ぱんくず日記

日々の記録と自己分析。

主日礼拝

2009-08-23 19:16:00 | 教会
礼拝では
じじは居眠りしていたが
途中から目を覚まして正面を向き
聞き入っていた。


午後から聖餐式。
先日夜の集会に出た時、
近況報告ついでに
じじの聖餐式についての疑問を
牧師先生に伝えておいたら
聖餐式の説教で
コリントⅠ11;23~31の聖餐の箇所を朗読し、
説明して下さった。


じじは何度かヘルパーや私に聞いていたのだが
私の話では納得がいかない様子だったのだ。


「あの、分餐のやつな、・・・」


「ああ、聖餐式。」


「その聖餐式な、
 あれはいつまでやるんだ?」


「ずっとさ。」


「ずっと?」


「そう。
 ずっと、一生。」


「一生!?
 そんな事はあるまい。」


「何でよ。
 信者は一生聖餐式やり続けるんだよ。」


「なんぼなんでも
 一生聖餐式やった人なんて
 いる訳ないだろう。」


「いや、
 我々キリスト教徒は一生、
 死ぬまで聖餐式やるんだよ。」


「・・・・・(?_?)」




聖餐式が始まり、
牧師先生はコリントⅠ11;23~31の
主の晩餐の箇所を開いた。


「私達の行う聖餐式は、
 初代教会の時代からずっと、
 イエス・キリストを救い主と信じる人々の間で、
 つまりキリスト教の教会で代々行われてきました。
 どういう頻度で聖餐式を行うかは、
 教派や教会によって考え方や時代や教会の背景が違って
 月に一回だったり毎週だったりいろいろですが
 初期の頃や大昔には
 集まる度に毎回毎回行っていた時代もありました。
 今でも毎日行う教会もおそらくありますが、
 何故聖餐式を行うかというと、
 イエス様が「わたしを覚えて、これを行いなさい。」と
 言われたからです。
 イエス・キリストが私達一人一人の罪を贖うために
 十字架に架けられ、苦しみを受けて血を流し
 ご自分の命を私達の救いのために捧げて下さった、
 その事を覚え、記念してこの聖餐式を行うのです。
 では、私達はいつまで聖餐式を続けるかというと、
 パウロがここで言っています。


  ですから、あなたがたは、
  このパンを食べ、この杯を飲むたびに、
  主が来られるまで、
  主の死を告げ知らせるのです。(コリントⅠ11;26)


 このように、
 私達は主イエス・キリストが来られるまでずっと、
 聖餐式を続けるのです。
 いつかイエス様が再び来られる。
 それは明日かも知れない、
 10年後か100年後か何百年後か、
 主がいつ来られるのかは私達にはわかりません。
 だから、いつ主が来られてもいいように
 私達は自分の信仰を吟味し神に立ち返って備えるのです。」


じじは頷きながら聞いていたが
何だか納得したような満足気な顔をしていた。


どうよ。じじ。


聖餐式が始まった。
じじは渡された銀盆からパンを一切れ取って
反対側にいる教会員の名前を呼び、分餐の言葉を告げた。


・・・・・・(;-"-)・・・・


「○○さん、
 これは、
 あなたのために裂かれたキリストの体です。」


・・・ほっ・・(;+。+)=3・・・・分餐の言葉、噛まなかった。


次に杯が回って来た。
小さな杯を乗せた銀盆が渡される。
盆を落とさないように、
揺らしてこぼさないように受け渡しするのに精一杯だが、
じじは何とか自分の杯を一つ取って
隣に座っている教会員に分餐の言葉を告げた。


・・・・・・(;="=)・・・・


「○○さん、
 この杯は、
 キリストの血による新しい契約です。」


・・・ほっ・・・(;+。+)=3・・(;*。*)=3・・・・OKOK!


よかった。
じじは隣に座った教会員の名前をちゃんと間違えず呼び、
分餐の言葉をすらすらと告げて
パンの乗った盆に乗ったと杯の乗った盆とを
落とさずこぼさず受け渡し出来た。


はーめでたしめでたし。
毎度毎度緊張する。




(追記)
20:30頃、じじ宅に寄った時に聞いてみた。


「お父さん今日の聖餐式、
 牧師先生の説明、わかった?」


じじはベルリンマラソンで金か銀か、
先頭3人のうちの一人である日本人選手に
目が釘付けになりながら答えた。


「わかった。」