山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

 火事と喧嘩は江戸の華

2024-04-12 23:13:46 | アート・文化

 とあるカレンダーに幕末から明治に活躍した豊原国周(クニチカ)の役者絵を見た。「明治浮世絵の三傑」というと、月岡芳年・小林清親・豊原国周だが、前者の二人の名前はよく出てくるが、国周はあまり知られていない気がする。しかし、引越しは83回、妻は40人以上替えたと言われた奇行の主だ。それでも、国周の役者絵の巧さは飛び出ている。

 この三枚続きの大判の錦絵は、明治24年(1891年)、澤久次郎が「歌舞伎新狂言出初之場」として出版したものだ。

  

 中央の「尾上菊五郎」は梯子のてっぺんから火事の様子を見るしぐさを表しているようだ。「纏持ち」は火消しの花形として人気の的であった。実際には火事の隣の屋根で纏を持って火消しの指図をする鳶職人の指導者である。だから、どこの組が一番最初に纏を掲げるかが町民の関心の一つで、そこでの先陣争いの喧嘩も見ものの一つだった。

 服装は黒のもも引き・腹かけの上に半纏を着ている。半纏の柄は、「吉原繋ぎ」というひし形の繋ぎデザインがぴったりだ。その「吉原つなぎ」は、吉原に踏み入れると解放されない意味と人間関係の良縁を現わす意味とがあるという。実際の現場では厚手の刺し子を着るようだが、出初式なので軽装である。火事現場は江戸っ子のいなせな男を代表する命がけの晴れ舞台だった。

  

 その左は、「筒先」の「尾上栄三郎」。浜松市佐久間町浦川の尾平峠になんと尾上栄三郎の墓がある。尾上栄三郎は、主に安政年間(1854~1859)に活躍したが、飯田で公演中に病で倒れた。浦川に蘭学の名医三輪見龍がいることを聞き、天竜川を下って辿り着いたが、病は全身を蝕んでおり、死を悟った栄三郎は、世話になった村人への恩返しに「仮名手本忠臣蔵 五段目 山崎街道の場」を演じ、その舞台の上でこと切れたという。安政5年(1858)4月、享年29歳だった。没後、村人は歌舞伎の魅力にとりつかれ、役者を呼んで歌舞伎を上演していたが、そのうち、自分たちで演じるようになり、地域住民による浦川歌舞伎が始まった。

 

 右側の「尾上菊之助」は「小頭」の法被も栄三郎と同じデザインの「釘抜つなぎ」。このデザインは多くの「九城を抜く」、つまり多くの城を攻略するたとえで立身出世をするとか、「苦を抜く」という江戸っ子らしい意味の法被で鳶職人に人気のデザイン。

 江戸の消防は武家には熱心だったが、町人地はおざなりだった。そこに大改革をしたのが暴れん坊将軍・徳川吉宗 というわけだ。その方針は、「町人による町人のための消防組織を設置する」というもの。それを受け、新たな消防組織づくりを実行したのは“大岡越前”こと大岡忠相(タダスケ)。1720年(享保5)、民間の「町火消」の誕生だ。だから、火事に悩む町人からはこの二人の人気は高まったわけだ。「め組」のロゴが圧倒するが、め組が有名になったのも奉行を巻き込んだ大喧嘩だった。

 

 

 

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