山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

柴か薪か、いや違った??

2023-04-13 23:20:56 | 石仏・石造物

  廃校となった浜松の小学校の片隅で金次郎は本を読み、ときに物思いを続けた。金次郎が読んでいた本は何だったのか。報徳思想の原点である中国の古典『大学』だったようだ。

 さて、金次郎が背負っていたのは柴だろうか、薪だろうか、それが問題だ?? 結論から言えば、石像は薪、鋳造は柴。と言ったら幻滅してしまうが、それが現実というもの。原画は幸田露伴の著書『二宮尊徳翁』の挿絵が最初と言われている。

 それを忠実に銅像として再現している「KK平和合金」は、昭和5年から90年にわたって鋳造を続けている。その挿絵が「柴」だったということもあり、また、細かいところまで表現できる鋳造の技術力もあり、「柴」にしているというわけだ。「柴」は家族の身近な自然エネルギーでもあった。

 したがって、この廃校の像は石像だったので「薪」だった。もともとは本の位置がもっと前だったのに違いない。その後の修繕で、金次郎の目線が本に向いていない。それは意味があったのかもしれない。その物憂げな表情はまた、忠君愛国に利用された金次郎の苦悶なのかもしれない。

        

 さてさて、金次郎像の第1号は、1924年(大正13)、愛知・豊橋の漁村にある前芝小学校に設置された。地元の廻船問屋を経営し衆議院議員だった加藤六蔵が寄贈したものだ。東三河で報徳社を設立した渡辺平内治(ヘイナイジ)の影響によるものらしい。制作は彼の書生をしていて彫刻の勉強をしていた藤原利平の作品。これをよく見ると、背中に背負っているものは「ビク(魚篭)」だった。これはびっくり。柴でも薪でもなかった。地域由来ならではの作品だ。足元には切り株が添えてある。(画像は「コトバの作法」webより)

   

 さらに、「金次郎マップ」を作った横浜では現在37体が現存しているという。それら銅像の特徴は主に二つに分けられるという。石像系は、「袴をはいて裾がでていない・左足が前・足元に切り株あり」で、鋳造系は、「着物で裾が出ている・右足が前・切り株なし」だとわかりやすくまとめている。(画像は「はまれば、com」より) 

 銅像設置数ランキング第1位の金次郎像にもいろいろバリエーションがあるのが分かった。銅像を最初に作ったのは、彫刻家・岡崎雪聲(セッセイ)が1910年(明治43)に制作し、明治天皇に買いあげられ、現在明治神宮宝物館に保管されている。そのレプリカが大日本報徳社のあるJR掛川駅前に設置されている。

 二宮尊徳の功績は経済と道徳との両立を多くの地域で実現したことでもある。金権主義を本位とする現在の世界では、尊徳の価値を再評価しなければならないと思う。そんな中、歩きスマホを助長するとして金次郎像を撤去するという事態さえ起きている。尊徳が地域で改革・実践した本来の真価を見直す時が来ているのではないか。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

往年の「鍛冶衆」気質が!!

2022-10-26 21:30:44 | 石仏・石造物

 前回に続く路上観察。浜松駅に近い大通りをちょいとそれた所に、「金山神社」が静かにたたずんでいた。信玄を滅亡させた(1582,天正10年)家康は、浜松の城づくりに甲斐から鍛冶衆を呼び寄せたという。城づくりに必要な釘・くさび・蝶番・飾り鋲などを作る職人だ。その集団が周辺に住み始め、神社を建立し鉱山の神・金物の神を崇める。関係商工業者や地域からの支援もあり、明治36年9月に建てられた石の鳥居に扁額が掲げられているが、それは金属製である。なるほど。

        

 敷地を囲む石の「玉垣」の入り口には、左右に小さな狛犬が鎮座していた。普通は拝殿前で迫力を競う狛犬だが、子犬とはいえ顔はいかつい表情で神域を防禦している。遊び心も心意気も伝わる。

     

