創世記 35章
ほぼ8年ぶりに、福島県南相馬市の教会を訪ね、一緒に聖書を味わいました。その日は使徒の働き2章をそれぞれが読み、20分間黙想したあとで心に留まった聖書、考えたことなどを分かち合い祈った後で、美味しいお昼をご馳走になりました。
ディナが辱められるという出来事を発端として、大きな事件を犯したヤコブの子どもたちでしたが、主はそれに対して何も語ってはいません。また、ヤコブは息子たちがしたことを責めるでもなく、ねぎらうでもなく驚くほど消極的な姿勢でいました。
しかし、この章ではヤコブの積極的な姿勢が目に留まります。神がヤコブに具体的にお語りになったからではないかと、私は考えました。その前の「事件」では静かにしていた彼は、ここでは皆を導こうとしています。
それは、ヤコブの心情のムラなどということで片づけられないことだと思います。ここでヤコブは、神が具体的にこれから先のことを支持されたゆえに、それに従い、家族にそしてともに歩む人々に具体的な指示を与えています。
神が語られるから動き出す、そうでなければ沈黙を保つというあり方は、私たちも倣(なら)うべきものではないかとここから考えました。