から切らせていました。切った灌木は集めて束にして縄で縛ってリヤカーに載せます。予定の場所の下草刈りが終わると、次は「熊手」と云う道具で落ち葉をかき集めます。落ち葉は「繭籠」と云っていた大きな竹で作った籠に入れます。落ち葉は焚き付けに最適です。次に風などで折れた枝を拾い集めて束にして縄で縛ります。結構太い枝が落ちていたりしました。最後がチョット太い木を切り倒します。隣の木が大きくなって込み合ってきた木を間引くのです。この時は直径20cmくらいの木も伐りました。こうして倒した木は枝を落とし細かくしてリヤカーに乗せました。

 

お昼になると風の来ない陽だまりでお弁当を広げました・当時としては珍しい魔法瓶でお茶を持って行っていました。おかずは野菜〈サトイモやカボチャや大根)の煮つけでしたが、働いた後のご飯は本当に美味しいものです。お爺ちゃんは話好きで紙芝居屋さんのような口調で声色まで使って講談のようなお話をするのが得意でした。「おじいちゃんお話して」というと「いいよ。何のお話がいい?」と聞きますから

「楠正成の桜井駅の別れ」というと「よーし、といって立ち上がり身振り手振りを交えて「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならずの一席」と始めてくれました。この他忠臣蔵の○○茶屋の一席とか、織田信長の謀略とか、祖父の十八番(おはこ)が沢山ありました。

《祖父の十八番『織田信長の謀略』》の概略をここで紹介します。真偽のほどは分かりません。

織田信長は政略結婚で隣国美濃国の斉藤道三の娘濃姫と結婚します。この頃斉藤も織田も何時かは京都に攻め上り天皇を警護する役に付き天皇から将軍職に就くよう命ぜられることを望んでいました。つまり、自分が京都に攻め登っている間に隣国から攻め込まれないように同盟関係を結んでおこうという、魂胆でした。その信長が毎夜3時ごろになるとソット寝室を抜け出し清洲城の天守閣に登り北に在る斎藤道三の居城のある金華山の方を見ている。妻は意を決してある日夫に何を見ているのか聞く。信長は妻を正座させて「お前も織田家の人間になった。これから話すことは極秘中の極秘だ。間違っても斎藤家へもらすことのないように」と口止めしてから、「実は斎藤家の有力武将5人が俺の味方になって、準備が整ったら狼煙を揚げるのでそれを合図に攻め込んできてください」といっている。其れで狼煙の有無を毎晩見ているのだと話した。ここを話す時の祖父は迫真の演技で力を入れていた。濃姫は信長の言いつけを破ってそのことを手紙に書いて父道三に知らせました。やがて信長は斎藤家の有力武将5人が謀反の疑いで道三から切腹を命じられ腹を切り、その部下たちは無実だと騒ぎ道三の軍隊は大混乱に陥っているという噂を聞き、時来たりと金華山に攻め込みやすやすと美濃国を手中に収めた。

お話が終わると祖父は必ず「今日のお話で大切なことは何か」と訊ねた。そしてそれにどんな答えをしても「なるほど」と感心した振りをし、「もう少し詳しく話してくれないか」と説明をもとめることはあったが、「そうじゃなくて、大切なことはここだよ」等と云ったことは一度もない。信長の話で大切なことは人の云うことを鵜呑みにするな」ということで、私はいつもそう答えて褒められていた。人が何か言ったら本当かなあと自分で調べたり考えたりしないといけない。斎藤の父娘は二人ともそれが出来なかった。これが祖父が喜ぶ答えだった。

 

