みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

王として死す

2019年05月29日 | サムエル記第一

サムエル記第一 31章

 サムエルの誕生に始まったサムエル記第一は、サウルの死で終わります。最後の章にはサウルと息子たちがギルボア山の戦いに敗れて殺されることが書かれています。しかしここには、神のことばを聞こうとしないサウルではなくて、イスラエルの王として、勇士としての誇りを失わずに最期を迎えるサウルの姿が淡々と描かれています。

 前の日にサウルは、この日のペリシテ軍との戦いでいのちを落とすことを知りました。次の日に戦いでいのちを失うと聞かされたら、ある者はそのような危機を回避するために、夜陰(やいん)に紛れて遠くに逃げるかもしれません。けれども彼は立ち向かっていきました。攻撃はサウルに集中したとも書かれます。王を倒せば戦いは終わり。しかし彼は、聖書の後に出てくるだれかのように王であるのを知られないように変装などしません。王であるためにだけでなく、武将であったので攻撃は集中したのです。

 さらに、サウルは「あの無割礼の者たちやって来て…私をなぶり者に」しないために、自らでいのちを絶ちます。サウルだけでなく、ヨナタンもダビデも、ペリシテ人を「無割礼の者たち」と呼びました。サウルのイスラエルの王としての誇りのようなものをここからも見ることができます。

 サウルと息子たちの死体をヨルダン川の東のヤベシュ・ギルアデの人々が丁寧に葬って七日間断食したという描写からも、サウルへの彼らの思いが伝わってきます。サウルは最初の戦いでヤベシュ・ギルアデをアンモン人の手から救い出し、それを機にサウルは王として立てられたのです。ヤベシュ・ギルアデの人々はサウルが自分たちがしてくれたことを忘れることなく、最後までイスラエルの王として遇し葬ったと言えます。

 それとともに、イスラエルの王になくてならないあり方とは何なのかを、改めてサウルの死の記事を読みつつ覚えるのです。


しかし、主によって奮い立った

2019年05月28日 | サムエル記第一

サムエル記第一 30章

 薔薇の美しい頃です。近所を歩くと庭先に色とりどりの薔薇が…。道路沿いには野薔薇が植えられているので、今は周り中に薔薇が見えます。

 ツィケラグは、元々はユダ部族への割当地でしたが後(のち)にはペリシテの支配下になり、さらにペリシテのガテの王アキシュがダビデに与えた町です。ダビデはペリシテの諸王の猛反対でイスラエルとの戦いにペリシテ側として出陣することを免れ、この町に戻って来ました。

 ところがアマレク人に襲われて、町は焼き払われ、ダビデの妻をはじめ女たちや子どもたちが連れ去られてしまったのです。この時にダビデがどのようであったかは6節に明らかです。

 「ダビデは大変な苦境に立たされた」ということばが心に留まります。この時ダビデは、自分の妻たちが連れ去られたということだけでなく、自分について来てくれた兵たちにいのちを取られるかもしれないという危機の中にいたのです。兵士たちはこれまで、ダビデを信頼してついて来ました。家族も一緒に…。けれども家族が連れ去られたこの時に持って行きようのない悲しみと怒りを、ダビデにぶつけたのです。

 踏ん張りどころの彼は、同じ6節の後半のことばによると、「しかし、ダビデは自分の神、主によって奮い立った」のです。ダビデは神に聞いてペリシテに逃れたのではありませんでした。ダビデがアキシュの元にいたときも、嘘を重ねてきました。この間ダビデが神に聞いたということも神がダビデにお語りになったということも、聖書は記しません。神は黙っておられたのです。

 ダビデは安堵しながらツィケラグに戻ったのではないかと想像します。けれども神は、ダビデにツィケラグで試練を用意しておられました。それは、彼が再び神との結びつきを生きたものにするための試練だったと思うのです。

 ダビデは、大変な苦境の中で神とのつながりを回復することが許されました。じつはダビデにとっての大変な苦境とは、神との結びつきを欠いていたことなのだ、と思わされます。


回避

2019年05月27日 | サムエル記第一

サムエル記第一 29章

 ある青年が着ていたTシャツです。有名なケチャップのラベルがこんなふうになるのですね。

 ガテの王アキシュとともに、イスラエルとの戦いに出て行かなければならないという事態に直面したダビデ。「さあ!」と言う時にダビデに救いの手が差し伸べられました。ペリシテのほかの領主たちがダビデを戦いに連れて行くことに強硬に反対したのです。ダビデが策を講じたのではないところに、神がなさったという思いがします。