 「吽形」の顔の口からは犬歯が鋭く出ているが、「阿形」のほうは不鮮明な顔立ちだ。しかし、こうした狛犬の配置といい、形態(背中がまっすぐ)といいなかなか珍しい狛犬と思うが、意外に見過ごされているようだ。

    

 拝殿に向かって突き進むと、左側に「洗心」と刻まれたどでかい手水鉢があった。よく見るとフツーの神社のそれの2~3倍はあるような大きさだ。この辺にも関係者のパワーが感じられる。

 また、玉垣の先には小さな灯篭が左右に構えていた。ふつう灯篭は丸い「柱」「竿」で構成されるが、それは「火袋」も一緒に四角い。また、火袋の下には、「受け」という皿のようなものがあるはずだが、あえて省略されて、真っ直ぐな四角にこだわっている。明治38年4月、乗松さんが寄進している銘がある。

         

 いっぽう、隅っこには、春日灯篭に似た「寛永寺」型ともいうべき立派な灯篭もあった。てっぺんの「宝珠」から「受け」までがずっしりとして、長いはずの「柱」・「竿」が短いのでずんぐりしている。装飾の手が込んでいて傘の「蕨手」もなかなか素晴らしい。「受け」・「中台」に武田家の家紋が刻まれているのが気になる。

 拝殿の左右には、背の高いオーソドックスな灯篭があった。街道筋にもときどきみられる「常夜灯」だ。昭和20年の空襲で全焼した神社だったが、それぞれの灯篭や石造物は無事に生き残ったのだろうか。

    

 拝殿前には、狛犬の「阿吽像」が左右に鎮座していた。「吽像」の顔が欠けているので表情が読み取れない。こちらが戦火をくぐった古い像なのだろうか。両者とも怒りの表情に迫力がある。石工の心意気のようなものがよく表現されている。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゴジラか馬か憑依(ヒョウイ)したのは

2021-02-05 22:05:02 | 石仏・石造物

 近くの国道沿いに「馬頭観音」がある。気が向いた時のウォーキングでそれをときどき見るが、石仏の半分の下部分が観音様で、上半分がばかに空白なのだ。風雪で消えてしまったのだろう。この石像は近所に住む「馬力」という今でいう運送業をやっていた人が奉納したらしい。旧道の峠入口にあったものを移動したという。馬頭観音と言えば、ふつう不動明王のような「憤怒相」が多いが、これはお地蔵様みたいな「柔和相」をしている。

 さてその上部分が「ナニコレ珍百景」ではないか。馬頭観音の頭上にはふつう馬の顔を刻印されるが、この石像の上には馬なのかゴジラなのかウルトラマンなのか、怪しい影が乗り移っているのを発見。観音様は33の姿に変身するというがひょっとするとその脱皮の途中なのかもしれない。

 

  いずれにせよ、「馬力」の親方は、馬の供養と道中の安全を祈願して石仏を安置したのだ。馬頭観音は近世以降に多く造られたようだが、この石像は江戸末期か明治ごろだろうか。急な山道が次々あるなかで馬の通行はかなり難儀していたことが類推できる。山里の路傍の石仏は地元から素朴な献花がされていた。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誰の石碑かなー、岩水寺(4)

2020-11-14 22:47:08 | 石仏・石造物

 遠州・浜北区にある岩水寺の中央の「赤池」周辺には、個人の石碑が並んでいる。きっと、お寺にかかわった人や郷土の人に違いない。しかし、なじみのないオイラにはそれがどんな人だったかがわからない。それを案内板かなにかに解説があるとそれらの石碑が宝となる。またそれを寄進した人にもお礼にもなると思うのだが。

     

 そのなかに、「小杉吉乎?翁之碑」というのがあった。小杉さんがどういう人であったかはわからない。注目したのはその揮毫をしたのが、岡田良平という元文部大臣だった。近くにあるデカイ「山下青厓」(郷土の日本画家)の石碑の揮毫も岡田良平だった。(2020.8.31blog)

 岡田良平は掛川市出身の「大日本報徳社」の社長でもあった。オイラは報徳社の活動は今でいう日本版のNPOではないかと思っている。ルーツはもちろん二宮尊徳だが、彼の社会貢献の思想をもっと学ぶべきだとかねがね思っている。彼の哲学をふまえた事業家が戦前にはいたが、現代にはなかなか見当たらない。

