山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

風土に脈打つ民権の魂は!?

2022-12-30 19:21:46 | 読書

  数十年前に買ったまま放擲されていた、石川猶興(ナオオキ)『利根川民権紀行』(新人物往来社、1972.5)をあわてて読む。明治7年以降、板垣退助らを中心として憲法制定・国会開設・言論集会の自由を求めて薩長藩閥政府に対峙したのが自由民権運動だ。著者の父は明治末期その運動に触発され、加波山事件などの資料を集め出版する直前倒れる。

         

 民権運動につながるリーダーや群像には「利根川」があった。農協を世界で初めて創設した大原幽学、政治をただそうと筑波山で挙兵した水戸尊攘派「天狗党」、プーチンのような弾圧指導者・三島通庸を暗殺しようと蜂起した「加波山事件」、足尾鉱毒事件で体を張った「田中正造」など、命がけで闘った河畔の人間がいた。

          

 著者の父・多感な石川諒一は、明星調の歌人でもあった。開明的なジャーナリスト・文芸評論家でもある「田岡嶺雲」や右翼の大御所「頭山満」などにも傾倒する。なかでも、同郷の民権活動家・関戸覚蔵の影響も大きい。加波山事件などの草稿をまとめあげる直前で亡くなる。それらの記録文献は、民権活動家たちの「怨念」が伝わってきたという。それを「未死の霊」して本書に挑んでいる。

             

 民権運動の余波は、北村透谷・木下尚江・正岡子規・幸徳秋水・堺利彦・二葉亭四迷・島崎藤村らにも伝わっている。また、色川大吉氏が発掘した三多摩の「五日市憲法」のように、地方豪農の民権意識の高さも改めて評価しなければならない。

         

 しかしながら、民権運動は内部対立とそれを利用する権力の画策、苛烈な弾圧によって終焉へと向かう。著者は語る。「私たちが知ってきた歴史は何だったのかと思う。かつてそれは天皇であり、武将であり、封建君主であった。幕末以後は、多くが西南雄藩の歴史だった。いつも光は西からで、東はおおむね圧殺され、無視された。それでは反権力、反体制側はどうかというと、これまた多くはトップクラスのリーダーが浮かびあがってくるだけだった。彼らを支えた母胎、基盤は何だったのか。その無名民衆のひとりひとりの顔をどうクローズアップしたらよいのか」と、苦悩する。

         

  半世紀前に上梓した本書にもかかわらず、著者の苦悩はいまだに同じ轍の中にいる現代そのものでもある。評論家の松永伍一氏は的確な寸評を書いた。「石川氏のひたむきな巡礼にも似た姿勢を見るにつけ、この本が、学者の研究書とは異なる<肉声による記録>のために、きっと多くの心ある読者に開眼を迫ることになると信ずる」と。それは、「妬ましさを含むほどの関心事」であり、「胸さわぎに似た興奮をおさえることができない」試みだったと指摘する。 

 

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秋葉参道入り口を徘徊する

2022-12-28 18:48:31 | 歴史・文化財

 先日の秋葉神社参道入り口の旧栗田家邸宅の立派さにほだされて、その周りを散策する。急峻な坂道の登山道を登らないで、その手前をチョットだけ覗いてみた。「栃川」にかかる赤い見事な「九里橋」は山頂への起点である。掛川と浜松から九里もあることからつけられた名前だ。

 かつては木橋だったが、昭和16年(1941)の洪水で流され、現在の赤い橋は昭和38年(1963)に竣工された。山頂までは「50町」あり、この橋はその起点で「町石」がそれぞれに置かれている。秋葉信仰の広がりの深さがそれでわかるというものだが、残念ながら現在では町石の欠落が少なくない。

      

 赤い橋の手前左側には、昭和12年(1937年)5月に津市岩田秋葉講が建立した石柱が健在だった。正面には「至神社從是三十八丁」と刻印されている。当時、日本軍は盧溝橋事件を起こして中国への侵略を本格化していき、その12月には南京を占領し大虐殺事件を起こした時代でもあった。

     