 ダビデは、サウルから逃れるために自分の身をガテの王ラキシュに預けようとした時、神に祈り求めたとは聖書は書いていません。おそれゆえに自分で判断したことだったのでしょう。だから、ラキシュが一緒にイスラエルとの戦いに行ってほしいと促した時には、はっきりしないことばで答えたのです(28章2節)。

 ここには、ダビデは神に願い求めたということもありませんし、神がダビデに語られたということも書かれていません。ラキシュと一緒にイスラエルと戦っているペリシテの領主たちがダビデを危険視したことがきっかけです。それとともに、ここには見えない神のみわざが隠されているのもよくわかります。

 沈黙しておられると思うような時にも、神は人を用いて、ご自分の側にいない人をさえ用いて、神の子どもを守ってくださるのだということをここから教えられます。


確信と恐れとが…

2019年05月25日 | サムエル記第一

サムエル記第一 27章

 「不完全なダビデを聖書が描いてくれてホッとする」というようなことばを伺ったことがあります。ダビデに限らず、聖書に登場するさまざまな人物のほとんどは、何らかの欠けを持っています。どんなに神がお用いになったいわゆる「信仰の人」と言われるような人であっても、聖書はそのままに描き、美化しようとはしていません。「だから自分も罪を犯してもよい」という結論にならないのはもちろんのことす。

 この章の初めのことばが心に残ります。「私はいつか、今にサウルの手によって滅ぼされるだろう。」前の章では「主は生きておられる。主は必ず彼(サウル)を打たれる。時が来て死ぬか、戦いに下った時に滅びるかだ」と、また「主は私のいのちを大切にして、すべての苦難から私を救い出してくださいます」と言っているにもかかわらず、です。

 そこでダビデは、「ほかに道はない」として、サウルと戦っている敵に逃れて身の安全を図ろうとしたのです。確かに、もうサウルはダビデを追うことがありません。どんなにか安堵したことでしょうか。ところが、このことがダビデを窮地に追いやることになるのです。ダビデはアキシュを偽って自分たちの安全を確保します。けれども、このような小手先がいつまでも通用はしません。そんなことはだれよりもダビデが知っていたことでしょう。

 気になるのは、このあたりではダビデが主に伺い、主のことばを聞いて物事を判断し進もうとしてはいないということです。一度神のことばを聞き、神が自分に最善の道を用意してくださったので、そのような体験が元になって、ダビデは主に聞くことをしないでペリシテに身を寄せたのでしょうか。

 確信と隣り合わせの恐れ…、これはダビデばかりでなく神に信頼して歩もうとしているだれもが経験すること。だからこそ、いつもいつも神に拠り頼みつつ進むのだと教えられます。


隔りは埋まらずに

2019年05月24日 | サムエル記第一

サムエル記第一 26章

 安定しない天候が続いた当地もようやく暖かくなり、目抜き通りでは半袖姿の人を多く見かけました。一昨日近くの川の源流地点まで行ったと書きましたが、帰り道は雷雨と共に土砂降り。こちらでも雨の降り方はずいぶんと乱暴になったように思われます。

 サウルが追い、ダビデが逃げるという構図が21章以降ずっと続いています。本章には、一気に形勢を逆転するような二度目の好機が訪れた時、ダビデが何をしたのかが書かれています。ここに描かれているのは、24章での出来事とよく似ています。サウルを手にかけるチャンスをダビデはどちらもあきらめます。ダビデがサウルやサウルを守る重臣たちに声をかけて、神が何をお望みになるのかを伝えます。それを聞いたサウルは大変に感動して、自分が間違ったことをしたと言います。

 それならば、二人は同じ道を歩んだのかというとそうではなくて、この章の最後には「ダビデは自分の道を行き、サウルは自分のところへ帰って行った」とあります。特に、サウルがダビデにかけたことばからは、彼の孤独がにじみ出ています。ダビデが自分のことを「一匹の蚤(のみ)」だと譬えたことに、感動しています。ダビデのことばがサウルの自尊心をくすぐった(もちろん、ダビデはサウルにおべっかを使ったわけではありません)のではないかとも考えるのです。

 ここでサウルは、自分のいのちを守ってくれたダビデの善意に感動するだけではなくて、そのような行動へとダビデを動かされた神に目を留めることが求められていたのですが、できませんでした。神の厳しさを体験して、神から遠くに自分を置いていたからなのでしょうか。

 サウルは神に戻る最後の機会を逃したと、このやりとりを見ることができます。ダビデとの隔りでなく、神との隔りをサウルは埋めることをしなかったのです。悲しい結末です。


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