           

 小杉翁の近くには倒れそうな石碑があった。刻んだ文字を見ると「豊竹和田太夫碑」と読み取れる。どうやら浜松出身の浄瑠璃の太夫のようだ。昭和4年75歳で亡くなって西来院に墓があるらしい。ということは明治から大正にかけて義太夫節が健在だったということか。日本のオペラでもある義太夫節の語り手と音楽の三味線と人形遣いの「三業」による総合芸術は、江戸中期以降日本の各地に広まっていた。今でいう流行歌くらいの存在だった。したがって、「太夫」はそれらのコーディネーター・監督の役割だったようだ。

 さりげない石碑の痕跡からそんな片鱗が見え隠れする。なお、小杉・豊竹の石碑の間には、「山崎宋?三郎君之墓」というシンプルな墓碑があったようだが、全くその存在の意味がわからない。謎だらけの岩水寺の石碑群に混濁するオイラだが、寺に漂う世俗化がもったいない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

住職の石像も多様(岩水寺3)

2020-09-01 23:25:16 | 石仏・石造物

 岩水寺の続き。山下画伯の石碑の向かいに胸像が鎮座していた。陽射しの関係か尊顔はよくわからなかったが、立派でたくましい住職らしいことはわかったが、やはり説明板が欲しいところだ。

               

 正面には、自分の広大な土地を境内に払い下げしたということがわかる。名前は、高橋孔淳僧正。裏には、明治44年(1911)に寄進したが、どのくらいの土地かが不鮮明で読み取れなかった。20町歩以上らしいから20万平米以上はあったようだ。できたら、本僧正が岩水寺の住職だったのかどうか、出身はどこか、どんなことで活躍したか、を知りたいものだ。

  

 その隣には、歴代住職のお墓があった。いわゆる一つの石からなる卵型の「無縫塔」が特徴だ。その間に、「宝篋印塔(ホウキョウイントウ)」や「五輪塔もどき」もあるようだ。これらの数から、この岩水寺がいかに古いかがわかる。

               

 宝篋印塔は、地・水・火・風・空という宇宙の構成要素を表す「大日密教」の宇宙観を示すものだ。これは、鎌倉期以降インドや中国にもない日本独自で発達したものらしい。また、無縫塔は宗派を超えて敷衍されていったようで、各宗派のお寺でときどき見ることがある。まだ主要な施設や石像へ肉薄できていないほど情報の豊富な古刹野岩水寺だが、あまり長居もできない。

 つまりはこのところ農作業をサボっているのではないかと言われてしまうが、その通りだ。暑さからの逃避もあるが、このところ夕方に雨が降ってくれるので1時間以上もかかる水遣りの手間が省けている。それをチャンスにうたた寝を決め込んでいるこの頃なのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

デカすぎる「記徳碑」(岩水寺2)

2020-08-31 20:59:40 | 石仏・石造物

  岩水寺でバカでかい石碑を発見。高さが5mくらいはあるだろうか。郷土(浜松市浜北区貴布根出身)の日本画家・山下青厓(セイガイ)の名が刻まれている。「記念碑」とばかり思っていたが「記徳碑」だった。というのも、揮毫(キゴウ)したのが掛川市出身の大日本報徳社社長の岡田良平(文部大臣)であり、松島十湖(報徳社)の讃がある画を青厓が描いているところから、報徳運動にかかわっていたに違いない。

          

 青厓(1858~1942)は、渡辺崋山の次男の渡辺小華に師事し、山水画や花鳥画などを描き、親戚筋の掛塚の廻船問屋津倉家に襖絵を残している。画を見ても画壇を席巻するほどのものは感じられないが、皇居の明治宮殿の杉戸絵を小華と共に描いたことで郷土の誉れと絶賛されたに違いない。

            

