みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

身を避けるところ

2019年02月28日 | 詩篇

詩篇 57篇

 デスクワークが長く続くと、いつの間にか身体が前屈みになってきます。部屋にいて天井を見上げるということがほとんどないことに気づくのです。夕方近くの公園へ…。エビのように仰向けになることのできるアスレチックがあり、しばらく空を見上げていました。

 ダビデはこの時、エン・ゲディという場所の洞窟に身を潜めていました。エン・ゲディは死海東岸にあり、流れ落ちる滝があるオアシスのような場所。サムエル記第一24章1節のサウルへの報告には、「ダビデが今、エン・ゲディの荒野にいます」とあります。「サウルは三千人の精鋭を選り抜いて」と聖書は続けていますので、「私のたましいは 獅子たちの間で 人の子らを貪り食らう者の間で 横たわっています」とのダビデのことばからは、行き詰まってしまったとの思いも伝わってきます。洞窟から出たら、敵が待ち構えているのです。

 そのような事情の中で、「神は 恵みとまことを送ってくださいます」と、神に助けを求めています。本篇の1−6節と7節以降とでは全く雰囲気が異なるので、もとは二つの歌ではなかったかと考える向きもありますが、そうではありません。どのような中にあっても天を見上げる者の確信が伝わってきます。

 「私は暁を呼び覚まそう」ということばにも目が留まります。夜明けが人を目覚めさせるのですが、ここではダビデの神への賛美が、自分のたましいを呼び覚まし、ほめたたるるために用いる楽器を呼び覚まし、さらには暁さえも呼び覚まそうというのです。ひっそりと洞窟の奥に潜む中で、ダビデの心の中では神への力いっぱいの賛美が鳴り響いているのです。


何も恐れない

2019年02月27日 | 詩篇

詩篇 56篇

 ガテの人々にとってダビデは、わが町の英雄ゴリヤテを倒したにっくき相手です。ですから、この詩篇の背景になっているサムエル記第一21章11節以降には、ガテの王アキシュの家来たちが「この人は、彼の地の王ダビデではありませんか。皆が踊りながら、『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った』と言って歌っていたのは、この人のことではありませんか」と騒いだ様子が描かれています。

 ダビデはこのようなガテになぜ逃げ込まなければならなかったのでしょうか。サムエル記第一21章10節に、「ダビデはその日、ただちにサウルから逃れ、ガテの王アキシュのところに来た」とありますので、相当追詰められていたことがわかります。彼は、もうユダには逃げ場がないとみたのです。ですからこの時、ダビデはおかしくなったふりをして、窮地を脱出します。

 自分のいのちを守るためにこのようなことまでしなければならいというのは、ダビデにとってどんな思いだったのかと想像します。彼は自分のいのちのために何でもしたと言えます。それは、命乞いを…ということではありません。彼はここで、神の約束に信頼しているからこそ、何としてでも生き延びなければならなかったのです。

 そのような切羽詰まったダビデは、この詩篇で神への信頼を告白します。「神にあって 私はみことばをほめたたえます。 主にあって 私はみことばをほめたたえます」とのことばをおぼえます。きょうの「みことばの光」の黙想へのことばに、「信仰者にとって、困難や危機と神の御前とは、時に同義語である」とありました。目で見る現実が厳しければ厳しいほど、神の御前に自分がいると事実に気づくのです。


私の逃れ場に

2019年02月26日 | 詩篇

詩篇 55篇

 きのうは、温かな一日でした。公園や家々の庭には、花が咲き始め、木の芽が吹き出そうとしています。夕方の6時でもまだ明るく、夕焼けがとても美しく思わず立ち止って空を見上げました。

 この詩篇からの宣教を、神学校で学んでいる時にある教会でさせていただいたことを思い出しました。どのような内容の宣教だったかをもおぼえています。不思議ですね。

 本篇がどのような事情の中で作られたのかはわかりませんが、ダビデの生涯に重ねてみますと、わが子アブサロムのクーデターによって、いのちからがら裸足でオリーブ山を登った時のことを思います。あの時、アヒトフェルという知恵に優れた家臣がアブサロムの側についたので、ダビデの側は戦慄したのです。13ー14、20−21節にある「おまえ」「彼」が誰なのかを特定するのは難しいのですが、私にはこのアヒトフェルのように思えます。

