みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

インマヌエル

2024年09月21日 | イザヤ書

イザヤ書 7章

 金曜日は月一度行われる家庭での聖書の会。昨日はルカ14章をいっしょに読みました。さまざまな感想が意見が出て活発な時でした。

 ところで、この家庭集会には私たちも含めて電車やバスを用いるのですが、乗るはずの電車もいわゆる「間引かれた」ので、別のルート使いました。乗り換えの電車にちょうどのタイミングで乗ることができたのですが、車内のモニタで確認すると、なんと50分近くも遅れていました。当地の鉄道はどうなっているのだろうかと、またまた思う時でした。

 イザヤ書7章は「インマヌエル預言」として知られています。インマヌエルとは「神が私たちとともにおられる」という意味です。そして、このことばは新約聖書マタイの福音書1章23節に、いいなずけの妻マリアの胎に男の子が宿ったのはイザヤ書7章の預言が成就したのだという神の使いのことばにあります。

 この預言は、紀元前700年代の後期南王国ユダのアハズ王にイザヤを通して届けられました。この時、アハズは大きな恐れの中にありました。2節に恐れの理由が明らかにされています。「アラムがエフライムと組んだ」との知らせでした。当時の超大国は東方のアッシリア。アッシリアの侵攻に備えて、エフライム(北王国イスラエル)とアラム(シリア)が手を組んだのです。

 エフライムはユダにもこの同盟に入るよう圧力をかけたのですが、ユダのアハズ王はアッシリアと組むことで北にある二つの国の圧力をはねのけ、さらにはアッシリアが攻め込んでこないはずと、考えました。

 しかし、主はイザヤによって、ユダ王国は北の二つの国から攻め込まれることはないとの約束を届け、しるしを約束し、信じるようにとアハズに迫ったのですが、彼は神に信頼しないであくまでもアッシリアに頼ろうとするのです。

 アハズが信じなかった、求めなかったそのしるしが「インマヌエル」なのです。「神がともにおられる」からアッシリアに頼るなとのメッセージを信じることができませんでした。

 何事かが自分の身の回りに起こった時、「神が私たちとともにおられる」という確かな約束のうえに立つことができのが真の幸いなのです。


遣わしてください

2024年09月20日 | イザヤ書

イザヤ書 6章

 癌を患っておられた方が、昨日神のみもとに召されたとの知らせが届きました。ある期間「みことばの光」の編集を一緒にさせていただき、ことばの美しさや重さを教えていただきました。神にある平安と慰めとが残されたご家族、そして教会にあるようにと祈ります。

 この章は、イザヤが預言者として神からの召命を賜わる箇所です。それはウジヤ王が死んだ年だったとありますので、紀元前740年のことです。ウジヤがなぜ死んだかについては、歴代誌第二26章に記されています。彼は王としての功績を挙げたのですが、本来祭司がすべき香を焚くということを、祭司の制止にもかかわらず行ったことゆえに、ツァラアトに冒され、死んでいきました。

 そのような背景の中で、イザヤがまず見たものは神の聖なる臨在でした。その時、イザヤが語ったのが5節。神の聖さの前に自分の汚れを知らされ、彼は滅びるしかないと絶望しました。神の前に人は自分の罪をいやでも知らされるのです。

 しかし、神はイザヤの罪を赦してくださいます。「唇の汚れた者」だと絶望したイザヤに、セラフィムは火ばさみで燃え盛る炭を取り、イザヤの口に触れたのです。罪が赦されたイザヤを、神は民のところに遣わされます。神のことばをその口で民に伝える預言者としての務めです。

 イザヤは「ここにわたしがおります。わたしを遣わしてください」と言いました。神の前での汚れにおののく彼が、罪を赦されて志したのは、「遣わしてください」ということでした。神が罪を赦すというのは、赦された者をご自分のために用いるためなのだということを、ここから改めて教えられます。

 しかし、その務めは簡単なものではありません。民がイザヤのことばを歓迎しないことを神は予め伝えられました。それでも彼は語ります。神が彼に幻を見せ、ことばを与えるかぎり…。


わざわいだ

2024年09月19日 | イザヤ書

イザヤ書 5章

 今週末にかけていろいろと準備すべきことがあり、室内ウォーキングで済まそうと思いましたが、バターを買いに行くということで、やはり外歩きをすることにしました。街路樹沿いの野薔薇(ばら)の盛りは過ぎましたが、まだ小さな花が咲いています。薔薇は長い間楽しませてくれるのですね。

 5章では、エルサレム・ユダに住む人々をぶどう畑にたとえ、収穫の時が来ても酸いぶどうができてしまったとして、主が彼らの悪行を一つ一つ挙げていかれます。

 3ー4節に目を留めます。主は彼らに、ぶどう畑の世話に何か落ち度があったのかと問うておられます。その問いかけの答えは分かりきっています。主はぶどう園の持ち主として為すべきことをしたのです。そこで主は、ぶどう畑を荒れ果てたままにすると言われます。これは、エルサレム・ユダが外敵の侵入によって荒らされる様子を語っています。

