人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る ーー 鎌倉大仏造立の目的 ーー

2017-06-08 14:42:58 | 日記

この季節は小中学生をガイドすることが多く、毎日のように高徳院の鎌倉大仏を訪れています。ところがこの国宝の大仏、その造立の経緯がよく分かっておらず、誰が何のために造ったのかも確信をもって説明できません。この近くにある長谷寺と同様に案内人泣かせの場所の一つです。

吾妻鏡には、1238年に木造の大仏が造られ、1252年から金銅製の大仏の鋳造が始まるという記録はありますが、それ以上のことは書かれていませんし、歴史家の諸説も推測の域をでません。しかし毎日のように大仏さまを拝み、端正なお顔がもつ芸術性と高度な造立技術を目の当たりにしますと、素人ながら何のために造られたのかは知りたくなります。

最近、『鎌倉大仏の中世史』(馬淵和雄著・新人物往来社)という本を読みました。わたし自身、この本を読む前に、鎌倉大仏、極楽寺、長谷寺の関連性とそれに関わった人物として5代執権北条時頼の役割を紹介しました(本ブログ2016.11.1「西部エリア整備事業???」)。馬淵先生のお考えは、わたしのものとほぼ同じでちょっと自信を持ちました。さらに馬淵先生の研究は、叡尊・忍性の真言律宗との結びつきに及んでいます。このことについても、昨年に生誕800年になる忍性菩薩のことを勉強しましたので、納得感があります。

1221年の承久の乱以降、権力の集中を図りつつあった北条得宗家。それは5代執権時頼の時代により強固なものとして確立されました。政治には華やかな表の部分と人間の生活をささえる裏の部分(所謂公共事業)がありますが、現在の社会では役所が担っている公共事業を、北条時頼は叡尊・忍性の真言律宗の寺院とそれらに属する職業集団に担わせました。

そして銭洗弁財天の金銭浄化の話(今でいうマネーロンダリングでしょうか?)、宋銭で鋳造されたとされる鎌倉大仏。時頼の廻国伝説、青砥藤綱の銭拾い伝説など、これらはすべて北条時頼の強かな施策が記録として残らず、伝承として残ったのではないかと思います。因みに私の計算では、鎌倉大仏を造るのに必要な宋銭は2000万枚です。本当かな???

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