山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

久しぶりに本箱作ったよ !!

2023-01-30 20:37:34 | リフォーム・屋内作業

   読みたい本がついつい溜まってしまう。それがいつの間にか、読んだ気になって「積んどく」となる。炬燵の周りは本が邪魔して動けなくなる。そこで、やっと重い腰をあげて本箱を作ることになった。

 さいわい、数十年前に買っておいた材料があったのでそれを利用する。ただし、棚板が1枚足りなくなったので、古材を探したら古民家改造の時とっておいた床板を採用する。しかし、明治の床板のようで平らではなかった。手斧で削ったのだろうか。しかも、虫食いもひどい。さっそく、水性ペンキでそれをごまかして組み立てる。とはいうものの、全体のサイズが合わなくなり最終的にはカンナで調整する。

           

 土台に2個の基礎材を置くことにする。その板にあうものを探してみたら、やはり古民家改造の時にとっておいた広葉樹の敷居を使うことにした。銅でできたレールを外して一部虫食いもあった。これも白ペンキでカバーする。むかしの材木はどっしりしていて多少の虫食いや傷があっても安心できる。

      

 余ったペンキは、いつも酷使している作業台を塗ることにする。また、基礎材の上におく厚い板も製材所からいただいてきたわけあり板を白ペンキでごまかしていく。この白ペンキも5~6年前の残りものだ。要するに、今回の材料はほとんどすべて廃材やら手持ちの余り物で作ったことになる。

         

 ついでに、近所の大工さんからいただいた椅子の板も残った最後のペンキで塗る。この椅子はパイプも板も廃材で造られている。焚き火で野外クッキングするとき重宝している。野外専用の椅子だ。

  ペンキ塗りは、雪や霜や低温でペンキがなかなか乾かないので、それを待ちながら塗ったのでそれぞれ時間はかかっている。最後に、本箱は5mmのベニヤを張って裏板補強とする。いずれ転倒防止の機具を取り付ける予定だ。

           

 やっと、念願だった本箱に書籍を並べることができた。それでも、全部を収容できたわけでもない。炬燵の周りになんとか空間ができたことを良しとする。場所の関係で幅が60cmくらいしか取れなかったものの、久しぶりのDIYを楽しむことができた。廃材や余り物が生かされたのが何よりうれしい。

 

 

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ついにプレーパークの場所が決まった

2023-01-27 16:59:58 | できごと・事件

 フキちゃんらが模索してきた冒険遊び場の場所がついに決まった。フキちゃんの自宅から歩いて5分ほどの小さな広場と森だ。地主の方のご厚意で使用できることとなった。数年の間、いろいろな所でやってきたがなかなか定着しなかったが、地元の方との信頼関係が実ったというわけだ。

 冒険遊び場は、こぎれいな公園ではなく、子どものニーズにあったガラクタがあり、泥や水があり、火を焚ける場所だ。それは1979年、世田谷の「羽根木プレーパーク」が日本での第1号だったが、近隣からの顰蹙と妨害の難産な歴史でもあった。

  

 それは、建築家の大村虔一・璋子ご夫妻が海外のプレーパークを視察してきて、日本に導入・提案してきた運動でもある。それが全国に広まり、2020年度には全国に458団体が活動しているという。一般的には遊び場がなく緑の少ない都市が中心の活動だが、過疎地での活動はよけいに困難が極まる。こどもがもともといないし、その「迷惑」場所を受け止められる地元じたいが空白状態になっている。

           

 それをあえて突き抜けていっているのがこの二人の若い夫婦だった。今までその試みをやってきた若手の先人もいたし、それをオイラも若干のお手伝いもしていたが、それは事実上停止状態となっている。その意味で、今回の根拠地が決まった意味は大きい。つまり、イベントはいつでも「やらない」という逃げ道があるからでもある。それを常設の場所を決定したということは、そこに、希望を実現しようとする「意思」「覚悟」を改めて掲げたことになる。

              

 定例会は第4日曜日にし、毎週火・木曜日が平日例会といち早く決定して、すでに活動を開始していた。オイラもあわてて第1回のオープン定例会に馳せ参じた。そこは住居表示の出ていない中山間地の場所でもあり、なかなか目的地にたどり着けなかったが、なんとか到着。すでに、10組ほどの親子が集まっていた。ヤギとニワトリが出迎えてくれた。背景のこんもりとした森も使わせてくれるという。