 橋を渡ってすぐ右側に、もう一つの石柱があった。正面には「昭和御大典記念開鑿」とある。昭和3年(1928年)11月に昭和天皇が即位したのを記念したものだ。この石柱は、向かいの林業家・マルハクの栗田氏が昭和3年に「山林道」を切り開いたというが、どこの道なのかはよくわからない。昭和前期は活発な道路建設と付近の道路崩落事故などが多かった背景もあり、明治以来栗田氏の私財を投げ打って社会貢献を継続しているのがわかる。現代の事業家・首長に欠けている経済と道徳を融合する報徳思想が確認できる。

    

 登山口を少し上がっていくと、常夜灯が多くみられるようになった。常夜灯の文字の上のマークは何なのかしばらくわからないでいた。梵字ではないかとにらんだがなかなか納得できなかった。常夜灯のパーツの名称を調べたら、上から、「傘」、「火袋」、「竿」、「基礎」の4つになるという。すると、このマークは「傘」ではないかと推察することができた。

 そのすぐそばに、「第三町」という「町石」があった。「第一・第二」は近所からは見当たらない。この文字の上に「傘」の字があった。つまり「傘町石」だ。つまり、もともとは傘がある町石だったのがそのパーツを喪失しているのが推量できる。

  

 その近くに、昔は旅館らしいたたずまいの風情のある民家があった。狸の置物も今では珍しい。おそらく往時は、二階の手摺から街道を通る旅行客を見ながら一杯やったり、「どこからやってきたんだい」とか声をかけたりているお客の姿が浮かんでくる。明治初年には旅館が11軒もあったというが、今は見当たらない。せいぜい、民家風のしゃれたカフェが生き残っている。

        

 二階を支える梁の太さといい、本数といい、かなりのお客を収容できていたのが想像できる。表はかなりサッシなどが導入され現代風に改造されているが、家の中はきっと見どころが多いと推察する。ところで、玄関口の上に大きな看板が見えた。

     

 どうも、篆書らしい書体だったが、皆目読めないで数日が過ぎた。左側の「会社」は読めたので、これは「有限会社」だと推測する。古い看板は右側から読むが、どうも左から読むのかなと呻吟する。右端は、「屋」に違いない。つまり、○○屋ではないかと。しかし、○○部分がどうしても解読できない。

 そのうちに、このあたりに「なかや」という旅館があったのがわかった。平成8年(1996年)まで営業していたらしい。すると、これは「仲屋」ではないかと。そのように考えると腑に落ちる。「仲」という漢字に幟のようなものを付けたのではないか。ときどき、字体の形を整える、もしくは画数をかせぐために篆書ではそういう追加をすることがあるようだ。つまるところ、「有限会社 仲屋」ということに落ち着く。どうも、貴重な健康食品「卵油」を製造している会社らしい。衰退がはなはだしい名所にも地元の人間の努力・葛藤・儚さとの生きざまが垣間見えた瞬間だった

     

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根っことの格闘ひと月

2022-12-26 21:34:19 | 農作業・野菜

 畑の隣に挿し木で育てたアジサイとローバイの植え込みがある。忙しくて手付かずのせいで全体がススキの解放区になっていた。入り口から進入することすらできないでいた。そこで、意を決してススキを除去することにした。

  

 今までは草刈り機できれいにしたはずだったが、いつのまにかふりだしに戻ってススキ畑になってしまう。だから、根っこから排除しなければならないというわけだ。そこで鶴嘴を駆使して始めたがなかなか手こずる。その根っこの下に地下茎がありそこも除去しないとまた芽が出てしまうからだ。

  

 しかも、ススキの根だけではなくアケビの根もなかなか厄介だった。完全には採りきるには全面的に穴掘りが必要なので、そこは妥協して鶴嘴と鎌の届く範囲に限った。これらの根っこは焚き火の刑の対象となった。その灰はもちろん畑にまかれた。

   

 以前、ここから掘り出した石が見えてきた。一人では持ち上げられない大きさ・重さだ。転がしたり鉄棒で移動させてきたものだ。腰掛け石にはぴったりだ。ここに腰掛けてアジサイやロウバイの花を鑑賞したいというわけだが、今まで草ぼうぼうではできなかったというわけだ。

  

 なんとか、ススキは完全に除去された。今年の春・初夏には花を愛でることができそうだ。アジサイはなんとか可能だが、ロウバイはまだ花が咲くまでには生育していない。外柵をしないとシカが侵入して葉を食べてしまう。アジサイの葉は毒だと聞いていたがそうとは限らないということも学んだ。

  

 春近くにはもう少し植樹してもよさそうだと欲も出てきた。小さな挿し木のアジサイやロウバイがまだ手元にあるのが心強い。ただし、花をつけるには数年後となる。とにかく、このコーナーがすっきりできたのは精神的にも大きい。しかし、安心しているところに、冬の突風が吹きこみ周りの外柵の一部が折れたり曲がったり倒れてしまった。またあわてて、修繕に走る。完璧でないのが素人感覚の良さだと言い訳をしながらなんとか形にする。

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どこにも属さない人

2022-12-23 21:30:56 | 読書

 このところ、車でのBGMはなんとショパンになっている。何回聞いても、マズルカもポロネーズもエチュードもそれらの違いがよく分からない。それでも、聴いてみて快いのは間違いない。そんなことで、中川右介『ショパン 天才の秘話』(静山社文庫、2010.10)を読む。ショパンの無名時代の葛藤と周りの天才的な巨匠たち(ベルリオーズ・メンデルスゾーン・シューマン・リストら)との「群像劇」が本書である。

         

 副題が、「20歳の孤独な作曲家とロマン派の巨人たち」とあり、祖国に帰れなかったショパンとその周りの巨匠たちのドキュメントだ。ショパンはポーランド生まれで、父はフランス人、母はポーランド人。祖国ポーランドはロシア・プロイセンなどに分割され地図上から祖国はなくなった時代に生きた。フランスを中心に活動したが、ときはフランス革命の最中。しかも、初期は仕事も恋もうまくいかず異邦人のままふさぎ込んだ孤独な青春期だった。

    

 音楽の時代区分から言うと、ショパンは一般的に前期ロマン派に属するという。ロマン派音楽というと音楽と物語を合体したもので、オペラのように歌詞のあるものや標題を持つ交響詩が特徴という。しかし、ショパンのそうした作曲はまれで標題も後付けで付けられたものだ。

 したがって、「ショパンという音楽家の特徴を挙げていけば、彼が、音楽史上例を見ない、孤高の存在であることがわかる」と、著者は断言する。

           

著者は結びで珠玉の言葉を残した。「ショパンの音楽はあまりにも独創的であったがために、模倣する者も後継者もなく、その作品そのものが伝えられた。ロマン主義革命の新しさが失われた後も、もともと革命とは無縁だったがために、ショパンの音楽は、生き残った。」「時代に背を向けて、引き籠っていたショパンこそ最後の勝利者となる」と。

   

 ショパンが作曲した中に、「英雄」(ポロネーズ第6番)、「軍隊」(ポロネーズ第3番)、「革命」(エチュード第12番) など、力強い名曲がある。それは無くなってしまった祖国とショパンは音楽の世界で出会っていたのではないか、そしてその不条理を告発しているショパンの姿がせつない。「英雄」とは、ナポレオンではないかとの意見が多いが、ロシア・プロイセン軍に対して蜂起し弾圧されたポーランドの英雄「タデウシュ・コシチュシュコ」ではないかと秘かに思う。

 このときも、領土拡張主義の帝政ロシアは本領発揮。当時の19世紀の歴史のそのまんま、現在のロシア帝国はウクライナの侵攻を固辞してやまない。歴史に学ばない国はいずれ内部から壊疽が起きていくが、すでにその兆候が進行している。同時に、劣化がはなはだしい日本も要治療のステージに入っている気がしてならない。(画像はペレストロイカのソビエト時代)

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河原の残骸を生かす

2022-12-21 20:59:24 | 出会い・近隣

 先日、近所の方から声がかかった。「河原の整備をしていたら流木が大量にあり、丸太も伐ったけど、使ってみる?」ということだった。二つ返事で近くの河原に直行する。すると、山のような流木と伐採された丸太が山積みされていた。一緒にそれらを車に運びわが家に運搬した。

