礼拝では
じじは居眠りしていたが
途中から目を覚まして正面を向き
聞き入っていた。
午後から聖餐式。
先日夜の集会に出た時、
近況報告ついでに
じじの聖餐式についての疑問を
牧師先生に伝えておいたら
聖餐式の説教で
コリントⅠ11;23~31の聖餐の箇所を朗読し、
説明して下さった。
じじは何度かヘルパーや私に聞いていたのだが
私の話では納得がいかない様子だったのだ。
「あの、分餐のやつな、・・・」
「ああ、聖餐式。」
「その聖餐式な、
あれはいつまでやるんだ?」
「ずっとさ。」
「ずっと?」
「そう。
ずっと、一生。」
「一生!?
そんな事はあるまい。」
「何でよ。
信者は一生聖餐式やり続けるんだよ。」
「なんぼなんでも
一生聖餐式やった人なんて
いる訳ないだろう。」
「いや、
我々キリスト教徒は一生、
死ぬまで聖餐式やるんだよ。」
「・・・・・(?_?)」
聖餐式が始まり、
牧師先生はコリントⅠ11;23~31の
主の晩餐の箇所を開いた。
「私達の行う聖餐式は、
初代教会の時代からずっと、
イエス・キリストを救い主と信じる人々の間で、
つまりキリスト教の教会で代々行われてきました。
どういう頻度で聖餐式を行うかは、
教派や教会によって考え方や時代や教会の背景が違って
月に一回だったり毎週だったりいろいろですが
初期の頃や大昔には
集まる度に毎回毎回行っていた時代もありました。
今でも毎日行う教会もおそらくありますが、
何故聖餐式を行うかというと、
イエス様が「わたしを覚えて、これを行いなさい。」と
言われたからです。
イエス・キリストが私達一人一人の罪を贖うために
十字架に架けられ、苦しみを受けて血を流し
ご自分の命を私達の救いのために捧げて下さった、
その事を覚え、記念してこの聖餐式を行うのです。
では、私達はいつまで聖餐式を続けるかというと、
パウロがここで言っています。
ですから、あなたがたは、
このパンを食べ、この杯を飲むたびに、
主が来られるまで、
主の死を告げ知らせるのです。(コリントⅠ11;26)
このように、
私達は主イエス・キリストが来られるまでずっと、
聖餐式を続けるのです。
いつかイエス様が再び来られる。
それは明日かも知れない、
10年後か100年後か何百年後か、
主がいつ来られるのかは私達にはわかりません。
だから、いつ主が来られてもいいように
私達は自分の信仰を吟味し神に立ち返って備えるのです。」
じじは頷きながら聞いていたが
何だか納得したような満足気な顔をしていた。
どうよ。じじ。
聖餐式が始まった。
じじは渡された銀盆からパンを一切れ取って
反対側にいる教会員の名前を呼び、分餐の言葉を告げた。
・・・・・・(;-"-)・・・・
「○○さん、
これは、
あなたのために裂かれたキリストの体です。」
・・・ほっ・・(;+。+)=3・・・・分餐の言葉、噛まなかった。
次に杯が回って来た。
小さな杯を乗せた銀盆が渡される。
盆を落とさないように、
揺らしてこぼさないように受け渡しするのに精一杯だが、
じじは何とか自分の杯を一つ取って
隣に座っている教会員に分餐の言葉を告げた。
・・・・・・(;="=)・・・・
「○○さん、
この杯は、
キリストの血による新しい契約です。」
・・・ほっ・・・(;+。+)=3・・(;*。*)=3・・・・OKOK!
