山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

光栄の路 向かう所は 墳墓のみ

2024-01-31 23:34:30 | 歴史・文化財

 故あって横浜を訪れた。その用事の隙間を縫ってなんとかその山手地区で有名な「外人墓地」をまわった。といっても、公開日ではなかったので、外周をそそくさと歩いたのだが。外人墓地はぺリー来航とかかわるのが興味をそそる。

 1854年ペリーが再来日したとき船上の事故で乗組員1名が墜死し、この水兵の埋葬地をペリーは幕府に「海の見える地」という条件で要求したことから、外国人墓地が始まる。なんか、現代にも続いている日米のチカラ関係がすでにほの見える。がしかし、外国人を隔離するという当時の幕府官僚の高度なしたたかさも伏線にある。

         

 この正門を設計したのはアメリカ人建築家、ジェイ・ヒル・モーガン。横浜を中心に数多くの作品を残した。モーガンもここで埋葬されている。門柱には昭和43年11月明治百年を記念して日英語で鎮魂の詩が刻み込まれた。右側の門柱には、イギリスの詩人トマス・グレーの代表作「田舎の墓地で詠んだ挽歌」からの引用が刻まれているようだ。引用文の内容は東洋的だ。

「美人の栄華 富豪の驕奢(キョウシャ) /  孰(イヅレ)れか 無常の風に逢はざらん  /  光栄の路  向ふ所は墳墓のみ」。

       

 グレーのその下には次の碑文が続く。これを書いた人物はわからない。

 「百二十五年を古るこの墓に眠れるは / かなたより東の国をおとない / こなた母なる大地に逝きし 四十一国(ヨソヒトクニ)の異邦の魂 / 彼らはるかなる異邦より 豊かなる訪れをもちきたり / 東のはてに第二の母なる 国を見出たり / 現世のはかなきを嘆く魂も 今は安らかにここに憩う / 彼らの願うは たまさかなる 追憶ならんや / 世を去りし人々にこの地 静けき眠りを与えん / 明治始まりてより 百年を数うるこの年 一九六八年にこの碑を立つる / そは我ら ささやかなる 礼を捧ぐるものなり」

   

 日本の攘夷派テロリストの犠牲になった外国人埋葬が発端になっているので、墓地はいまも日本側がつくり無償で土地を提供している。外側の柵から見えた墓群の形態はここでは多様であるのがいい。また、人種・宗教にかかわりなく埋葬されている。お墓は約2500柱、約5千人が埋葬されている。

 埋葬されている有名人でオラが知っていたのは、「ジャパンパンチ」新聞記者のチャールズ・ワーグマン。幕末に来日した彼は、1862年に日本の風刺雑誌「ジャパン-パンチ」を創刊。また、洋画の指導にもあたり、教え子に高橋由一がいた。

        

 生麦事件で殺されたリチャードソン、日本初の女学校フェリス女学院を創立したキダー、ビール工場を設立したコープランド、鉄道敷設の父エドモンド・モレルなど日本の歴史にかかわる人々が眠っている。墓地の外郭には大木が多い。それはかつて森だったこと、風雪の歩みが刻まれていることなど魅力が絶えない界隈だった。

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上を向いてばかりの生き方は疲れます!?

2024-01-27 18:11:43 | 野菜・果樹

 やっと、キウイの剪定を終わらせる。寒さと寒風の中の作業なので老体にはこたえる。だもんで、4日間をかけてのんびりやることにする。今回は幅十数センチの古木を数本強剪定する。ここ数年、オラたち人間もキウイも後期高齢者となっているのでお互いにやれる範囲のことだけをやることを暗黙の同意としている。

                                                        なにしろ、秋には「エノキタケ」か「ナラタケモドキ」らしきキノコが生えてきてしまったからね。食べられそうだったんだけど、和宮様からダメ押しの命令が出たので逆らえませんね。

 

 伐ったところは墨汁を塗って雑菌が入り込むのを防止してみた。寒い日にはノコギリを使うのがいい。さすがに汗こそ出ないがじっとしているよりはいい。上ばかり向かって作業しているので、長くやっていると首が痛くなるので、適度に首を回すようにしている。人生上ばかり見てはいけない。下を見ることも大切なのだ。また、オスとメス株の枝が出会うように今回はかなり注意したが、こう言う出会いも人間の出会いと同じく思う通りにはいかない。