祖父は大規模自作農の後妻(先妻は病死)の長男として生まれ、最終的には曾祖父の家督を相続しましたが、小学校を卒業後に隣村にあった高等科に進学、卒業後母校の先生に頼まれて小学校の代用教員になります。代用教員時代、教師を続けるなら師範学校に行った方がいいというアドバイスを受け、その気になって師範を目指します。その時募集があるのは岡崎師範の秋募集のみで、これを逃すと来春までまたねばならないということがわかり、岡崎師範を受験し合格します。卒業まで寮生活をしたと云っていました。長期休暇が終わって寮に帰るときは朝4時ごろお弁当を二つ持って岡崎まで歩いたという話をよく聞きました。御昼近くなると、農家の井戸端に行って、水を貰い弁当を使わせて下さいと云うと、どうぞどうぞといって、お漬物や野菜の煮つけをもってきてくださったものだとのこと、岡崎の寮に着くのは夜の八時頃だったそうです。昔の人は皆親切だったというのが祖父の口癖でした。ところで、今調べてみると、明治28年日清戦争が終わってこの年に東海道線は新橋から神戸まで開通し急行列車が走り始めていますので、岡崎尾張一の宮間は普通列車が運行されていたと思われます。と云うことは運賃節約のための16時間徒歩だったと推定されます。

ところで、薪取りの方ですが、切り倒した太い木を、リヤカーに乗るように祖父が短くノコギリで切るとき、その木にまたがってその木がころころしないように押さえているのが子どもの仕事。さらに、切った木をリヤカーに乗せるまで、手伝うのも子どもの仕事だ。そのころには下草刈りを束ねたものや、落ち葉をかき集めた繭かごでリヤカーは一杯だ。そんな時には幾重にもロープをかける。

 夕方4時半ごろになると、帰宅する小学校の生徒が通り始める。多分、日曜日にも学校へ遊びに行っていた子どもたちが4時の下校時刻になって、日直の先生に帰るよう言われて帰りはじめたのだろう。しばらく生徒たちの動きを見ていた祖父が突然ピーッとホイスルを吹く。なぜか祖父はいつもホイスルを首から掛けていた。『○○小学校の生徒集合!』と云って右手を挙げる。よく通る大きな声だ。声に力があり無視できない迫力が込められている。生徒たちは何事かときょろきょろしながら集まってくる。その中の体が大きいガキ大将のような一人の生徒に「チョットこちらへ来て」と声を掛け「君の名前は?」と聞き出す『伊藤くんか。お父さんの名前は?」「ああそうかそうか、オジサンはお父さんをよく知っている」と話す。 

 集まった生徒が10~15人ほどになったところで「注目!」「礼!」「ただ今から○○小学校北東地区報国少年団の結団式を行う。[報告国少年団の「報国」は、ここで急に小さい女の子の声の真似をして『この前のお祭りの日、私はおばあちゃんに連れられてバスに乗って一の宮の針綱神社へお参りにいきました。お婆ちゃんは家族の健康を神様にお願いしたそうです。私は、勉強がよくできますようにお願いしました。帰りに綿菓子を買ってもらいました。これが、私の今年のお祭りの日の報告です」という報告ではないぞ!大きい子たちがどっと笑う。「報国少年団の報国は、今皆が通っているこの道や学校を作ってくれた日本と云う国に感謝しお礼をするという意味だ。皆のお父さんやお母さんが皆で助け合って高い税金と云うお金を国に払っている国はそのお金で学校や道を造ってるんだ。皆は道を通るたびに学校へ行くたびにお父さんやお母さん、お爺さんやおばあちゃんに感謝しお礼を言い、いつかはお返しをしなければいけない。分かりましたか?」分かった人は大きな声で返事を!」皆が大きな声で「はい!」というと「はい、皆お利口さんでいいこばかりだ!」「どういうお礼をするか?」『それはお父さんやお兄さんが兵隊さんに行っていてこの取入れの秋に働き手がいなくて困っておられるお家へお手伝いに行くことでお礼にする。」「伊藤君前へ!」「注目!この伊藤君を○○小学校北東地区報国少年団の団長に任命する。」「全員が団長の指示に従い一致協力して農家のお手伝いをすること。今日はその練習をする。その前に自分は伊藤君の友達だと思う人は前へ!」5~6人の男の子が間へに出てきた。「友達はいつも伊藤君を助けなければいけない。いいか!」この5人を○○小学校北東地区報国少年団の班長に任命する。一人ずつ自分の前に立たせて頭の上に手を置きながら第1班の班長。名前を大きい声で』と云って名前を云わせて次の子に移る。

 