 7節はこのたとえの結論。ここでは、公正と流血、正義と悲鳴が対比されます。8節以降は、「わざわいだ」が繰り返されて彼らが流血と悲鳴という結論に至った悪事が暴かれていきます。

 隠れて行った巧みな悪事も、主の目にはすべて明らかなのだというのが、だれもが知るべき事実だと思います。「わざわいだ」に導かれてのさまざまな悪事、この中に人間が乗り越え解決できたものは一つもないということを、知らされます。

 「進化」ということばがさまざまな面で用いられています。新しいスマホには、AIが組み込まれているので長い文章を自分で要約する必要はない、自分がうまく表現できないことばを、並べるだけできちんとした文章にしてくれる、これは大きな進化だ! といった具体ですね。

 しかし、人の心は美しく常に善きこと、まっすぐなこと、愛することにのみ整えられているとは言い切ることはできないのだということを、「わざわいだ」の繰り返しから考えます。


主の若枝、地の果実

2024年09月18日 | イザヤ書

イザヤ書 4章

 火曜日はこれまでよりは少し空気が暖かになった気がしました。久しぶりの晴天。

 4章1節はこれまでのメッセージの終わりです。ここでは7人の女が一人の男にすがりついて願っています。結婚を願っているようです。ここには、シオンで着飾り高ぶっていた彼女たちのぼろぼろの姿が描かれます。3章18―23節に、女たちを飾っていたあらゆるものを主が取り除かれると言われていました。

 彼女たちにとって結婚は自分たちの恥辱を取り去ってもらうためのものでした。そこには結婚について神が持っておられるあるべきかたちは見られません。ここには、わずかな男と結婚するために焦りに焦る女たちの姿があるのです。

 しかし、イザヤの時代、人々はこのような厳しいメッセージにピンとくるということはありませんでした。それこそ、何があっても、エルサレムはだいじょうぶだと過信していたからです。しかし、これまでのさばきのメッセージは彼らの神への背きの結果なのです。

 しかし、2節からの景色は全く変わります。ここには主の若枝が登場します。2節に「若枝」「地の果実」とありますので、豊饒の約束かと考えられがちですが、2節や続く3節以降に書かれていることを考えるなら、神が遣わすメシアを指しているのは明らかです。「主の若枝」がメシアが神であること、「地の実」はメシアが人であることを表していると考えられます。

 神に背いた者たちの辿る道、そしてその末は荒廃。「恥辱を取り去ってください」と必死に叫ぶ女たちの姿に代表されます。彼女たちの姿は、神に背いた者たちが行き着く結末を象徴しています。それ自身に全く希望はないのです。

 希望は神が与えられる道、主の若枝、地の果実と呼ばれるメシアのみあることを、ここは読む者たちに伝えています。そして私たちはここで、隠れておられるイエス・キリストのお姿を見つけるのです。見つけることができるなら幸いです。


身につけるべきもの

2024年09月17日 | イザヤ書

イザヤ書 3章

 アジア系のスーパーで売られている羊羹が美味しいので購入。前回の時に残りわずかになっていましたが、今回購入したのでなくなってしまいました。私たちのちょっとしたブームだったのですが…。若い頃は羊羹は苦手だったのですが、今は好きな和菓子の一つになりました。

 3章ではエルサレム、ユダの無残な様子が描かれます。1節に、万軍の主、主はエルサレムとユダから支えと頼みになるものを除かれるとあり、そのあとに、除かれるもののリストがあげられます。

 パン、水という食料にはじまり、国を治め、守るために置かれているさまざまな力と知恵を持つ人々が除かれます。この中で目に留まるのは、「占い師」と「巧みにまじないをかける者」。これらはこの国は全く必要としない者たちなのです。神に聴こうとしない者たちは、このような安直な者を頼りにするようになるのです。

 「」に囲まれている4節から12節は、れは主がお語りになったことばであり、聴こうとしない者たちに神が何をなさるのかが語られています。イスラエルの君主は、何よりもまず神に聴く者です。しかし、彼らが取り除かれた今、気まぐれな者に国を託す以外にないところまで追い込まれているのです。

 交わりは壊れ、社会からも家庭からもあるべき秩序が失われます。このままではダメだと誰もが思っているのですが、解決のための策を講じることができません。

 13節に「主は論争するために立ち構え、もろもろの民をさばくために立たれる」とあります。イザヤ書は、最初から神が法廷に立って、ご自分の民を訴え、論じ合い、論争するという構図です。 神を恐れなくなると人は自分勝手なことを行います。しかし、やがて人は例外なく神のさばきの場に立つことになります。

 さらに、16−24節からは、身につけるべきものを脱ぎ、どうでも良いで身を飾るような生き方はやがて破綻するというメッセージが届きます。

 何によって自分を飾ろうとしているのだろうかと……。


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