 この石碑は、本人が73歳のときの昭和6年(1931)に建立したもの。当時は広い岩水寺ホテルや遊園地などがあるくらいの賑わいある場所に誇らしく建っていたようだ。いまはひっそり注目されず通り過ぎてしまうところとなっている。境内にはこうした石碑が乱立しているが、その説明板があると寺のPRにもつながるが、人手が足りないのか、予算がないのか、疲れているのかわからないが、もったいないことだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鳥居の前に石灯篭(岩水寺)

2020-08-30 22:58:23 | 石仏・石造物

 慣れない道に迷っていたら、遠州では有名な「岩水寺」(真言宗)に出てしまった。広大な境内は興味をそそる石碑や建造物がぎっしり並んでいる。しかし大きい割にはどうも全体が俗っぽい退廃が気になる。

 とても全部は見る余裕がないが、まずは石造りの「地安坊(ジアンボウ)大権現」の鳥居を見上げる。地安坊とは、平安時代この山にいた天狗の名前らしい。鳥居の奥に寄進された太鼓橋が見える。その先に階段があり神様が鎮座するお堂があるのだが、台風による崩落で今は通行止めとなっている。

        

 天長(824~ 834)年間に遠州を襲った飢饉や火災に対して当時の住職だった「覚仁上人」は、地域再興のために獅子奮迅の活躍をしたことで地元から感謝され、地域の神様となった。それがいまだに信仰されているとはすばらしい。地域のオリジナルの神様を祀ったのはそれほどの信頼を集めたというわけだ。

鳥居に向かって左右に大正11年に寄進された石灯籠があった。右の方は新しい感じだが複製したように見える。火袋は、鹿・雲・大和三山・格子・火口(ヒグチ)二か所、の六角状のいわゆる標準的な春日灯篭型式。鹿の足がやや立体的なのが珍しい。

             

 

 左側の火袋は同じではなかった。鹿が二面ありそれに山?と火口が二つあり、太陽を表す「円窓」があった。どうも、火袋から上が古くてその下が新しいような気がする。そのうえ、石の材質が全く違う。火袋の下の「中台」では、左は立体的な装飾はないが、右は波のような立体的な装飾がある。ということは、左の灯篭は二つの灯篭を合体したように推理できる。それ自体は悪いとは思えないが、このちぐはぐは寺社全体に漂っている気がしてならない。

 石灯籠は仏教に由来するが、鳥居の前にあるのは不自然だ。しかし、神仏混淆の伝統から考えると首肯できる。ただし、明治の神仏分離令に対してはかなり寺をあげて抵抗(工夫)したようだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こわおもてのタヌキ発見だが

2020-04-11 21:53:45 | 石仏・石造物

 郵便物をポストに投函するのをチャンスに路上観察を楽しむことにしている。もちろん、歩いてこその発見がある。田舎の人の多くは歩くより自動車利用のほうが多い。歩くことで春をつかみ、風のそよぎをキャッチし、路上にあふれる自然やモノの奥行きを探検するのだ。

 そんなとき、こわそうな顔のタヌキの石像を発見。そこにあるのは知ってはいたが、表情がこんなに強面であるとは見過ごしていた。

            

 タヌキの置物は信楽焼が有名だ。昭和26年に信楽に行幸した天皇を小旗をもつ信楽焼のタヌキが歓迎したということで、天皇も歌を詠むほどに感激し、そこからタヌキの信楽焼が全国に広まっていったという。それ以上に、「八相縁起」があるとして商売繁盛の願掛けとして利用もされていった。タヌキは「他を抜く」=「競争に勝つ」=「儲かる」という意味あいを持つという。

 

 

 いかにも日本人的な現世利益が気になるが、この狸の置物の「八相縁起」は、①笠ー災害から守る ②目ー気配り・注意力向上向上 ③顔ー顔の広さと笑顔で人間関係つなぐ ④腹ー沈着・くいっぱぐれない ⑤尻尾ー終わりよし ⑥金〇ー金運 ⑦徳利ー人徳が身に着く ⑧大福帳ー信用確保など、があげられる。

 ただし、この狸の表情には笑顔がないのはなぜだろうか。むしろ、怒りを表現している。自分に都合よい利益しか考えない人間への怒りだろうか。口当たりのいいことには興味を持つがそれ以上のことには「三猿」になってしまうという日本人批判か、とか、勝手に推測してしまう。そんな想像力を膨らませるモノがそばにあったことで、散歩してみてよかったと思うのだった。       

             

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地蔵も青面金剛も願いは同じ?

