みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

ベテルへ

2023年04月29日 | 創世記

創世記 35章

 ほぼ8年ぶりに、福島県南相馬市の教会を訪ね、一緒に聖書を味わいました。その日は使徒の働き2章をそれぞれが読み、20分間黙想したあとで心に留まった聖書、考えたことなどを分かち合い祈った後で、美味しいお昼をご馳走になりました。

 ディナが辱められるという出来事を発端として、大きな事件を犯したヤコブの子どもたちでしたが、主はそれに対して何も語ってはいません。また、ヤコブは息子たちがしたことを責めるでもなく、ねぎらうでもなく驚くほど消極的な姿勢でいました。

 しかし、この章ではヤコブの積極的な姿勢が目に留まります。神がヤコブに具体的にお語りになったからではないかと、私は考えました。その前の「事件」では静かにしていた彼は、ここでは皆を導こうとしています。

 それは、ヤコブの心情のムラなどということで片づけられないことだと思います。ここでヤコブは、神が具体的にこれから先のことを支持されたゆえに、それに従い、家族にそしてともに歩む人々に具体的な指示を与えています。

 神が語られるから動き出す、そうでなければ沈黙を保つというあり方は、私たちも倣(なら)うべきものではないかとここから考えました。


大事の時に

2023年04月28日 | 創世記

創世記 34章18−31節

 木曜日夕方、孫たちの家に友だちが来て、一緒に遊んでいました。今どきの子どもたちはゲームを…などと決めつけやすいのですが、彼らは駐車場でスケートボードで遊び、草むらでカメムシを見つけ……と楽しそうでした。夕方5時を知らせるオルゴールが響くと、サッと家に帰って行くなど、びっくりしました。

 妹が辱めを受けた兄たちは、ハモルの息子に割礼を条件に一つの民になることを提案しました。ディナを愛するハモルの息子シェケムは、二つ返事で受け入れ、町に住む男子は割礼を受けます。その痛みが残る時に乗じて、ヤコブの息子たちはその町の男たちをすべて殺すのです。

 何もそこまでしなくても……と多くの人が思うような出来事です。息子たちによる残虐な行為に、父ヤコブが「私に困ったことをしてくれて……」と言っただけ。息子たちを激怒するでもない、あるいは息子たちをねぎらうわけでもありません。

 そんなヤコブに、息子たちは、「私たちの妹が遊女のように扱われてもよいのですか」と詰め寄ります。父はディナを愛していないと彼らは考えました。「私に困ったことを…」ということばに、ヤコブが自分のことだけしか考えていないことが表れます。

 大事の時に何を思い、何を語るか、大切なことです。


してはならないことが起こった時

2023年04月27日 | 創世記

創世記 34章1−17節

 雨の水曜日。久しぶりにシトシトと降る雨を体験しました。夕方には雨も上がり、西の空がまぶしく輝いています。

 エサウとの再会そして別れの後、創世記は次のステップを踏みます。事件の場所はシェケム。エサウと再会したペヌエルからヨルダン川を渡り、後のサマリア地方に位置します。事の発端は、ヤコブがシェケムの町の手前で宿営し、天幕を張った一画をその地のハモルの息子たちから買ったことにありました。

 シェケムはかつてヤコブの祖父アブラハムが、神の約束を信じてハランを出て旅をし、約束の地に着いた場所であり、神はそこでアブラハムに「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える」と約束された所でした。そしてアブラハムはここに祭壇を築きます。このことは創世記12章4−7節にあります。ですから、ヤコブは祖父と同じ道筋を通ったのです。

 ここで、ヤコブとレアとの間の娘ディナはハモルの息子たちの一人シェケムから辱められてしまいます。7節の「このようなことは、してはならないことである」ということばが心に留まります。ヤコブはカナンに戻りました。しかしそこには、すでに別の民族が居を構え、生きていたのです。キリスト者が生きている現代も、「してはならないこと」が普通に起こる社会なのです。