 ダビデは苦しみの極みにあって、夕べに朝に、真昼に嘆きうめいています。彼の苦しみは止むことがないのです。けれども彼は、ひたすらに神に拠り頼みます。「私が神を呼ぶと 主は私を救ってくださる」ということばを心に留めます。

 お身体の具合がすぐれない主にある友からのメールの中に、「一番は、主の目がまどろまずに見ていてくださること」とありました。どこにいても、どのような状態であっても、神がじっとご覧になり、救ってくださるとの約束がどれほど有り難いことでしょうか。


神を前にする

2019年02月25日 | 詩篇

詩篇 54篇

 ドイツに短期留学していた方が3月に帰国するので、きのうが最後の礼拝。当地から60キロ近く離れた町から日曜日ごとに通っておられました。帰国したら「就活」とのこと。歓送の時に「わたしが行きたい進路よりも、神さまが導かれる進路へ…」と一言。祈っています!

 本篇も表題(新共同訳聖書では1、2節)が歌われた時の背景を伝えています。ジフ人がサウルにダビデの居場所を密告したのです。ジフはヘブロンの南にあり、ダビデの逃走経路を聖書地図でたどりますと、この時ダビデはサウルから逃れてユダの荒野を東西南北さまよい歩いていました。「イスラエルツアー」ならワクワクする道程ですが、いのちを狙われてひたすらに逃げるわけですので、ワクワクどころではありません。

 緊迫した事情の中で、ダビデは何を神に祈るのでしょうか。神の全能の力にひたすらすがって救ってほしいと祈ります。ダビデのことを密告したジフの人々を「見知らぬ者たち」とも言います。サウルから追われるだけでも必死なのに、知らない人々が自分のことを見張り立ち向かってくるというのですから、どんなにか恐ろしいことでしょう。そのような恐れから自分を守る術は、ただひたすらに神に拠り頼むこと。ダビデはそれを行うのです。

 5節と6節との間には、時間的な経過があると考えられます。神はダビデを大きな危機から救ってくださったのです。「私の目が敵を平然と眺めるようになった」ということばが目に留まります。*写真はマサダ(イスラエル)

 

 

 


神の恵みはいつもある

2019年02月23日 | 詩篇

詩篇 52篇

 「2月は逃げる」とはよく言ったもので、最後の土曜日になりました。まだだいじょうぶだと思っていたら、今月は28日まで。2月中に書類を送らなければならないことに気づいて、慌てて手続きをしました。

 「逃げる」といえば、この詩篇はダビデがサウルの手から逃げているという背景で歌われたものです。詩篇は順境のときだけに歌われるものではなくて、いのちの危機に際しても歌われているものが収められており、本篇もその一つです。「みことばの光」が書いているように、ダビデが「勇士よ」と呼びかけている相手は、悪を誇りとし、自分の栄達のためには人を欺くこともいといません。

 サムエル記第一21章7節、22章9節をたどりますと、エドム人ドエグが祭司アヒメレクがダビデに食糧とゴリヤテの剣を与えたのを目撃し、サウルに密告したとあります。そのためにアヒメレクを初めとする多くの祭司がドエグの手で殺されてしまうのです。

 悪に走るドエグに呼びかける「神の恵みはいつもある」ということばに目が留まります。なぜ、悪を謀り行なう相手に「勇士よ」と呼びかけ、「神の恵みはいつもある」と呼びかけるのでしょうか。彼への皮肉でしょうか。ドエグが聞いたら「神の恵みなどあるものか」とはね返されてきそうです。けれどもダビデは、悪を謀って物事を成し遂げようとする相手の行動を、自分への戒めとして受け止めているのではないでしょうか。

 「神の恵みは本当にいつもあるのか」という思いは、信仰者の中から湧き上がるのではないか、「いや、そうではない。神の恵みはいつもあるのだ」とことばにすることの大切さをつくづく思うのです。


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