           

 お昼を過ぎたので缶コーヒーとポテトチップで小休止。台風15号の猛威は大量の流木を流したのがわかった。彼は一人で河原の清掃を自主的にやっている。それは、子ども時代、ここで親友と遊びまわった世界だったからだ、という。それが現在の自分を形成していたのを痛感し、それで、だれも振り返られなくなった荒れた河原の整備を始めたのだ、という。

           

 彼は、流木を集めただけでなく、河原に繁茂していた雑木をチェンソーで伐り始めてもいる。数年がかりから始めていたので、河原がずいぶん明るくなり見通しもよくなった。むかしの景観に近づいたという。地域とともにあった川は今では抽象的な存在となった。豊穣な想い出の世界は今や存在感の薄い遠い世界となった。

  

 そんな川からの「贈り物」を生かそうと数人の親子が集まる。流木は今月末に行われるプレイパークの焚き火に使われる。もちろん、きょうはそれを使ってミニパーティーとなった。遊びの天才の子どもたちはわが家の倉庫周辺の暗く狭いスポットで探検ごっこ・お化け退治・子どもだけのお食事会・氷焼きなどを次々具体化している。そこにはゲーム機もおもちゃもない。田舎そのものを遊びと空想の世界にしている。

 そんないきいきした子どもたちの姿を見ながら、おとなは流木の焚き火を囲みながら焙煎したハブ茶・ハト麦茶そしてコーヒーをはじめアウトドア料理を楽しむ。焼き芋・豚汁・イワシ・ギンナン・餃子・エビ・ウィンナーなどが熾火の焚き火や七輪の上に乗せられていく。コロナ下でも他人の子どもの保育をしあっている親たちのつながりの深さが伝わってくる。

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庶民の真摯な目線に寄り添う木下監督のルーツ

2022-12-19 00:10:27 | 読書

 著者の木下忍さんから上梓したばかりの『木下恵介とその兄弟たち』(幻冬舎、2022.12)の本が贈られてきた。家族から見た恵介と兄弟たちの真摯な生き様を描いた証言となっている。恵介の庶民への優しい目線のルーツは、恵介の父である「周吉」と「たま」の労苦をいとわない真っ直ぐな生きざまの影響・共感にあるという。

  

 その両親の子どもたちは恵介を含め8人もいる。それぞれの歩みを忍さんは自らの内輪での体験と情報・聞き取りから、恵介とその周りの空気を丹念にあぶり出している。兄弟が多いので、作成された「家系図」で、たびたび確認しながら混乱なく読むことができた。それらのことで、恵介の父母・兄弟・養子・近所・スタッフへの思い入れが伝わってくる。

  

 忍さんの凛とした文章には、木下家の中に貫かれているみずみずしい水脈があるように思う。それはそのまま、木下監督の作品と連動しているのを発見する。つまり、恵介のめざすものを忍さんは静かに受け止めて生きているということでもある。それがそのまま映像ではないが書籍という作品に昇華したということだ。

  

 忍さんの母である苦労人「房子」の芯の強さ・前向きさ・明るさは、恵介の母「たま」と重なる。さらに、房子の文学好きも忍さんの歯切れのよいたおやかな筆力は紙背に漂う。本文中に豊富に編集されている写真・手紙・日記などもそれらを盛り立てている。

           

 また、恵介や家族への畏敬だけでなく、それぞれの人間が持つ弱さ・葛藤も赤裸々に描いている多面性がいい。恵介を絶賛だけのオンリーではないのがいい。基本的に著者は「恵介が映画の中で表現したのは、家族の大切さ、人間の生きざま、弱者への思いやり、二度と戦争はしないという思いであり、それらは深い愛に裏付けられたものだった」と的確な評価をしている。

  

 忍さんは、恵介の門下生だった脚本家の山田太一の弔辞を紹介する。「日本の社会はある時期から、木下作品を自然に受け止めることができにくい世界にはいってしま」い、「人間の弱さ、その弱さが持つ美しさ、運命や宿命への畏怖、社会への理不尽に対する怒り、そうしたものにいつまでも日本人が無関心でいられるはずはありません」と続ける。

