みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

メシアの詩篇

2022年03月31日 | 詩篇

詩篇 116−117篇

 「みことばの光」誌には、聖書箇所が116篇と書かれていますが、本日は117篇も読む計画になっています。二つの詩篇をお読みください。

 116篇からは、詩人が厳しい境遇の中でもがいている様子が伝わってきます。3節の「死の綱が私を取り巻き よみの恐怖が私を襲い 私は苦しみと悲しみの中にあった」がそのすべてを語っています。

 そのような彼が、「私は主を愛している」と最初に祈りの声を上げることに、心揺さぶられます。詩人にとって神が、自分が思い描く良いことを約束し、実現させてくれる相手だったとしたら、3節に歌われているようなことが起こったならば、とても「私は主を愛している」とは思えないし、言えないのではないかと思うのです。

 この詩篇は、過越の食事の折りに歌われたものの一つとされています。今私たちは受難節を過ごしています。最後の晩餐として知られているイエスと弟子たちとの食事の席でも、この詩篇が用いられたことでしょう。さらに、本篇には死への言及が三度あります。そうだとしたらなおさらのこと、厳しい境遇との中にある「私」と主イエスとの姿が重なります。

 117篇は最も短い詩篇です。そして、この短い詩篇で「ハレルヤ」を含めて「主をほめよ」ということばが三度用いられていることに気づきます。詩篇は歌です。何を歌うのかといったらそれは、主への賛美、「ハレルヤ」なのです。イエス・キリストによって、究極の歌である主への賛美が、本篇の作者に、そして私の口に与えられたことをありがたいと思いました。暗唱したい、暗唱できる詩篇です。


信頼せよ

2022年03月30日 | 詩篇

詩篇 115篇

 火曜日の午後帰宅しました。春に咲かせる木々は満開。植物は季節の変化を受け止めているのだなぁ、などと思いながら本篇を読みました。

 2節の「彼らの神は いったいどこにいるのか」ということばが目に留まります。

 あなたがたは神には力があると言うが本当にそうなのだろうか、神はあなたがたを助けると言うが本当にそうなのか、正義の神だと言うがそれならばなぜ、悪を行う者を懲らしめないのか…などの問いかけは、絶えず信仰者たちにあり、自分自身もそのような問いかけをするようなことがあります。「祈りすれど 手応えなく…」という聖歌の歌詞とメロディが浮かんできました。

 そのような問いかけを聞いた時に、本篇の作者のように「私たちの神は 天におられ、その望むところをことごとく行われる」と、確信をもって答えられるのだろうかと、問いかけている自分がいます。見た目には何も動いていないように思、えても、神はご自分の望むことを一つも漏らさずに行っておられると信じているかと問われます。

 9−11節には、そのような不安を知ってか、「主に信頼せよ」との命令が繰り返されます。この命令は、いつも、そして今のような時にはなおさらのこと信仰者が「はい、そのようにいたします」と応答すべきこと、受け止めるべきことなのです。

 本篇は、神への讃美で始まり讃美でくくられます。そのような一日を重ねて行きたいですね。


泉が湧き出た時

2022年03月29日 | 詩篇

詩篇 114篇

 しばらくの間ゼカリヤ書を読んできましたが、この時期にこの書を読むのはふさわしいことだったというのが、私の「読後感」です。昨日はスイス東部のあるご家庭で一緒に聖書を開きました。参加した皆さんが聖書を読んで発見したことに多くの気づきが与えられました。

 詩篇114篇は、神がイスラエルの民に何をされたのかの回顧から始まります。本篇の他にも詩篇やその他の書には、このような回顧が何度も記されています。

 1節の主語は神ではなくイスラエルですが、そこで歌われていることをしたのは彼らではなくて神なのです。「みことばの光」には、「イスラエルがエジプトから」ということばが聖書全体を貫く「救いのみわざ」を一言で表したことばとあります。

 このことばは「イスラエルが幼い頃、わたしは彼を愛し、エジプトからわたしの子を呼び出した」とのホセア書11章1節に受け継がれ、さらに「これは、主が預言者を通して、『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と語られたことばが成就するためであった」という、マタイの福音書2章15節へとつながります。

 マタイのことばは、ヘロデを避けてエジプトに行った幼子イエスが再び戻って来たという出来事を指しています。このように、神の子であるイスラエルの民の体験と御子イエスの体験が重なるのです。