2020-02-29 22:01:33 | 石仏・石造物

 ウォーキングの楽しみの一つが古い石塔との出会いだ。左に「享保十三戌申十一月日 岩川村」、右に「庚申講中」と刻字された庚申塔に出会う。日にちは庚申の日が使われるが省略されている。それはこのころから信仰変化つまり形骸化の進行ではないかと思われる。

 1728年江戸中期に作られた駒型の青面金剛像(39cm)は、左手に輪宝・弓、右手に三叉槍・矢という定型の持物に、三猿。珍しいのは頭巾にとぐろを巻いた蛇らしきものが絡んでいることだ。

           

 表情は眼が吊り上がった憤怒相。駒形のてっぺんから「月」と「太陽」をつないだラインがあるのも珍しい。そのラインの意味はわからない。300年近くの時空を越えてこうして現代に存在する意味もあり、それを大切に保存してきたムラの慎ましさに驚嘆する。

 

 その横にも、地蔵菩薩の庚申様が並んでいた。左に「元文二巳天十一月六日 岩川村講中」、右に大きく「庚申供養」、と刻まれた、1737年江戸中期の庚申塔だ。年号の「巳天」は本来「丁巳」のはずだが間違いなのかどうかはわからない。左手に「宝珠」右手に「錫杖」という定型を守っている舟型像だ。

 近世庚申塔の造立は11月が多いが今回の二つの像もそれを踏襲している。造立日は60日目のあたり日(庚申)が刻印されるが、「吉日」とされることも多くなっていくらしい。

                                             

 庚申塔の造立を江戸・関東周辺調査によれば、1690年代と1710年代がピークであるという。その意味では、ピークが終わってしまった1720~30年代の庚申塔だが、ムラ(関東)の「庚申講」がしっかり生きている証左ではないかと思う。

 オイラの集落ではいまだに「庚申講」が60日毎に行われている。庚申の絵図に向かって「真言」を唱えて、お供えした生米一掴みをみんなで味わう。地元では農業の神様と解されている。昔は徹夜で晩餐を楽しんだらしいが、今では数人で酒とつまみの飲食をしながらよもやま話や情報共有で終わる。しかし今は顔ぶれは決まってしまい女性はほとんど参加しない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お寺の入口に庚申塔!

2020-02-28 08:21:49 | 石仏・石造物

 ぷらぷらウォーキングしていたら、とあるお寺の入口に庚申塔が鎮座していた。正面にはお地蔵さんが彫られていた。足元には三猿がいた。つまり、道教の庚申信仰と神道・儒教の三猿の教えが仏教のお寺で混淆しているという、典型的で日本的な神仏混淆の象徴を見つけたというわけだ。石塔の一番下には、ムラの名前と奉納した有志8人の名前が彫られているが解読できない。

       

 地蔵菩薩の表情は慈悲深いというか、新人地蔵のような親しみやすい表情がいい。右側には「南無庚申奉供養者也」と明記してあった。左側の文字は解読が難しかったが「寛政十二庚申○○○十一月四日」と読み込んでみた。おそらく江戸後期1800年ころの石仏と考えられる。石塔全体の形は、板状駒型で正面頭部には出っ張りがあり、梵字が見られる。駒形の石塔のなかに舟形のラインを引き、その中に菩薩を配置しているのも珍しい。

           

 神道では祭神が「猿田彦」であることもあり、石仏に三猿が彫られることが少なくない。この三猿の「不見、不聞、不言」の教えは論語からの引用らしい。8世紀に天台宗系の留学僧が日本に持ち帰ったようだ。相手や自分にとって悪いことは見ない・聴かない・言わないという世俗的な道徳律。これは権力にとっても都合いいが、今のおとなしい日本人の所作にも影響しているように思える。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする