山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

「秋桜」を広めたのは…

2021-09-30 22:34:06 | バタフライガーデン

 近隣の畑の周辺ではコスモスの花の見事な群落が秋を告げる。わが庭の内縁に撒いた種からコスモスの花が咲いてきたものの、間隔が空き過ぎてパッとしない。しかも、倒れているものも少なくない。

             

 そうは言っても、荒野状態だったところに「秋の桜」が咲き始めたのは前進だと思いたい。さだまさしが作詞作曲した「秋桜」のメロディーが心を揺さぶる。コスモスを「秋桜」と読むのを広めたのは、さだまさしと山口百恵のおかげだ。それほどに、桜色が中心の花の色だからでもある。

             

 もともと、コスモスはメキシコの2000mほどの高山地帯に自生する植物だった。それをスペイン帝国が自国の植物園に持ち帰って、「コスモス」と命名したのだ。ギリシャ語では「調和」とか「秩序」とかの意味があるらしい。植民地支配しながら「調和」という言葉を使うなんてけしからんと今にして思うのだが。

 「秋桜」の歌詞から、「こんな小春日和の穏やかな日は あなた(母)の優しさが滲みてくる」というリフレインを想う。「何気ない陽溜まりに揺れている」コスモスは、すっかり日本の風物詩となっている。が、コスモスは明治に入って渡来した外来種なのだった。

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まもなくデビューですよ

2021-09-29 23:10:03 | バタフライガーデン

 バタフライガーデンの中央の一列に「フジバカマ」を植えている。道の駅で売っていた苗だ。いかにも素人が育てたようなポット苗だった。もちろん安価だったので買い占めてしまった。と言っても、10鉢はなかったと記憶する。ただし、それを株分けしたので20本くらいにはなったと思う。かつてはすべて栽培に失敗しているが今回は順調だ。その失敗の理由は未だわからない。つまりは、順調の理由もわからないというこころもとないありさまだ。

         

 蕾が今にもはじけそうだ。まもなく開花寸前だ。そうすれば、アサギマダラがやってくるはずだが、見つけてくれるだろうか。見つければ、台湾へ渡るオアシスの一端になってくれればというわけだ。蝶としてもアサギマダラのステンドグラス風の斑紋が魅力的だけど。

        

 一輪だけ開花寸前の花があった。フジバカマは、川岸の護岸工事によって自生種が激減し、環境省のレッドリストでは準絶滅危惧(NT)種に指定されている。そんな意味合いもあって栽培することにもしたわけだ。ちょうど花が少ない秋の深まりの中、いよいよフジバカマのデビューとなる。

       

 同時に、裏山に自生していた「ヒヨドリバナ」も呼応してくれてすぐ近くで咲いている。開花は夏から始まっていた。植えたわけではないのに近くにやってきてくれたので、心からのボンジュールだ。こちらにも、同じ仲間のキク科フジバカマ属なのでアサギマダラもやってくるそうだ。元の茶園は通貨を稼いだが、バタフライガーデンは労働と出費を消費する。しかし、それ以上にガーデンは生きる目当て・希望・手応えを具体化してくれる。と言ってもほとんど、手による草取りが主要な日課だけど。

 

 

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忘れっぽいのはこれのせい!?

2021-09-28 21:40:43 | 野菜・果樹

   今年の栗はついにピークを過ぎた。イノシシさえも食べに来ない状況だった。同時にいつも収穫するのは裏の畑の隅にある「ミョウガ」だ。栗に追われついおろそかになる。そのため、いつも収穫が遅れパンパンにつまった蕾を逃がしてしまう。したがって、花が咲く前の収穫はいつもできないでいる。それでもなんとか、硬めの蕾を探しながら藪のなかに突入する。

   

 夏のミョウガ畑もあるが、収穫量といい、味の深みといい、秋のミョウガにはかなわない。放任状態ながらバケツ一杯の収穫は軽く越える。最近はさすがにジャングル状態なので収穫量は落ちてきている。栄養的には、カリウム・葉酸・マグネシウム・マンガンとほかの野菜ではとれないような希少野菜でもある。