  

 なんだかんだで、棚の下は伐った枝の集積所となった。注意して歩かないと転びそうになる。毎年のことだが一年のうちにこんだけ溜まってしまう。しかし、これはいつの間にか、焚き火の原料となり、灰となり、またここへこんどは肥料として配布される。まさに、循環型農業を推進している気になっている。

 

 理想通りの剪定はいつもながらできないが、ジャングル状態からは脱出したのは間違いない。ほんとうは、魚の骨のようにきれいになるのがいいが、キウイも自由を求めているので思う通りには行かない。しかも、天に向かって伸びようとするからそれをなだめるのが難しい。収穫量も往年のようにはいかないが、朝のジュースにはいまだ欠かせない食材として活躍してくれている。

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破天荒の怪人伝

2024-01-26 22:48:02 | 読書

 夢野久作『近世怪人伝』(文春学芸ライブラリー、2015.6)を読み終える。冒頭に紹介された「頭山満」は、日本の対外膨張政策を推進する右翼的な黒幕でありながら、中国革命の父・孫文、朝鮮独立の闘士・金玉均、インド独立の革命家・ボースなどの指導者を匿ったり支援した「玄洋社」の頭領である。その後は自由民権運動へと流れていく。

            (画像は国立国会図書館webから)

  子どものころから頭山満に可愛いがられていた著者は、頭山満の客観的な忠君愛国的活動というよりその好々爺ぶりや超然とした風格を講談調に紹介してくれる。著者の父・茂丸が亡くなったとき顔をくちゃくちゃにして泣いてお別れする頭山氏を忘れない。肩書・名誉・金銭に拘泥しない巨頭の赤裸々な人間的自然をユーモアを持って逸話の数々を語る。

 著者が「明治・大正・昭和の歴史に出てくる暗殺犯人が大抵、福岡県人である」と明言する背景は、ある面では「天下を憂い国を想う志士の気骨」を持っていると、北九州の青年を讃える。

           (画像は、板澤書房古書店webから)

  著者の父である杉山茂丸も頭山満氏とともに「玄洋社」を支える領袖でもあった。茂丸も頭山満と人間的にも思想的にも似たような生き方だった。が、著者は父・茂丸との接点はあまりないくらい、茂丸は自宅にいなかった。そのぶん、政財界に神出鬼没に暗躍する無冠のフィクサーだった。それもどちらかというと、組織的に動くよりひとりで大きなことをやらかす魅力をたたえていた。だから、彼の周りにはそのカリスマぶりを慕う人脈がそれとなく形成される。また、政財界や皇室にも未だ心身の影響を与えている中村天風も軍事スパイとして玄洋社から大陸へ渡っていた。

 茂丸→著者・久作→龍丸へと続く杉山三代の縦横な活躍は目を見張るものがある。その背景は黒田藩の伝統があったと著者は述懐している。

 (画像は、1935年発行の雑誌『新青年』口絵から)

 三人目はあまり知られていない奈良原到だ。「殺気を横たえた太い眉、青い地獄色の皮膚、精悍そのもののような巨躯」と表現された彼は、「凄愴の気迫さながらの志士」であると著者はその怪人ぶりを紹介している。当時の編集者は、「現代のハイカラな諸君に、このおじいさんを紹介して、諸君の神経衰弱を一挙に吹き飛ばしてみたくなった」と言うが、まさにドッキリ、痛快怒涛編となっている。

        

 四人目は魚市場の元気過ぎるドンだ。著者はこの篠崎仁三郎に倍以上のページを割いている。「処世の参考になんか絶対になりっこない奇人・怪人」のトリがまさに無名の魚屋だった。著者が一番筆が走った怪人だったのではないかと思えるほど捧腹絶倒のエピソードがつづく

  本書を読んでから、戦後日本の右翼や政治家がいかに狭小なものかを痛感する。不平士族の坩堝だった玄洋社の懐の広さに、直線的・人情的な心情に考えさせられる。最近の近視眼的な日本のつまらない事件にうんざりするが、この怪人たちのスケールの大きさ・奔放さに刮目する。それに、これが書かれたのが日本の満州国傀儡化が始まった軍靴轟く1935年(昭和10年)だった。