結団式が終わった後、祖父は団長に指示して残りの荷物をリヤカーに乗せて自宅まで運ぶように指示した。伊藤君の指示は適格で、山盛りになったリヤカーにはロープを掛け、引きロープも3本ほどつけ班によって引き組と押し組に分けリヤカーが動き出した時には小走りするほどの速さになっていた。祖父はそれを厳しく注意しゆっくり進めた。事故や怪我をおそれていたからだ。リヤカーは無事自宅の庭に到着し祖父が子供たちに『今日はみんなよくやりました。皆で力を合わせておおきな仕事をするという体験をしました。団長さんもよく号令を掛けていました。班長さんもよく隊長さんを助けていました。皆もよく協力しました。○○小学校の生徒さんは皆立派です。それでは解散します。道草をせず急いでお家へ帰ってください。道は分かりますねお家の近くまでは皆一緒に帰って下さい。解散!」。

 このお話は昭和18~22年ころの出来事ですが、現代ではこんなことはできないと思います。当時は地域のお年寄りが近所の子どもたちをよく叱りよく褒めていた。それに当時は祖父の行為をズルいとみなす人はいなかったと思う。地域の大人たちの結束も強く、それぞれの人の個性を知り尽くしたうえでの付き合いで助け合っていたと思う。祖父に関して言えばあの人は子供好きで子どもと一緒に何かをしたい人だからなあ、ぐらいであったと思われます。今思い出しても祖父は子供たちの心をつかみよく笑わせ、子どもたちを思うように動かしていたと思う。これが真の指導力なのでしょう。多分これは師範学校の付属小学校での教育実習中に指導教官に教えられて身に着けたものと思われます。戦後の教育改革はこうしたものも全部壊してしまいました。

そう云えば、晩御飯が終わるごろ近所のお婆さんがよく祖父を訪ねて我が家に来ていました。戦地の息子から手紙が来たというのです。祖父と同年配の女性で読み書きができない女性は沢山いました義務教育は小学校4年までで小学校5~6年になると弟や妹の子守りを仰せつかる立派な働き手で学校などへ行かせてもらえない家庭が多かったのです。

祖父はまず、手紙を大声で何度も読んであげます。次が返事を書くことになります。どういう返事を書くか文章まで相談して手紙を書いてあげ切手を貼って或いは封筒に入れ切手を貼って「これをお宮の前のポストに入れやあ。と云ってお婆さんに手渡します。祖父の机には切っても封筒も便せんもハガキも全部そろっていて、返事を書いてあげるということは何でもないことだったのです。でもお婆さんは大変喜んで何度もお礼を言っていました。このように、当時の田舎はの大人たちは全員が家族か親戚のような強いきずなで結ばれていました。これも戦後無くなりました。

 

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イエローナイフとナパ・バレーについて(追記)

2014-11-03 | 気ままなる日々の記録

私のブログでチョット触れたカナダのイエローナイフとアメリカのナパ・バレーについて偶然とはいえ最近新聞で話題になっているのでチョット触れます。

イエローナイフでは、日本人の女性が一人行方不明になっていて,カナダの警察がヘリコブターを出して捜索にあたっているというニュースです。今の時期、当地は激寒でとても外で一夜を過ごせるはずもなく、何処かのホテルにパスポートを提示して泊まって居たらすぐにわかると思われ、チョット不吉な感じです。無事を祈らずにおれません。ナパ・バレーについては、毎日新聞11月1日号6面の人欄で詳しくワイン栽培に関して述べていました。ここでワイン栽培を始めたのは日本人の実業家辻本憲三さんで、今では世界でも有名な美味しいワインを製造しておられるとか。私と友人があの頃バンクーバーにいたら必ずナパバレーに行って日本人経営のワイナリーにたどり着き,秘蔵ワインを大量に買い込み今頃大儲けしていたかもしれないと思うと急逝した友人が惜しまれます。大儲けというのは、秘蔵の古ワインはオークション市場があって、人気のある年代物ワインには驚くほど高い値段がついて取引されているからです。お金持ちの息子が父の米寿祝いをするのに、父が好きだった○○ワインの××年ものを探しているという注文が入ると個人秘蔵の該当ワインが1本200万円で取引されることも稀ではないからです。急逝した友人について無常にして無情と書きましたが、もう一つ無念を加えたいと思います。

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