              

 なにしろ、「魏志倭人伝」に登場するくらいのむかしからの食材なのだ。と言っても、そこには倭人はあまり食用としていないと書かれたそうだ。しかし、その後、奈良・平安時代以降、食用として重宝とされる。中国では食用としなくなった。したがって、台湾・韓国の一部を除き、世界で食用として栽培しているのは日本だけだ。

 ただし、食べ過ぎるともの忘れがひどくなるという俗説がある。ここ数年のオイラの深刻なもの忘れはミョウガのせいだったかー!?。   

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私の愛は増すばかり!?

2021-09-27 21:20:01 | バタフライガーデン

 畑の隅にあった「ナンテン」(メギ科)の実をポットに植えてみたら、30本ほど育ってくれた。意外に丈夫ではあったが成長はゆっくりだ。いよいよそれを地植えすることにした。まだ高さは30cm足らずだが日当たりがいい所に植えることにする。

        

 挿し穂で育てればもっと早く成長したかもしれないが、実生で育てることに手ごたえがある。とりあえず、二十数本を植え付ける。病気も少なく放任しててもそこそこ育ってくれるところがありがたい。花は小さな白色の目立たない感じだが秋の深まりに赤い実が見事で正月飾りにもしばしばお世話になった。

 花言葉は、「私の愛は増すばかり」という。つまり、白い花から赤い実へとゆっくり移ろう過程を表現したらしい。ただし、全草が有毒なので注意が必要だ。愛にも毒が秘められているということか。これからナンテンの紅葉に期待したい。    

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それはサルビアだった

2021-09-26 22:12:20 | バタフライガーデン

 道の駅で買ってきた名前のわからない苗に花が咲いた。ハーブのようでもあったが匂いがない。しばらく放任していたので雑草を抜くのに時間がかかる。しかも、背丈が1.5m以上もあってなかには蛇行しているのもあった。環境や土壌の状況が良好とはいえないなか、花を咲かすとはなかなか生命力があるのがわかる。

                   

 いろいろ調べたら、「サルビア・アズレア」(シソ科)という名前だった。アズレアとは空色という意味でまさにスカイブルーの色合いだった。別名も「スカイブルーセージ」だった。原産は北米・中央アメリカ。標高が高い所で生育するそうで、乾燥や寒さには強いようだ。

     

 ほんとうは、夏に剪定・摘芯しておけば高さも手ごろで花数も多くなるという。これをやらなかったのでずいぶんと蛇行の茎ができていたのだ。きょうは小雨のなか、周りに支柱を立てて倒伏を直し修正・牽引した。花が終わったら挿し穂で苗を増やしていきたいものだ。名前もわからず何が咲くかわからないのに苗を購入するのもなかなか面白い。

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西洋中心主義をただす

2021-09-25 22:27:50 | 読書

 市井に生きるダビンチさんから渡されたイラスト版『東洋思想』(R・オズボーン、現代書館、1997.1)を読む。イラストも文章もイギリス人らしいが、外国人が東洋をどう見ているかが興味があった。インド哲学と中国哲学を両者で折半するような本の構成となっていた。それほどに二つの流れは大きいと言える。

    

 「東洋思想の中心にあるのは、煩悩・自己・覚者・永遠の生命という4つのテーマ」だという。自己の内面を見つめ、思想と宗教も混然としているところが西洋との違いだ。いっぽう、西洋はその東洋を誤解し支配の対象としてきたと著者は分析し、思想と宗教とを分けて考える特徴があるという。

   

 入門書らしく初心者にわかりやすく東西の考え方の違いを描いていく。面白いことに、東西の思想・哲学の発生は同じ紀元前5・6世紀ごろらしい。インドの流れは複雑でそのまま現代のインドに引き継がれているほどに大河のままだ。西洋では一神教に代表されるような絶対的価値が重視されるが、インドでは自己の解脱を多様に混然として求めてきた、ということになりそうだ。