 

 

 

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アダンソンさんへ献名した蜘蛛

2024-01-24 22:09:57 | 生き物

 夕飯を食べて一服していた時のこと、いつものことだが目の前に小さな蜘蛛がいた。以前何回か見たことがある気もしたがとりあえずデジカメで撮ってみる。しかし、いつものように名前がわからず難航する。おそらく、ハエトリグモらしいことに落ち着く。とは言っても、この仲間は日本に100種類以上もいて、姿も色も模様も多様であり、雄雌の違いもえらく違う。その中で、家蜘蛛の「アダンソンハエトリ」が一番似ていることにまずは落ち着く。名前の由来に注目した。

 命名の由来は、フランス人博物学者のミシェル・アダンソン(1727-1806)さんの業績をたたえて、フランスの昆虫学会の創立者の一人、ビクトル・オードワン(1797-1841)さんが献名した蜘蛛だという。アダンソンさんは、博物学全書全10巻をまとめようとしたり、植物分類法を提案したりしたが事実上不発に終わったが、その地道な研究にリスペクトしたというわけだ。オードワンさんが偉い。

 この蜘蛛は、二つの大きな眼で相手のハエやダニ等を捕らえて、短足ながら身軽なジャンプをして捕捉するという益虫・ジャンピングスパイダーでもある。

 

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野生化したハトムギを飲む!?

2024-01-22 22:38:33 | 食彩・山菜・きのこ

  なかなか入手できなかったハトムギの種を確保したのは三年前だろうか。たしか10粒くらいだったが、あっという間にぐんぐん増えていった。以前、和宮様のイボがハトムギを摂取することできれいになったことがある。お肌もきれいになるし、健康に良いことは間違いないが、栽培方法がわからなかった。とりあえず、種を蒔いて成り行きに任せる。その結果、野生化が始まり、収獲して唐箕で脱穀を始める。

         

 種を見ると、白いものが多い。光沢のある茶色いのが基本だが、いろいろな模様や色がある。最初は畑で栽培していたがその繁殖力にたまげたまま、畑の脇で見守っていたら野生化が始まったというわけだ。白いのや模様のあるものには実が成っていないのもあるのが分かった。

        

 なるべく、輝く黒褐色の実を中心に実を選別すると、収獲の半分近くを処分することになる。なんとなくもったいないので硬い実ならOKにしてみる。すると、味に雑味が出てしまうのではないかと予想する。ほんとうは、殻だけ取りたいがそれは技術的に難しそうだ。だもんで、実を粉砕してハト麦茶を中心にチャレンジする。

       

 最初はネットで強力だという粉砕機を注文したら説明書もない中国製だった。悪い予感がしたがやはりこれはまったく役に立たなかった。だもんで、家にあったイワタニの「ミルサー」を使ったらまずは30秒で粉砕できた。(※「だもんで」は静岡の方言)

           

 何回か粉砕すれば綺麗な粉状になるかもしれないが、先を急ぐので粉砕したものをお茶パックに詰める。これを少なめの熱湯のやかんに1個放り込んでしばらく煮だす。

         

 やっと、収獲したハトムギ茶を初めて飲むことができた。市販のハトムギ茶をいっぱい買い込んでいたが、それと比較しても遜色ない味だった。ここに、やはり野生化しているエビスグサことハブ茶をブレンドするとよりコクが出る。いくつかのハーブも野生化しているのでそれらもブレンドしてみたい。というわけで、積年の願いの一つが実現する。毎日のように飲んでいるコーヒーをちょっぴり控えなくちゃね。           

 

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円朝の人情噺を圓楽が…

2024-01-19 22:38:42 | アート・文化

 五代目圓楽の真骨頂ともいうべき「江戸桜心灯火/助六伝」に感銘して、引き続き、今度は落語界や歌舞伎でも多くの芸人が演じている「文七元結(モットイ)」をCDで聴く。三遊亭圓朝が、幕末から明治にかけて薩長の侍が跋扈している姿に抗して江戸っ子気質を見せるために創作したと言われる人情噺の名作。それを生家の寺院の石碑や過去帳を踏まえて圓楽が新たに発展させていく。