   

 不登校の子どもも常連メンバーとしてそこにいる。そうした子どもや親にとっては、この空間はなくてはならない場所となっていくに違いない。きっとこれから、大きな問題や困難が襲うだろうが、それを突破しようとするパワーがここにはみなぎっている。また、それをさりげなく応援しようとする若い夫婦の輪が行くたびに増えてきているのを実感する。まるでこういう場を待っていたみたいだ。

          

 この森のすぐ隣には、八幡神社が鎮座していた。このプレーパークは結果的にまちづくりにも貢献している。最近のせちがらい暗いニュースが飛び交う世界の真ん中で、この希望に満ちた人間群のなんという輝きだろう。ここには、忠君愛国の御旗も尊王攘夷のスローガンもない !?

 あるのは、肩の力を抜いてあるがままで生きていこうとする謙虚さがある。無理して背伸びしたプロパガンダもイデオロギーも必要としない。子どもとともに成長していこうとする当たり前の「人間力」があるだけだ。神の御名においてこの空間を鎮護してくれるよう八幡神社にお願いするばかりだ。

 

 

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「何に向かって歩くのか」の検証こそ…

2023-01-25 16:48:20 | 読書

 どうも敗者の歴史に目が行ってしまう。幕末の水戸藩で5000人もの死者を犠牲にしたという「水戸天狗党」にからむ悲劇に関心を持った。そこで、山田風太郎『魔群の通過 / 天狗党叙事詩』(ちくま文庫、2011.5)を読む。山田風太郎といえば、史実を奇想天外・魑魅魍魎のドラマ展開で人気である。

  しかし、この天狗党叙事詩は、史実を丹念に吟味しながら生々しい凄残さとロマンの行方の儚さが読後の余韻に漂う。今までの娯楽小説中心ではなく真摯な風太郎の怒りとやるせなさがにじみ出た傑作となった。表紙は南伸坊のデザイン。

       (武将ジャパンwebから)

 徳川御三家の一つ、水戸藩といえば、「尊王攘夷」で幕末の志士たちを鼓舞した理論的支柱となった。藤田東湖は水戸藩主徳川斉昭の片腕として藩政改革をするとともに攘夷政策の中心人物となる。一方、西郷隆盛をはじめ全国にも影響をもたらした。天狗党の藤田小四郎は東湖の四男。

 東湖の影響により下級武士を中心とした攘夷派には有能なブレーンたちが育ち、彼らが藩の中枢を占め始めると保守派との抗争が激化する。「天狗党」のネーミングは、成り上がり者が天狗になっているという保守派の軽蔑が込められているようだ。

      

 水戸藩の内部抗争は複雑で混乱の極みだった。一か月単位で「藩論」が変わり、内部での粛清・テロなどの直接行動も深刻化する。そんななかで、藩政改革に挫折した天狗党は、藤田小四郎らが筑波山で攘夷実行を幕府にアッピール。元家老の武田耕雲斎らは徳川慶喜経由で朝廷に天狗党の「志」を奏上すべく京都へと「長征」していく。

          

 しかし、1000人くらいの天狗党も食料が豊富にあるわけでもなく、現地調達という略奪・殺戮を各所で行うこともあり、幕府軍は天狗党を「賊」として追討を決定。天狗党は大砲・鉄砲などの武器運搬をはじめ、道なき道の進軍の厳しさは勿論のこと、冬の峠越えは難航を極めた。

 渋沢栄一が旧友の小四郎らに慶喜からの降伏の密書を持って行ったらしい。それを拒否したものの降伏するや、耕雲斎ら830名近くが逮捕、ニシンの蔵にすし詰めされるなどして死者も頻発、結果的には353名が斬首となる。

  

 攘夷を貫くという大義が「魔群」となり、各地方を荒し「通過」していく。それを立派な「勇士」ととらえる武士や農民らもいたようだが、実態は有難迷惑だった。各藩はなるべく戦闘は避けて宿舎を用意したり、現ナマで暴れないよう懐柔した。農民にとっては一時挑散したり、村ごと全焼させられたりの被害も大きかった。このあやふやな行軍の大義は多くの血と汗と人生を巻き込んでしまった。(図は「SAMとバイクとpastime」webから)