 事件に対しての二つの態度は対照的。ヤコブはディナが辱められたと聞きながら、息子が戻って来るまで黙っていました。一方ヤコブの息子たちは、心を痛め、激しく怒ったのです。ヤコブの沈黙の理由について、「みことばの光」はディナの母レアをヤコブが大切にしていないから、または、その地の人々とことを荒立てたくない思いがあったのかもしれないと書きます。

 「してはならないこと」が起こった時、家長であるヤコブがなぜ黙っているのかという不思議が、この後の展開に影響を与えます。


再会、そしてそれぞれの道へ

2023年04月26日 | 創世記

創世記 33章

 夜のお客様に苺をいただきました。「ジャム用」だと言っていましたが、甘くて美味。生食用として何ら問題ありません。ジャムにする前に無くなってしまうかもしれません。

 兄弟再会の場面。ペヌエルの体験がヤコブを変えたのは、「ヤコブは自ら彼らの先に立って進んだ。彼は兄に近づくまで、七回ひれ伏した」という3節のことばに込められていると思います。

 もうエサウから逃げ回るヤコブではありません。自分が一番後にではなく、先に立って歩みます。彼はこの時に何を為すべきなのかをわきまえています。彼は明らかに変えられたのです。それは、20年にわたって苦労してきたことの結果というよりも、危機に際して神が彼のところを訪ねてくださったということによるものだと考えられます。

 ここで、エサウは弟ヤコブを温かく迎えています。長い年月が彼をいわゆる「柔らかい人間」にしたのでしょうか。むしろ、エサウも神からの働きかけを体験したのではないだろうかと考えます。エサウが走り寄ってヤコブと抱き合うのは感動的です。

 しかし、二人の20年ぶりの再会は、また、別れの時でもありました。いっしょに行こうというエサウの提案を、ヤコブは丁重に断ります。それは、エサウとはいっしょにいたくないという彼の個人的な思いから出ているのではなく、神が与えられた命令や約束を重んじたことによるものです。二人はそれぞれの道を歩み出すのです。


格闘するヤコブ

2023年04月25日 | 創世記

創世記 32章13−32節

 月曜日は「みことばの光」執筆者のための講習会。「ともに働く」という思いを新たにすることができました。帰路の電車は25分遅れでしたが、最寄り駅に着いた時には45分の遅れになっていました。乗り換えのバスもぎゅうぎゅう詰め。人の波に呑み込まれそうでした。

 ここにあるのは、ヤコブが神と個人的に会う三度目の出来事。昨日の本欄で書きましたが、彼はエサウの怒りを避けて伯父ラバンのもとに向かう途中で「ベテル」の経験をし、その20年後にラバンのところから父イサクの元に戻る途中で「マハナイム」の経験をします。そして、「エサウ対策」を講じて一人で川のこちら側にとどまった彼は、「ペヌエル」(神の顔)の経験をするのです。

 ヤコブは神に自分のありのままを祈ったように、心からエサウとの再会を恐れていました。20年の年月が二人の間を取り持つなどということを彼は期待していませんでした。むしろ断絶の溝はさらに深くなっているようにさえ思えたことでしょう。そこでヤコブは、エサウの憤りを少しでも和らげようとして、多くの贈り物を用意させ、エサウに言うべきことばをしもべたちに託しました。

 21節が心に留まります。「こうして贈り物は彼より先に渡って行ったが、彼自身は、その夜、宿営にとどまった。」彼はなぜ一人川を渡らないままだったのでしょうか。エサウからの危害を恐れたのでしょうか。あるいはそうだったのかもしれません。

 いやむしろ、彼は一人になって神との格闘を待ち望んでいたのではないか、とも考えるのです。ベテル、マハナイムと、神は自分のことを覚え、自ら会ってくださったのならば、今夜も神はそうなさるはずだとの思いが心を満たしていたようにも読めます。

 彼はこの時、神なしでは前に進めなかったのです。

 一人で神の前に出るように、神は会ってくださる……が、ここでのメッセージです。


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