   

 中国は、儒教・仏教・道教が三大哲学と言われるが、とりわけ、道教や儒教は自然の力と「道」の力との調和から「徳」が生ずるというように、それが国家や家族の指針にもなっていったが、同時に世俗的な習俗や因習も産んでしまう。 

   

 対立する概念を統一した「陰陽道」は、ヘーゲルの弁証法と酷似しているし、それらは日本にも伝わり独自の変化を遂げながら現代の暮しを支えている。著者は、結びで「東洋の叡智こそ西欧文化の知的傲慢さと近視眼的な破壊性を癒す薬草なのかもしれません」と謙虚な見解を残しているのが素晴らしい。

       

 哲学書をイラストや漫画で伝えるのは至難の業だ。しかし、短時間ながらその片鱗に接することでこれからの針路を構築していく作業にはプラスになると思う。それにしても、東洋思想のなかに日本がその一角をしっかり確保できないのはなぜかも考えさせられる。それは現在の日本の危機と歴史を見つめる作業からしか生まれない。日本も自分も思想的にはやっぱり混沌の中にいる現状にある。そんな近況をダビンチさんは察したのかもしれない。           

 

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敬老の日を栗尽くしで

2021-09-24 21:06:04 | 食彩・山菜・きのこ

 先日、敬老の日にちなんで和宮様のご令嬢から贈りものが届いた。箱には「いつまでもお元気で」とのラベルがあった。和宮様へ贈られた食べ物は念のため毒味を仰せつかっているので、さっそく箱を開けてみる。

     

 すると、蕎麦のようなものが箱にぎっしり入っていた。しかし、匂いが甘い香りがしていたので、これはお菓子だと確認する。どうやらそれは、和宮様の好きな箱ごとモンブランではないかと推測した。

             

 さっそくその一部を口のなかに少しづつ入れ込んでいくとほのかな栗の味が伝わってきた。年寄りに控えめな味の配慮だった。なにかと和宮様の健康と暮らしを配慮するご令嬢様の思慮がここにある。和宮様も大いに賞味したのは言うまでもない。そのためあっという間に、箱にあった栗ケーキの残りは三分の一になってしまった。

            

 たまたま、栗の最盛期も迎えていたので、裏山で獲れた訳ありの栗を蒸かして食べてみる。こちらも訳ありのわりにはシンプルな甘みがあって、夕飯の主食となってしまった。おかげで今週は栗づくし週間となった。ただし、栗の樹は老木となったので例年よりは収穫量は激減している。さいわい、イノシシがそこを考慮してか来ていないのが愉快でもありあっぱれでもある。

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「角翅髭長牙蛾」だって!!

2021-09-23 23:06:57 | 生き物

  夜、パソコンでブログを四苦八苦しながらやっていると、昆虫のなかにもパソコンに興味を持つ輩がいるらしい。いつもはバッタが多かったが今回は10mmくらいの超小さい蛾だった。キーを叩いていても逃げない。

      

 注目したのは髭が長いこと、それも見事な白色で堂々と横に伸ばしていたことだった。ネットの図鑑で調べたら、やっと「角翅髭長牙蛾」という名前を発見。「カクバネ・ヒゲナガ・キバガ」(ヒゲナガキバガ科)と読む。つまり、翅の先端が90度近くの角度があり、特徴の髭が長いことだった。この仲間にはいろいろな斑紋がありそれぞれに名前があるので同定作業には時間がかかった。

              

 「キバガ」は、頭の先端に二本の牙・口器があるのでこの科に分類される。しかし、体があまりに小さいので牙の所在が分かりにくい。仲間のなかには、ジャガイモ・イネ・トウモロコシを食べてしまう害虫も多いようだ。パソコンにやってきたからわかったけれど、野外で出会ってもおそらく注目しなかった昆虫に違いない。昆虫とも一期一会だね。