 後に続く本篇の一つ一つのことばは、イスラエルの民がエジプトを出て荒野の旅をする中で体験したことです。そしてそれはまた、イエス・キリストによって罪の奴隷から解放されて約束の地を目指すキリスト者の歩みと重なります。

 神は私の歩みのいつ、どこで、堅い岩から泉を湧き出させてくださったのだろうかとしばし立ち止まってみました。あの時にあの場所で……と。


新しい時の始まり

2022年03月28日 | ゼカリヤ書

ゼカリヤ書 14章

 土曜日から月曜日までスイスを訪ねています。チューリッヒにある日本語教会の近くにはたくさんの桜が植えられており、礼拝前と後に「お花見」に行きました。満開の桜の下で記念撮影。

 ゼカリヤ書の終章には、主の日に起こるさまざまなことが描かれています。改めてこの書を振り返ってみますと、「その日」ということばがずっと並んでいたことに気づきます。「その日」「主の日」とはいつなのか、それは、ゼカリヤの時代でもなく、その前でもなく、イエスがこの世界に来られた頃でもなく、私たちが考える歴史上のあの時でもこの時でもありません。まだ来てはいないけれども、間違いなく訪れる時を指しています。それは、新約聖書に約束されているイエス・キリストが再びおいでになる時であり、それによってさまざまな出来事が起こる日のことです。

 その日、エルサレムはすべての国々に攻撃されます。エルサレムはゼカリヤの時代まですでに何度か包囲され攻撃されてきましたし、紀元70年にはローマ軍の激しい攻撃にさらされました。しかしここにあるのは、さらに未来に起こることです。主の足がオリーブ山の上に立つことによって山が二つに裂けて東西に大きな谷ができるなどの大きな変動が生じます。主である神が聖なる者たちを伴っておいでになります。その日には光も闇もなくなります。彼らの上を照らすのは太陽や月ではなく、神ご自身です。

 8―15節で描かれるのはエルサレムの祝福。これはメシアがこの世界においでになる時に実現されるもの。エルサレムからいのちの水が流れ出ること、エルサレムに諸国の民が主を礼拝するために集まることなどが語られます。一方で、エルサレムを攻撃する者たちの間は疫病に悩まされ、混乱も生じます。

 この世界は破滅に向かってまっしぐら……などと聖書は語りません。やがて来る「その日」は新しい時の始まりであり、世界はそこに向かって進んでいるのです。


持つべき嘆き

2022年03月26日 | ゼカリヤ書

ゼカリヤ書 12章

 月に一度の家庭での聖書の会。いつも一緒に聖書を読んだ後で主催者の方が用意してくださるお昼と、参加者が少しずつ持ち寄るものとをいただくのが楽しみなのですが、昨日は予定があって中座。残念でした。次回の楽しみといたしましょう。

 この章には、エルサレムが神によって劇的な救いにあずかること、「恵みと嘆願の霊」が注がれることとが語られています。ここに記されていることの一部は、すでにイスラエルの歴史において見られたことでもあるのですが、完全な成就はやがての時を待たなければならないのでしょう。

 力のない者、それどころではなく叩きつぶされそうにまでなっている者たちを神が助けるならば、彼らは守られ助けられるのです。8節の「その日、彼らの中のよろめき倒れる者もダビデのようになり、ダビデの家は神のようになって、彼らの先頭に立つ主の使いのようになる」ということばが目に留まりました。ローマ人への手紙8章31節の「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」というパウロのことばを思います。

 この章の後半には「嘆く」「泣く」ということばが連なります。しかも、激しく…。ここにある嘆きは、人が神の前に持つべき嘆き、涙です。なぜならこれらは、自分たちが神に背いていること、神を突き刺したことを悔い改めてのものだからです。世界は今、大きな嘆きの中にいます。しかしそれが「あの人々はかわいそうだ」「世の中はひどい」「何度ひどい仕打ちだ」という嘆きでとどまるのではなく、「主よ、わたしの罪を赦してください」という祈りに繋がるものでありたいと願うのです。

 「ひとよ、汝(な)が罪の 大いなるをなげき 悔いてなみだせよ…」(讃美歌21 294より)


2011-2024 © Hiroshi Yabuki