      

 山田風太郎は、武田耕雲斎のせがれであり当事者だった源五郎を語り部として悲惨な史実の黒子として採用し成功している。それは純粋な志が現実の壁に次々裏切られ、しかも凄惨な死を産み出していく過程の歴史小説でもある。それは「討つもまた討たれるもまた<敗者>の地獄」だった。皮肉にも、水戸の攘夷理論は薩長の御旗に変質し倒幕にすり替わってしまった。なんのための行軍だったのか。そんな怒り・苦衷・儚さ・慟哭がじわじわと迫ってくる。

          

 イデオロギーの魔界にすべてを失った男衆のなかに、女性の「人質」がいた。ここに風太郎らしい仕掛けがあった。その人質の「警護・監視」をしていたのが、十代の少年武士だった。その一人の語り部の武田源五郎は少年だったため斬首は免れた。イライラする行軍にホッと一息入れるのが人質の女性だった。詳細は著書に譲る。

  

 風太郎はたんたんと源五郎に語らせる。「それにしても、これほど徹底して見当ちがいのエネルギーの浪費、これほど虚しい人間群の血と涙の浪費の例が、未来は知らず、少なくともこれまでの歴史上ほかにあったろうか」と。

 天狗党幹部の家族の妻子は皆殺しとなった。しかし、幕府がなくなると今度は天狗党の残党が水戸の中枢を握り残酷な復讐をしていく。そのため、明治政府には水戸出身の高官はいない。天狗党蜂起のロマンは、「水戸内部の惨劇が、血で血を洗う復讐ごっこの反復で、あとにはだれもいなくなった」という結末だった。挫折経験豊富な風太郎の静かなまなざしがはかなく光る名作だった。

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縁起物から地域特産品へ

2023-01-23 18:36:23 | 食彩・山菜・きのこ

  先日、尾上邸の梅の強剪定をしたが、切り口からのウイルス侵入を防ぐため後日墨汁を塗ることにした。その折、野菜や柑橘類をいただいてきた。和宮様はさっそく柑橘類のダイダイをジャムにしようと皮をむき細かく裁断し始めた。というのも、ダイダイは従来縁起物でその酸味や苦みの強さから食用には向いていないとされてきたからだ。           

           

 ダイダイのことを中国では「回青橙(カイセイトウ)」と表示される。つまり、これを食べたり飲んだりすると青年のように若返る健康食材だという。というのも、実がなっても数年はそのまま生き続き、いったん黄色くなっても翌年には緑になるからでもある。そこから、家が「代々」栄える、命が若返るという縁起物になり、鏡餅やしめ縄などに飾られている。

    

 しかし、その需要も激減し、実を廃棄したり、果樹を伐採したり、後継者がいないとかの現状もある。そんな中、ダイダイ生産量日本一を誇った熱海市では、「熱海ダイダイ」を地域の特産品として盛り上げようとプロジェクトを結成し、商品開発をはじめとした官民挙げた取り組みを注目したい。こうした熱い息吹が地域や日本を変えていく。

 そんな「日本を取り戻す」息吹に感心しながら、和宮様御手製のジャムをありがたくいただくのだった。酸味がほどよくダイダイを主張している。

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忘れられた明治の英傑・田岡嶺雲

2023-01-20 20:36:35 | 読書

 名前だけは知っていたがどんな人物かよくわからなかった田岡嶺雲(レイウン)。明治末に刮目した評論家として活躍したのにもかかわらず、その業績や一生は知られていない。しかも彼を研究したのは、元法政大教授・平和運動家の西田勝氏と教科書裁判で有名な家永三郎氏しか見当たらない。そこでやっと入手したのが、家永三郎『数奇なる思想家の生涯 / 田岡嶺雲の人と思想』(岩波新書、1955.1)だった。

   

 高知で生まれた嶺雲(1870・M3~1912・T1)は、少年時代に植木枝盛や板垣退助などの自由民権運動の雰囲気を直接的に体験する。東京に遊学した彼は、内村鑑三の授業を直接学んだり、帝大ではハイネに傾倒し、日本にハイネを最初に紹介した第一人者でもあった。