        

 そして、「木下作品の一作一作がみるみる燦然と輝きはじめ、今まで目を向けなかったことをいぶかしむような時代が、きっとまた来ると思っています」と結ぶ。

 日本映画の巨匠というと、黒澤明と木下恵介が双璧と言われたこともあったが、一般的には、黒澤明・溝口健二・小津安二郎があげられ、恵介が沈下している印象がある。

  

 そういう意味では、山田太一の言葉は珠玉の弔辞だ。オイラも今まで、恵介の映画を見る機会があまりなかったので、これからしっかり見ていきたいと思うようになった。表紙を飾った忍さんらと恵介の写真は、恵介の世界・人柄がにじみ出ている瞬間だ。当時の忍さんのピュアな感性は現在の忍さんのなかにまっすぐ熟成されてきているのを感じる。

           

 戦局の悪化のなかで、恵介らは病気の母をリヤカーに乗せて山間地・春野町へ疎開するが、17時間をかけてリヤカーで山越えする。そんなところに恵介の優しさ・思いやり・烈しさが象徴される。それは、原恵一監督の手で「はじまりのみち」(2013年)として映画化された。 

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渋柿が先輩だった

2022-12-16 20:37:29 | 食彩・山菜・きのこ

 近所から収穫してきた渋柿の干し柿は、300個近くに迫った。10日過ぎあたりから水分がずいぶん抜けてきて干し柿らしくなってきた。試しに食べてみるとなかなか確かだ。このところ、晴天に恵まれていることと、焼酎を毎日のように塗っていることでカビの発生が抑えられている。

  

 干し柿の種は縄文・弥生時代の遺跡からでていることから、すでにそのころから作られているようだ。平安時代には祭礼用のお菓子として珍重された。甘柿が食べられ始めたのは鎌倉以降というから、渋柿の方が先輩ということになる。1900年代のパリ・セントルイス万博では、それぞれ銀杯・金杯を受賞している。アメリカ・カリフォニアの日系移民は干し柿を普及していた。

  

 和宮様の連日の奮闘で、毎日のようにお手製の干し柿が下賜されいただけるようになった。旨すぎてついつい2~3個は手が出てしまう。糖度が50度以上になっているというから、メロンやブドウよりうまいわけだ。和宮様は毎日剥いた柿をせっせと太陽光にさらし、焼酎を筆で塗っていくのをルーティンワークにしている。ありがたいことだ。

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大正ロマンの古民家を見に行く・周辺編

2022-12-14 21:51:55 | 歴史・文化財

 前回の豪壮な古民家に続き、今回は母屋の周りを見る。何と言っても、重厚な土蔵が圧巻だ。貴重なお宝があったそうだが、泥棒が入って多くが盗まれた。お宝が入っていた箱だけが山積みされて残っていたという。頑丈な土蔵造りのどこから侵入したのだろうか。

 一階部分には、「腰巻」と言われる耐水・耐火・安定対策の煉瓦が積まれていた。地面からの湿気防止と火災からの類焼防止ということだが、煉瓦が新しいことや煉瓦の積み方がシンプルなのを見ると、昭和になって補修したものかもしれない。また、庇を支えている金属製の支柱は、アールヌーボーらしい曲線の植物デザインで表現している。ここらに大正ロマンの影響もあると三須さんは語る。

      

 壁に打たれているL字型の折れ釘が気になった。建物を補修したり、庇などの付属物を加えるとき、梯子を固定するために縄をかけたりするのに利用する。また、樋を支えるデザインにもなっている。

 さらに、その釘の根元には荷重を避け、亀裂や釘の錆による湿気侵入を防止するための「粒・ツブ」を漆喰で造っている。ただし、向かって右側は壁もツブも漆喰が見られないので後から補修したものと思われた。

          

 その蔵の隣に、もう一つのやや小さい「袖蔵」があった。中に入ると、立派な梁と階段が目を惹いた。ここまで中のものを整理してきたのはけっこう大変だったのがわかる。壁は木材で囲まれている。その補強もされているということだが、素人にはよくわからない。