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なんと「畑に殿が」

2021-09-22 22:30:33 | 生き物

 和宮様が笑顔で「畑に殿が有らせられたぞよ」と言うので、いつものようにあわてて殿様を出迎えに行く。しかしその殿の姿が見えない。もう少し奥の畑へ行っていると、なんと「トノサマガエル」がのんびり歩いていたではないか。和宮様の笑顔の理由がわかった。

 殿さまにしては小さい。かわいいと言ってもいいくらいだ。10cmも無い大きさだった。中央の縦縞の稜線がかっこいい。

          

 敵が来ても悠然として体を大きく見せて闘う姿が殿さまのような威厳に見えたので、殿様の名前がついたと言われている。オスの中央の縦縞は緑、メスの縦縞は白っぽいから、出会ったカエルはメスのようだ。つまり、お姫様だったというわけだ。

 最近は農薬の使用でトノサマガエルが少なくなってきたので、静岡県では2019年に準絶滅危惧種に指定している。その意味では無農薬を貫徹しているわが畑は殿の防衛ラインを守っていることになる。畑の脇にシイタケのほだ木を入れるプールがあるのでそこが殿の生育場所になったようだ。

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進行している「アメリカニズムの終焉」

2021-09-21 18:05:16 | 読書

 自民党の総裁選挙で4候補が争っている。誰がなるにしても中枢にいる爺ちゃんたちの旧態依然とした壁は大きい。彼らはこれからの日本の羅針盤を描くのは不得意だが目先の利害には敏感に反応する。そんなときだからこそ、気鋭の学者の佐伯啓思(ケイシ)の本を読みたくなった。『<アメリカニズム>の終焉』(TBSブリタニカ、1993.4)は、期待通りの傑作だった。

                

 本書は約30年前に執筆されたものだが、著者が描いたその後の世界はその通り進行しているのがすごい。歴史的な1991年は、ソ連の崩壊と湾岸戦争があげられるが、そのポスト冷戦は憲兵たるアメリカの後退や民族・地域間抗争の深化がいまだ進行し現代にいたる。アメリカのアフガン撤退がベトナム戦争撤退と軌を一にする。

 いまの世界の混迷は、著者に言わせれば、「近代の歴史を導いてきた観念がゆきづまったということにほかならない」と指摘する。

     

 したがって、近代を牽引してきた観念の検証がいまこそ必要だということになる。社会主義の崩壊や湾岸戦争の勝利にもかかわらず、欧米のリベラル・デモクラシー理念の衰退も問いかける。そして、著者は「真の問題は、世界を秩序だてる理念や価値にある」として、「日本がこうした価値の担い手にもならず、世界に優秀な商品ばかり提供してもそれが何になるというのだろうか」と問う。

     

 モノを作ることが<消費者>のためだ、とする「アメリカニズム」の優等生は日本だったが、その限界が見えてきた現在、著者は近代を導いた「シビック・リベラリズム」に注目したがその踏み込みには紙数が足りない気がした。それはむしろ、渋沢栄一とは言わないが、二宮尊徳が唱えた道徳と経済との融合にヒントがあるように思えてならない。彼の影響によって社会貢献した明治から昭和初期の事業家は少なくない。それこそ、日本的シビック・リベラリズムの先駆けではないだろうか。

                  

 著者の結語は、「新しいことを起こす力は本当は徹底した保守主義からでてくるだけなのだ」と、「静かな知的な思考の変革の作業」ということだった。そこはかつて読んできた評論家・西部邁氏と同じ結論であったのも発見だった。しかしそれを説明するにはもう一冊書かなければならない。

 切れ味のシャープな分析にいくども舌を巻いたが、後半はオイラの海馬はとてもついていけなかった。しかし、30年前の湾岸戦争からすぐにアメリカニズムの凋落を予感してしまう眼力には頭が下がる。こういう人をもっとマスコミは注視してもらいたいものだ。

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