 その後、中学の寄宿舎の同室の友・山縣五十雄と一緒に文芸誌『青年文』を創刊。そこで、新進作家だった樋口一葉・泉鏡花・北村透谷らの才能を高く称揚し、文壇に新しい空気を注入する。そこで嶺雲は、近代社会の道徳的頽廃を告発し、貧窮する庶民へのまなざしを開眼すべしと訴える。それは同時に尾崎紅葉をはじめとする明治の世俗的権威・文壇への反論でもあった。

        

 そして、「万朝報」の論説記者時代では、欧米帝国主義からアジアの解放を主張したり、反藩閥・反富閥の運動を提起する。その後、北清事変の特派員となり、戦争の悲惨さや日本軍の残虐をまのあたりにし、帰国後それを発表する。また、岡山県知事らの汚職を摘発するが逆に「官吏侮辱罪」で訴えられ刑務所に収監される。

 また、文芸評論家として、夏目漱石・木下尚江を推奨したり、与謝野晶子の「君死に給うこと勿れ」を批判的に擁護したり、反資本主義・女性解放を見極めた先験的な主張をする。当時の文壇の流れに抗した孤塁で論陣を張る。

  

 しかし、こうした嶺雲の先駆的評論は、ことごとく発禁処分ともなる。したがって、資料がなかなかないというのが現在の実情だ。嶺雲は、文明の進歩によって、国家が作られ政府・軍隊も組織された。そして、貨幣・商業・私有財産・資本・機械も発明された。という経過を描いているが、その叙述がじつに唸ってしまう筆力だった。紹介したいが長くなるので結論だけ、「文明と進歩、そのおかげで地上は不平等の世となり、人は自由なき民となった」。現代文明の病根・幣はここにありと鋭く告発する。時代は明治の藩閥・軍事体制が確立まもないなか、直截に繰り返し主張したのだった。

         (画像は嶺雲、潮光庵ブログより)

 家永氏は、共同で雑誌を創刊した山縣五十雄氏に会い、嶺雲の性格を取材している。それによれば、「田岡はまったく天才肌の人物で、我儘なところもあり、俗世間とはしっくり合わぬようであった。非常に情熱的の、詩人と云うべき人物であろう。…矛盾した性格をもち、一方で子供のようなところがあるかと思うと、他方では老熟したところがあった」と。

   

 家永氏の評価は。「嶺雲は直感的思想家であった。…しかし、彼は迂遠で悠長な論証を通り越して直ちに核心をつかむ能力をもっていた。あらゆる破綻にもかかわらず、彼の直感的天才の洞察力はその著作の中に不朽の光を放っている。彼の直感を支えるものは、彼の熱烈な正義感と人道。これがある故に、彼は他の一切の不足を克服して、本質的な認識に到達する直観力を駆使しえたのである。」と。

           

 嶺雲は、明治初期に生まれ、帝大では漢学科に在籍していた。したがって、漢文の素養があり、その文章は今日では難解でもある。家永氏はそれを踏まえて読み込んでいるのだから学者の力量には頭が下がるしかない。西田勝氏は散逸している文献を「資料集」にまとめたという歴史的事業も残した。

 江戸の洋学者がいち早く世界を知ってしまったが、嶺雲は、文明開化した明治の本質が太平洋戦争につながることを直感的に見抜いていたともいえる。それはまた、現代の世相を暴露してやまない宝刀そのものではないかとも言える。現代から見れば嶺雲の限界や弱点も見えてくるが、その生涯は一貫していて、その核心は現代を抉って余りあるものがあった。

 

 

    

 

 

   

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消火栓は目立つフロンティアだった

2023-01-18 22:48:22 | 路上観察

 先日、秋葉神社の麓を歩いていたら、路上にあった消火栓マンホールに出会った。背景がきっと薄い黄色だったのだろうけど、鮮明ではない。この手の消火栓は、消防車が赤色、背景が黄色というパターンが多いようだ。文字の字体だけ黄色というのもある。最近のマンホールはカラフルになってきたが、消火栓がその最初だったかもしれない。なにしろ、いざというとき目立たなきゃーね。

 基本的にこの消防車デザインが全国に広まっているようだ。上側のやや右に、「市章」が小さくあるのも基本的パターンだ。

          