 賭博のため困窮していた左官・長兵衛が、大金を失くした責任をとって身投げしようとしていた文七を助ける。そのうえ、身売りして親の借金を工面しようとした長兵衛の娘の資金によって文七の過失を解決していく。

     

 文七が身投げしようとしたのは隅田川の「吾妻橋」。投身の場所としてしばしば落語でも登場する「名所」らしい。文七は店の主人から預かっていた50両を失くしたが、長兵衛は命には代えられないとせっかく入手した50両を文七に与えてしまう。

  「五代目圓生」は「この噺を演ると目が疲れていけない。ぐったりする。」と言っていたという。身投げする文七を助けようとするときの長兵衛の断腸の葛藤を表現する際、すべてを目に凝縮したからなんだと、弟子だった圓楽はその名演技を述懐する。

      

 ゼニのために生きてきた文七の主人・べっ甲問屋の宇兵衛がその長兵衛のきっぷのよさにハッとしたところに圓楽の着眼がある。その宇兵衛が文七と長兵衛の娘・お久とを夫婦にしていくというハッピーエンドで締めくくる。

 歌舞伎では五代目尾上菊五郎が長兵衛を明治35年(1902年)初演して以来、戦後の17代目中村勘三郎(1909-1988)の十八番ともなっていくなど名演者の話題には事欠かない。(画像は,山田洋次演出脚本、中村獅童・寺島忍ら主演のシネマ歌舞伎。AmebaNewsから)

    

 噺の途中でその婚礼にかかわる言葉でわからなかったのは、「切手」だった。要するに、それはお酒の商品券というのが分かった。また、「角樽(ツノダル)」もなかなか目にしない祝宴用の酒樽だ。さらには、「猫の小腸(シャクシロ)みたいな帯」という表現も、よれよれのくたびれた帯という意味であることも調べてやっとわかった。古典落語ではそうした現代ではなかなか耳にしない言葉がひょいと出てくるのが曲者だ。(画像は、落語散歩web及び酒問屋升本総本店blogから)

  

「元結」とは、髪を束ねる際に使うこよりの紐。文七夫婦はその後小間物屋を店で開いてめでたく活躍したという。(画像はTenki.jpから)

 落語家でこの「文七元結」を演じているのは、志ん生・志ん朝・林家正蔵・桂三木助・立川談志・柳家小三治・金原亭馬生ら錚々たる師匠が連なる。圓楽は、「闇の夜も吉原ばかり月夜かな」という芭蕉の一番弟子・宝井其角の俳句を引用して博学さをみせるものの、ところどろに下ネタもいれて「涙でしめっぽく終わらないよう」心がけたという。

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図鑑に載ってなかった希少種

2024-01-17 22:16:04 | 生き物

 夏や秋には夜の訪問者が多いわが家に、冬のさなかにやってきたのは…。1cmもないような小さな昆虫だった。カマドウマかバッタの子どもだろうかと何気なくカメラで撮ってみたものの、正体不明だった。まもなくそれは、「クモガタガガンポ」(ガガンポ科)とわかった。北海道では普通に見られて別名「ニッポンユキガガンポ」ともいう。画像は排卵官があるのでメスのようだ。赤ちゃんのようにちっちゃい顔や産毛のある体もかわいい。巨大な蚊の仲間とはとても思えない。

 

   

 足が長いところはガガンポだけど、翅が退化していて飛べない。北海道では雪の上を歩くガガンポをよく見かけるという。その歩くさまとか毛深いところから「クモガタ」という冠が付いたのかもしれない。しかし、のっそり歩いていたらほかの昆虫の餌食になってしまう。氷河期の生き残りというくらいだから、生き残り戦略は長けているはずだ。それはやはり冬を味方にすることで外敵から身を守るという生き方を選択したようだ。だから寒さにも強い。背中に「平均棍」がちらりと見える。

     