   

 「倉庫」を外から見た。格子窓があったが、一間くらいの大きい戸が正面にあった。鍵穴が左下にあった。また、その近くには窓がない状態の二階のある作業場があった。三須さんがいま補修中の場所だ。注目は二階からの庇にかけての斜めの木の曲線だ。雨をソフトにランディングするための曲線だという。木材に鋸で切れ込みをいっぱい入れて曲げている。こんなところにもジャパンテクニックがさりげなくある。昔は瓦の庇だったという。

  

 最後に台所を案内される。かまどがなんとタイルでできていた。当時としては斬新なかまどだったと思われた。民泊した人はここで炊事を体験してもらっている。お皿などの容器もレトロなので一気にタイムトンネルを通過する。

 反対側からは昔の玄関から長い土間とつながっている。そこに「千本格子戸」が見事にたたずんでいた。ふんだんに木の格子が多用されている。これもジャパンテクニックの先端だ。わが家にも格子戸があるがこれほどの格子の数はない。

         

 9000平米というこの元地主は、栗田さんという名望家らしい。村長・組合長・県議会議員などを歴任した地元の有力者だ。しかも、道路を開削したり、橋を架けたり、学校も創立。英語塾の教師には森鴎外の小説『渋江抽斎』のモデルとなった渋江保がいたという。そういう地域づくりに私費を投じたという。また企業家として製材・製氷・新聞社・養魚場・銀行なども経営。

 二宮尊徳の報徳思想の影響があったようで、地域貢献・社会貢献が半端ではないと郷土史家の木下恒雄氏は指摘する。現代の企業家リーダーや政治家にもっとも欠落している志でもある。

           

 木下さんは、栗田氏のそうした偉業について、「何時も世の人達の生活に立ち尽くして来た氏の一生は記録されるべき歴史そのものである。我が北遠山中にある町・村・里の歴史は、氏の歩いてきた足跡が即その上に重なっているとも言えるのである」と静かに訴える。しかし、今ではその功績は「忘れ去られてしまっている」と哀惜の情を隠さない。

 とはいうものの、その意思を偶然受け止めた建築家・三須さんのおかげで、建物が再生し、地域に開かれた拠点としてスタートしているのが頼もしい。

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大正ロマンの古民家を見に行く ・母屋編

2022-12-12 18:08:59 | 歴史・文化財

 建築家の三須克文(ミスヨシフミ)さんが林業家の古民家を購入して再生しているというので、「春野人めぐり」のイベント案内に乗じてそそくさと見に行く。ゼネコンで活躍した人が古民家再生によって地域おこしの一端を担うという三須さんの生き方がうれしい。民家をスクラップしてコンクリート造りが花形だった世界から古民家再生へという180度違う世界へと飛び込んだのだ。

 場所は秋葉神社上社へいく麓の表参道入り口にあった。竹林と広大な山を背にした古民家は再生の途上にあった。

          

 伊豆から取り寄せたという石の塀を過ぎると玄関があった。その格子ガラス戸のデザインは当時としては斬新だったのだと思う。現在はその左隣の部屋を改造してお客用の玄関にしている。週末には佐久間町出身で猫の好きな奥さんを中心に「まろや」という古民家カフェ・民泊を運営している。

  

 母屋に案内された。林業家の住まいらしく部屋の周りは木材がふんだんに使われている。天井は木目模様を生かしたモダンなデザインに驚く。このへんは林業家の豪勢さと建築家の大正モダニズムの息吹が感じられる。

   

 目立たない隣の部屋の天井は板目でも柾目でもない複雑な「杢」(モク)模様だらけだった。欅の大木だろうか、原木のねじれや瘤模様を生かして切り出されたものだ。その木目模様には、「玉杢」とか「泡杢」とか「虎斑(トラフ)」とか多様な種類があるが、どれにあたるかは素人にはわからない。わかるのは贅を尽くした貴重な造形美であるということだけだ。

      