 撮りだめしていた画像を見返していたら、横浜市の消火栓マンホールがあった(2019.1)。「FIRE HYDRANT」という横文字を入れるなんてさすが国際都市。それに、中央に海の波だろうか、外側に森や緑を表すデザインで横浜らしさを表現しているようだ。オリジナリティがあるのがいい。

          

 浜松市の「防火貯水槽」も発見した(2015.3)。中央に浜松市の「市章」、八角形の中に防火貯水槽の文字を散らし、背景は白。外側は、「火」をデザイン化して、背景は黄色。「火」の文字をデザイン化する例は他でも多いように思えた。

       

 2007年に浜松市天竜区に移行した「旧天竜区」の「防火用水槽」も発見(2016.10)。中央に消防マークが鎮座している。そのデザインの意味するものは、右図のとおり(岐阜・可茂消防事務組合WEBより)だ。「水柱」はノズルの筒先から出た水を表す。なお、わかりにくいが中心のマークは旧天竜市の「市章」。天竜の「て」の字体を図案化したもの。「登天の龍」を意味し、市の飛躍発展を願ったもの。天竜区熊地区で発見したものと思われる。

 このところ、コロナ禍や年齢のこともあるが、あまり出掛けることがなくなった。そのため、路上観察はなかなかできなくなった。したがって、ブログの内容も狭い題材しか描けなくなっている。その井戸の中から外界を見ようと苦戦しているのが実情だ。

 

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拝啓 !! 毎日干し柿をいただいております

2023-01-16 19:59:32 | 農作業・野菜

  昨年11月末、近所から「渋柿が大量になっているから収穫に来ないか」と誘われ、さっそく何人かと収穫させてもらった。わが家だけでなんだかんだ段ボール4箱分 となった。干し柿にした柿は大小合わせて300個以上はあったかと思う。

 おかげで年越しした現在も、毎朝、干し柿を食べるのが楽しみとなっている。作成した和宮様もその大変さも吹き飛んでしまうほどの満足度のようだった。食べるたびにわかってはいるのに、「うま~い!!」を連発してしまう。いまは、冷凍した干し柿を取り出していただいている。近所の方に感謝・感謝あるのみだ。

        

 干し柿にはしたものの、まだ残ってしまった渋柿があった。そこで、簡単にできる「柿酢」を作ることにした。保存瓶にへたを取った渋柿を放り込むだけ。呼吸できるように蓋はせずに「リード」のペーパーで蔽いをして輪ゴムで止める。瓶を部屋の片隅に置いておく。うまくいけば、野菜ジュースにも使えるはずだ。

          

 以前、甘柿で柿酢を作ったが表面に白いカビのようなものができたので処分してしまった。しかし、このカビは酵母菌でむしろ有用な菌だったのだ。残念、この菌をかき混ぜていれば成功していたのに。知らないことは恐ろしい。もし、黒・赤・緑のカビだったら、それは腐敗菌なのでこれはあきらかに失敗ということで処分しなければならないが。

   

 先月、隣の集落の古民家に吊るした干し柿の風景が絵になっていた。渋柿は甘柿より糖度が高い。タンニンがそれを邪魔するので、干すことで糖度が活きてくるという。

 また、残りの渋柿の外皮をきれいに保存さえしておけばそのまんま完熟する。すると柔らかい甘柿になっていく。最近その完熟の渋柿すべてを完食することができた。甘さは焼酎漬けとほとんど変わらない。これなら、オイラのようなグータラ教信者にはぴったりだ。恥ずかしながら遅い目覚めだが、「渋柿隊」の価値の深さがやっとわかってきた。

 

 

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閉校の校庭は親子の解放区 !?

