みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

町の名は主はそこにおられる

2017年11月14日 | エゼキエル書

エゼキエル書 48章

 待ちに待った太陽がほんとうに久しぶりに顔を出しました。当地に住むようになって、陽射しを浴びるのは嬉しいものだと思うようになりました。線路のそばでは積もりに積もった落ち葉が片づけられていました。一つ一つ、冬の準備が進みます。

 エゼキエル書はきょうで終章を読みます。聖書各書の終わりのことばはそれぞれ印象的です。ヨブ記は「こうしてヨブは死んだ。年老いて満ち足りた生涯であった」と終わります。苦難を巡って幾度も厳しいところを通されたヨブの到達点をこのように表現しています。使徒の働きは「パウロは、…少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた」が終わりのことばです。福音の宣教がさらに大きな広がりを見せていくことを感じさせる括(くく)り方です。

 そして、本書は「この町の名はその日から『主はそこにおられる』となる」で終わります。47章13節から本章までに書かれているのは、新しいイスラエルでの相続地の割り当て地のこと。聖なる奉納地を中に挟み、北に七つの部族、南に五つの部族に相続地が割り当てられます。そして、聖なる奉納地の南側にあるすべての部族が共有する割り当て地の中に、町があり、そこには北、東、南、西に3つずつの門が開かれ、それぞれにはイスラエルの十二部族の名が伏されるというのです。この町の名前が「主はそこにおられる」です。

 エゼキエルは、どのような思いで終わりのことばを聞き、記したのでしょうか。エゼキエルが捕囚されていたのは25年間と考えられます。彼はエルサレムに帰還することはできずに、捕囚の地で生涯を終えました。けれども、捕囚の間折に触れて見た神からの幻、聞いたメッセージは、彼に、そして共にあった同胞に確かな希望を与えました。エルサレムから主の栄光が去るのを見たエゼキエルは、新しいエルサレムに主の栄光が満ちるのを見ました。そして終わりに、「主はそこにおられる」と名づけられた町の存在を確信するのです。

 自分の代では実現を見ないことを、次の世代、未来の世代に実現するとの希望を託することができるのは幸いです。


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