 さらにその隣の部屋の床の間には、スライスしたヒノキが飾られていた。これだけで座禅ができそうだ。ちなみに、この部屋で数人のうら若き女性のお客が談笑しながらコーヒーを飲んでいた。その部屋の板戸は、全体が一枚板だった。巨木をふんだんに使われた古民家であることがこれだけでもわかる。

  

 廊下から外を見ると整備が終わった日本庭園が見えた。まるで、旅館にいるみたいだ。ガラス戸は「手吹円筒法」という、円筒ガラスに切れ目を入れ再加熱して板状ガラスにした「手延べガラス」ということだった。明治から大正にかけて作られた「大正ガラス」に違いない。横からガラスを見るとゆがみがある。三須さんによれば、30年近く空き家だったのに「一枚も割れていなかったのが奇跡だ」と語る。

         

 「これだけがお宝だった」と語る、日本の林業の偉人・金原明善83歳のときに揮毫した扁額を見る。「山林は興を引くこと長し」という杜甫の漢詩のようだ。山林での暮らしに強く魅かれた明善らしい言葉だ。ガラクタの山からこれを見出した時は大いに喜んだ三須さんだ。なんとかきれいに修復することができた。

 母屋の案内の次に周辺を見に行く。それは次回のブログに続く。

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「諸君 ! 脱帽したまえ ! 天才だ !」 

2022-12-09 17:17:05 | 読書

 青春時代はフォークとロックが伴走してくれた。クラシック音楽は退屈なメロディだった。今もそうだ。しかし、部分的に好きなフレーズはなくはない。たまたま清塚信也氏の軽快な語りとピアノ演奏を聴いて、ショパンのテクニックと生き方のすごさを感服する。いつものようにさっそく、CDと書籍を入手する。

 まずは、入門書らしき遠山一行の『ショパン』(新潮文庫、1988.7)を読む。

            

 当時の写真がふんだんに盛り込められた200ページほどのコンパクトな本だった。同時代の燦然たるロマン派音楽の巨匠のなかでも、ひときわ異彩を放っていたのがショパンだった。

 1830年、ショパンはワルシャワでデビューリサイタルに大成功していたにもかかわらず、同年急いで出国してしまう。ポーランド独立運動に加わった戦士と交際していたことで、ショパンはブラックリストに載っていたのではないか、かれらがショパンの出国を支えたのではないか、と著者の遠山氏は推理する。暴動勃発は出国直後だった。

                

 18世紀にはじまるポーランド分割は三度にわたって侵攻され、世紀末にはポーランドは世界地図から完全に消滅する。このときも、ロシアは独立運動を徹底的に弾圧・殺戮しているのは現在と変わらない。独立が復活したのは第1次世界大戦後の1918年、123年後だった。ショパンはそんな背景を背負って祖国には二度と戻ることはなかった。彼の胸中によどむ苦悩はそんな葛藤を持ちながらの作曲でもあった。それが彼の答え・光だった。

          

            リスト           ベルリオーズ              

               

               シューマン               メンデルスゾーン  

 安定した暮らしになるまでの苦労、恋の破綻、病苦などにさいなまれる苦境にありながら、ショパンは演奏会に作曲に没頭していく。それは、同時代で活躍する巨匠、リスト・ベルリオーズ・メンデルスゾーン・シューマンなどとの共演や友好も力になった。

 リストは力強い演奏でアイドル的人気を占めた。ベルリオーズはベート-ベンの交響楽的崇高さを受け継ぐ。メンデルスゾーンはドイツの音楽家の流れ(バッハ・ベート-ベン・ウエーバー・シューベルト)を発展させる。シューマンは作曲家・指揮者のみならず音楽批評家の役割を確立する。ショパンを「諸君!脱帽したまえ!天才だ!」と紹介する。

       

  著者は、ショパンの音楽をその肉体・魂・感性を切り刻みながら絞りだした孤高の音楽家だと絶賛する。三善晃・若桑みどり・中村紘子さんら各界からのエッセイも味がある。ページ数こそ少ないが 欲張りな編集だった。ちなみに新品のような古本の購入額はなんと1円だった。 (音楽家の画像は「クラッシック作曲家 .com」webから) 

 

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