2023-01-13 19:25:35 | 市民活動・まち育て

  昨年、といっても数週間前の大晦日だった。閉校となった小学校の校庭で親子のプレイパークが行われた。大晦日だから人は集まらないだろうというオイラの予想はまたもや大きく外れた。20組以上の親子が続々と参集した。小学校の管理は地元の民間会社に移行され、その前向きな好意のおかげで実現の運びとなった。強風の心配は杞憂だった。紺碧の空と風光明媚な山並みが若い親子を迎えてくれた。市街地から迷いながらもはせ参じた親子が多い。

  

 やはりメインとなったのは焚き火となった。直火は消防署の「指導」で実現しなかったが、山猿さんのドラム缶コンロが大活躍した。オイラもさっそく若い夫婦と子どもたちに混じりながら、お餅を焼いたり、ハブ茶の実の焙煎をやったり、焚き火クッキングに勝手に参入する。山猿さんも大量の甘酒を用意するばかりか焚き火キーパーとして参加者の焼き芋やお餅の焼け具合を見てくれた。

   

 広い校庭で子どもたちが駆け回るのをチャンスとして親同士の会話も余念がない。そんな中に、不登校の子どもたちの居場所を考えている親がいた。そこにそれを支援してくれるようなアドバイスが飛び交う。たとえば、山猿さんも木工教室のリーダーとの相談がまとまったようだ。このように、切実な問題をかかえた親子にとっても、このプレイパークの空間が生かされている。

 なにしろ、親子が持参してきたお餅・サツマイモ・焼きそば・豚汁などが焚き火という非日常を豊かにしてくれる。それ以上に、広い校庭という安心できる子どもの遊びがあるというのが、親のおしゃべりを支援してくれる。

  

 子どもたちは水たまりでヤゴを発見したり、その近くからウスバカゲロウの幼虫「アリジゴク」を確保していた。その素早い行動と感性はプレイパークならではのものでもあった。はじめは親から離れない子どもでも、いつのまにかどこにいるかわからないほど校庭を走り回る駿馬となっていた。 

 

 不思議なもので、とある参加者がどでかいエア遊具や大量の市販のおもちゃを持ちこんだが、子どもたちはあまり遊ばない。むしろ、泥・水・木・火などの魅力や手作り遊具そのものの面白さを常連の子どもたちはわかっているようだった。

       

 閉校された校内には色あせたレリーフがひっそり残されていた。そこには、宝塚の白井鐵造にちなんだスミレの花があり、急坂の上にある校舎に通う児童を見守る茶畑の大人の温かい構図が見事だ。

 過疎の小学校のゆったりした空気は都会の競争原理と経済効率には無力だった。しかし、このプレイパークにこだまする親子の弾む空気は、目線を上に空に向けられる。この空間を後押しするパワーがここにはある。生きる勇気とヒントとがそこに秘められているように思える。

     

 開校100周年を記念して建立した石碑には、「遥かなる我が道 逞しく進まん」という言葉が刻まれていた。ひっそりたたずんでいたこの石碑は、今は束の間かもしれないが息を吹き返したのだった。この言葉は、本校の児童へのメッセージだけではなく、地域に生きる人間に向かって投げられた願いでもあったのだ。この石碑を知った参加者はおそらくいなかったのではないかと思えるが、大志はいつか実現するものだと思いたい。プレイパークを主催するコアなところではすでにこの言葉は伝授されているよと申し送りたい。

 

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仙人を超えるすごい90代 !?

2023-01-11 20:12:50 | 読書

  過疎化がすすみ集落ごと消失してしまった地域もあるいっぽう、いまだかくしゃくとして現役を生き抜いている90歳代の高齢者がいる。浜松の奥山・天竜区に住むそのスーパー高齢者が登場するドキュメント、池谷啓『過疎の山里にいる普通なのに普通じゃない・すごい90代』(すばる舎、2022.10)を読む。

   

 活字もやや大きく、行間もそこそこあり、文章のフットワークもあり、すいすい引き込まれる。そのため、数時間あれば読破できるのがいい。そこには、90代ならではの風雪を超え荒波に削られたそれぞれの人生の奥行が醸し出されていた。その人生100年時代の特徴は、著者の一言でいえば、「<今日、することがある>こと、そして、それらを自ら生み出すこと」が鍵だと喝破する。

   

 著者は各人各様の元気ぶりの共通点を次の7つに集約している。

 1 日々するべき仕事がある。 2 暮らし・家事の中に動きがある。 3 菜食を中心とした粗食。 4 おしゃべりできる相手がいる。  5 ささいなことを苦にしない。 6 今ある暮らしに満足している。 7 人に喜んでもらうことが喜び。

  