 昆虫の翅は4枚が標準だが、ハエに近いクモガタガガンポは翅が退化したものの残りの2枚を「平均棍(コン)」という機能を進化させて体のバランスをとっているようだ。。2枚羽のハエは、急発進して曲がったり止まったりのスピードをこの「平均棍」で機能させているが、飛ばないでスピードもめざさないクモガタガガンポには平均棍は必要なのだろうか。

 なにしろ、ガガンポの研究者が少なくてクモガタガガンポの種類や生活史は謎だらけだそうだ。図鑑にも載っていないのは致し方ないかー。(上の画像は「岐阜大理科教材データベース」から)

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圓楽の「助六伝」のリアル

2024-01-15 22:13:08 | アート・文化

 五代目三遊亭圓楽の古典落語をCDで聞く。演目は「江戸桜心灯火(エドザクラココロノトモシビ)/助六伝」。圓楽の実家は台東区の浄土宗・不退寺易行院、通称「助六寺」とも言われていた。その本堂脇に「助六の塚」があり、六代目市川団十郎(1778-1799)が建立している。寺には若い女郎の過去帳や無縁仏もいっぱいあったという。そんなところから噺が始まっていく。

 

 歌舞伎の「助六」というと、七代目団十郎が定めた歌舞伎十八番・「成田家のお家芸」の主要な演目の一つだ。「勧進帳」「暫」と並んで上演回数の多さは群を抜く。侠客の助六が源氏再興のための宝刀を探索していると、吉原の花魁「揚巻」に出入りしている金持ちの「意休」(平氏)が宝刀を持っていることがわかる。恋人揚巻とともに助六が危機を乗り越えその宝刀をとり返していくという単純なストーリーだ。

        

 その助六のファッションと粋が江戸っ子のあこがれだった。桜満開の中での出演者の豪華絢爛な色彩美も見どころとなっている。正徳三(1713)年、江戸で二世市川団十郎が助六に扮したのが初演とされるが、これ以前、上方では助六と遊女との心中物語として浄瑠璃などでも上演されていた。(錦絵画像は国立国会図書館デジタルコレクションから)

 圓楽は実家の助六の由来と20年来あたためていた構想とを人情噺に昇華している。吉原という舞台には華やかな表面と残酷な裏面とがあり、そこに人生の悲喜こもごもがあることを伝えたかったようだ。

    

 圓楽は「落語家」ではなく、「噺家」でありたいとする。「噺家は人生の語り部である」「人生観のないものは嫌いなんです」と自負しているからだ。したがって、圓楽の助六伝は、歌舞伎の華麗さではなく上方の事例を受けて「後追い心中もの」に仕上げている。時間にして1時間たっぷりの聞かせる噺であったのは言うまでもない。

         

 圓楽がここで引用した「川柳」を書き出してみる。読書家圓楽の話の巧さだけでなく事象への造詣の深さがここでも発揮されている。古典落語は深い。

 1 「こはいかに折れし三升の勝負だち」(三升家=市川家、六代目は22歳で病没・辞世の句)

 2 「人は客おれは間夫だと思う客」 (間夫・マブ=情夫)

 3 「母の名がおやじの腕にしなびてい」 (彫り物)

 4 「くどかれてあたりを見るは承知なり」

 5 「女郎の誠と卵の四角あればみそかに月が出る」

  

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インドの砂漠に緑を実現した日本人

2024-01-12 20:15:27 | 読書

 新型コロナで体力を消耗していた市井のダビンチさんから本が送られてきた。杉山満丸『グリーン・ファーザー/インドの砂漠を緑に変えた日本人・杉山龍丸の軌跡』(ひくまの出版、2001.12)だった。

 曾祖父は、玄洋社で右翼の大物・頭山満とともに活躍していた政財界のフィクサー・杉山茂丸祖父は広大な杉山農園をにない、夢野久作というペンネームで注目を浴びた作家でもある杉山泰道は、ガンジーの弟子と交流があり当時のネール首相からの要請もあり、インドの砂漠を緑化する活動を貫徹した杉山龍丸。その息子で高校教師をしている著者の杉山満丸

  

 なにやら戦前から現在まで明治・大正・昭和の波乱万丈を生き抜いてきた杉山一族である。本書は、息子・満丸が中学生でも読めるよう杉山家三代の、なかでもあまり知られていなかった杉山龍丸の前人未到の活動を中心にわかりやすく編集されたドキュメンタリーだった。