よかった。
じじは隣に座った教会員の名前をちゃんと間違えず呼び、
分餐の言葉をすらすらと告げて
パンの乗った盆に乗ったと杯の乗った盆とを
落とさずこぼさず受け渡し出来た。
はーめでたしめでたし。
毎度毎度緊張する。
(追記)
20:30頃、じじ宅に寄った時に聞いてみた。
「お父さん今日の聖餐式、
牧師先生の説明、わかった?」
じじはベルリンマラソンで金か銀か、
先頭3人のうちの一人である日本人選手に
目が釘付けになりながら答えた。
「わかった。」
じじは居眠りしていたが
途中から目を覚まして正面を向き
聞き入っていた。
午後から聖餐式。
先日夜の集会に出た時、
近況報告ついでに
じじの聖餐式についての疑問を
牧師先生に伝えておいたら
聖餐式の説教で
コリントⅠ11;23~31の聖餐の箇所を朗読し、
説明して下さった。
じじは何度かヘルパーや私に聞いていたのだが
私の話では納得がいかない様子だったのだ。
「あの、分餐のやつな、・・・」
「ああ、聖餐式。」
「その聖餐式な、
あれはいつまでやるんだ?」
「ずっとさ。」
「ずっと?」
「そう。
ずっと、一生。」
「一生!?
そんな事はあるまい。」
「何でよ。
信者は一生聖餐式やり続けるんだよ。」
「なんぼなんでも
一生聖餐式やった人なんて
いる訳ないだろう。」
「いや、
我々キリスト教徒は一生、
死ぬまで聖餐式やるんだよ。」
「・・・・・(?_?)」
聖餐式が始まり、
牧師先生はコリントⅠ11;23~31の
主の晩餐の箇所を開いた。
「私達の行う聖餐式は、
初代教会の時代からずっと、
イエス・キリストを救い主と信じる人々の間で、
つまりキリスト教の教会で代々行われてきました。
どういう頻度で聖餐式を行うかは、
教派や教会によって考え方や時代や教会の背景が違って
月に一回だったり毎週だったりいろいろですが
初期の頃や大昔には
集まる度に毎回毎回行っていた時代もありました。
今でも毎日行う教会もおそらくありますが、
何故聖餐式を行うかというと、
イエス様が「わたしを覚えて、これを行いなさい。」と
言われたからです。
イエス・キリストが私達一人一人の罪を贖うために
十字架に架けられ、苦しみを受けて血を流し
ご自分の命を私達の救いのために捧げて下さった、
その事を覚え、記念してこの聖餐式を行うのです。
では、私達はいつまで聖餐式を続けるかというと、
パウロがここで言っています。
ですから、あなたがたは、
このパンを食べ、この杯を飲むたびに、
主が来られるまで、
主の死を告げ知らせるのです。(コリントⅠ11;26)
このように、
私達は主イエス・キリストが来られるまでずっと、
聖餐式を続けるのです。
いつかイエス様が再び来られる。
それは明日かも知れない、
10年後か100年後か何百年後か、
主がいつ来られるのかは私達にはわかりません。
だから、いつ主が来られてもいいように
私達は自分の信仰を吟味し神に立ち返って備えるのです。」
じじは頷きながら聞いていたが
何だか納得したような満足気な顔をしていた。
どうよ。じじ。
聖餐式が始まった。
じじは渡された銀盆からパンを一切れ取って
反対側にいる教会員の名前を呼び、分餐の言葉を告げた。
・・・・・・(;-"-)・・・・
「○○さん、
これは、
あなたのために裂かれたキリストの体です。」
・・・ほっ・・(;+。+)=3・・・・分餐の言葉、噛まなかった。
次に杯が回って来た。
小さな杯を乗せた銀盆が渡される。
盆を落とさないように、
揺らしてこぼさないように受け渡しするのに精一杯だが、
じじは何とか自分の杯を一つ取って
隣に座っている教会員に分餐の言葉を告げた。
・・・・・・(;="=)・・・・
「○○さん、
この杯は、
キリストの血による新しい契約です。」
・・・ほっ・・・(;+。+)=3・・(;*。*)=3・・・・OKOK!
よかった。
じじは隣に座った教会員の名前をちゃんと間違えず呼び、
分餐の言葉をすらすらと告げて
パンの乗った盆に乗ったと杯の乗った盆とを
落とさずこぼさず受け渡し出来た。
はーめでたしめでたし。
毎度毎度緊張する。
(追記)
20:30頃、じじ宅に寄った時に聞いてみた。
「お父さん今日の聖餐式、
牧師先生の説明、わかった?」
じじはベルリンマラソンで金か銀か、
先頭3人のうちの一人である日本人選手に
目が釘付けになりながら答えた。
「わかった。」