  これらの共通点は90歳代だけのことではなく、年代にかかわらず人生の目標そのものではないかとも思われる。それを無理なく模索し、牛歩のごとく一歩を歩んでいくとするのではないか。その人生の仕上げの結果を著者は仏教の「少欲知足」とまとめる。オイラが長髪のころ修学旅行で見た禅宗・竜安寺庭にあった「つくばい」の「吾唯足知」の境地とほぼ同じだ。

        

 同じく、信州・伊那谷の老子と言われる加島祥造の詩『求めない』が想い出される。人や暮らしに多くを求めないことが幸せの真髄だということだ。大木を伐採し枝打ちもする林業家の鈴木さんの珠玉の言葉が、「不便というのも、悪いものではない。それだけで体を動かすことができる」と。

  

 それはオイラが農業もどきをやりながら痛感していた「農業は心身のリハビリだ」と思ったことと共通する。スーパー高齢者の達人たちは、山並みに囲まれた自然環境の中で心身をはぐくんできたこと、目の前の暮らしを身体を使って動いてきたこと、それらの中にある、人と自然とのかかわりから感動する感性を磨いてきている、というのが読み終わっての感想だ。

   

 都会から移住してきた著者がこの達人たちと出会った感動はよくわかる気がする。というのも、オイラの周りにも似たような達人たちがわんさかいるからだ。それは学歴とはいっさい関係がなかった。そこには、山里という不便な暮らしの中で鍛えられ、そこで人間力を育んできたということに違いない。それを除去した都会という虚像は人間の生きる根源をさらってしまうところでもある。土から緑から遊離した暮らしは歪みを環境に人間に醸成してしまう。

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親子で強剪定と焚き火と

2023-01-09 21:41:01 | 出会い・近隣

  朝起きたら、きょうもすっかり霜が降臨していた。きょうは尾上邸の梅を剪定する応援に行く予定だが大丈夫かと心配になる。フキちゃんの情報では20人近くの親子が助っ人で来てくれるという。ただし、子どもの多くが幼児なので剪定そのものの参入はむずかしいのかもしれない。

   

 去年の冬には剪定できなかったので、6月の梅もぎはちょっぴり苦労してしまった。そのため、今年は強剪定することとなった。クロちゃんがチェンソーで太いところをバリバリ伐ってくれたので、比較的短時間で作業ができた。ただし、その片づけは軽トラック2台のピストン輸送となった。

    

  若い親子に混じっておじさんたちも負けてはいない。剪定の仕方や剪定ばさみの使い方を親子に伝えていたのも印象的だ。なんだかんだ、参加者は30人近くの親子へと肉薄した。「これなら、150人くらいの花見ができそうよ」との豪快な声もあがっていた。鼻息の荒いママさんたちのパワー満載の集いと化した。実際、春には山や庭に植えた桜が満開になり、川沿いに植えた花桃も満開になり、まるで桃源郷にいる景観なのだ。それらを尾上さんは自前で植栽してきたのだ。

         

 いっぽう、子どもたちは案の定、、隣の川や田んぼや火遊びなどで動きっぱなしだった。街中での暮らしをしている親子が多かったせいか、自然風景に囲まれた中山間地の魅力を身体で感じたようだ。

 夕方近く、さっそく親たちも春の花見をしようとの具体的な日程が検討された。政治力が皆無の「桜を見る会」だ。一週間前に草刈りや会場の整備をしてから本番の花見を迎えるのはどうかとか、プレイパーク事業の一環としての花見もどきをするのはどうかとか、建設的な意見がどんどん噴出した。そのくらい、興奮が冷めない空間ともなった。

      

 急遽作られたテーブルには、和宮様が作った暖かい豚汁を始め、段ボールでのミカンの差し入れ、焚き火コーヒー・ハブ茶、焚き火定番のお餅・焼き芋・ギンナン、手作りの干し柿・渋皮煮などがいつのまにか提供されていった。若い親同士の交流、腹いっぱいの食道楽、適度な参加型肉体労働、焚き火がつなぐ人の輪、自然が人を結びつける景観力、この時空には無理のない希望がみなぎっていた。

 停滞が地方をも人間をも席捲している日本の中で、このパワーが失わないよう持続を願うばかりだ。そんな応援をちょっぴりしていきたいものだ。     

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