           

 曾祖父の茂丸の多彩な事業と交友関係も十分興味をそそられる。なにしろ、伊藤博文の暗殺をねらっていたほどの直情家でもあった。自らは官職も議席も持たない無冠の在野人であったが、山縣有朋松方正義井上馨桂太郎後藤新平の参謀役も務め、今日の日本興業銀行の設立にも寄与した。しかも、中国侵略に批判的な少数派であったことも注目に値する。

 祖父の夢野久作の奇想天外な小説は評論家の鶴見俊輔が紹介して以来たちまち脚光を浴びた。オラも名前だけは知っていたがこれからぜひ読んでみたいと、さっそく注文する。

   

 そこへ、父の龍丸のインドの砂漠緑化という壮大な計画が実行されていく。メイン道路の両側にはユーカリの木が育ち、その背後には砂漠が畑に進化していく。そのことで、3万本の木を植えた男としてインドから「グリーン・ファーザー」と尊敬されていく。それは、アフガンの中村哲さんのような姿が想起される。しかし当時それはあまり知られていなかったし、恥ずかしながらオラも初めて知った次第であった。

        

 息子の満丸はその父の足跡を訪ねていく。そこにはユーカリの大木と農地が広がっているのを確認する。戦争で重傷を抱えながら父は命がけで大志を実現する情熱は曾祖父以来の血が流れていることは間違いない。この三人の生きざまは、大河ドラマになっても遜色ないドラマにあふれている。いっぽう、戦国乱世を放映すれば視聴率を獲れるというマスメディアのおもねりにいつも怒りがわいてくる。

        

 そういえば、オラの長髪が邪魔だったころ、中国の砂漠を緑化する日本のNGOの活動があり資料を取り寄せて参加できるかを検討したことがあった。経済的に難しいと当時は見送ってしまったが、今思えば無理してでも参加すべきだったと思う。そのときは、インドでの砂漠緑化の活動はまったく知らなかった。その意味では、龍丸の腹を据えた活動の激しさを想う。

       

 満丸はエピローグで語る。「父龍丸が育てたのは、緑だけではなかった。緑という命の尊さ、その心をともに抱き合うことのすばらしさを、人々の中に育てていったのだ」と、その艱難辛苦だった軌跡をまだぼうぼうと広がる砂漠の果てを見つめながらまとめた。

 

 

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新年に恵贈された恵みは…

2024-01-10 22:37:53 | 出会い・近隣

 新年早々、近隣から断続的に贈り物が届いた。元旦には、手作りの「芋汁」をいただく。このあたりの地域では、ヤマノイモのとろろ汁を「芋汁」という。地元ではこの自然薯栽培が活発だ。贈答品としても高価な食材にもなっている。それを大晦日から寝ない?でなんどもすり鉢で擦って、持ってきてくれただけにまろやかなとろろ汁だった。わが家は玄米食なので麦飯もどきと言っていい健康食でもある。

 新年の食事を持ってきていただくというありがたい芋汁でスタートすることとなった。これは幸先良い年になる気配を感じる。

       

 さらにまもなく、山の猟師から獲りたての「シカ肉」が届いた。近年急速に増加しているシカを年末から新年にかけて集中的に撃っているという。シカにやられ放題だっただけにそれはそれは有難い。さいわい、和宮様が最近とんかつを食べていないとおっしゃり、シカ肉のジビエ「カツレツ」を自ら作ってくださるという。

 トンカツの肉はもちろん「豚肉」だが、カツレツは肉の種類は問わないという。「カツレツ」はもともとフランスの「コートレット」が英語では「カットレット(cutlet)」という。それが訛っていき「カツレツ」になったという。ちなみに、「フライ」は魚や野菜を揚げたもの。意外に知らないことが多い。

 シカ肉カツレツはサクサクでウマカーだったのはいうまでもない。獲りたてのシカ肉だったせいか和宮様の料理上手のせいか、じつに柔らかいものだった。歯がぐらぐらのオラにはぴったしだった。新年早々、近隣からの恵贈品に頭が下がる。

      

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