みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

聞こうとしなかった

2023年08月31日 | 士師記

士師記 20章1−16節

 「みことばの光」11月号の編集が大詰め。「読者のページ」への投稿がなく、どうしようかと思案していましたら、ぴったりのタイミングで「士師記」を読んでのご感想を送ってくださいました。とても勇気づけられました。

 側女を殺されたレビ人の訴えを受けて、イスラエルはミツパに集まりました。ここはギブアから遠くないベニヤミン族の町です。そこで、レビ人から事情を聞いた彼らは、ベニヤミンのギブアに向かいます。ベニヤミン族もギブアに向かいました。イスラエルは悪を行った者を引き渡すよう求めましたが、ベニヤミン族は拒みます。そのために戦いが始まります。

 13節に「ベニヤミン族は、自分たちの同胞イスラエルの子らの言うことを聞こうとしなかった」とあります。イスラエルの提案はもっともなものでしたが、拒絶をしたのはなぜなのだろうと考えます。誰かが述べる「正論」に耳を傾け入れ入れずに、反発するのはなぜなのかと思います。

 相手が正しいのに反発するというのは、今でもよくあると思います。素直に言うことを聞いていたらよかったのに、なぜあの時に心を頑なにしたのだろうかと振り返る人は、決して少なくないと思います。このようなことを考えているなかで、やはり「それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた」という17章6節のことばを思います。

 大切なのは正しいかそうでないかでなく、自分にとって良いか悪いかなのだというのは、ずっと神を恐れないで歩む「罪人(つみびと)」の姿なのです。相手に耳を傾けるのでなく、自分の主張を分かってほしいなどという姿勢も「自分中心」ゆえのこと。今は、それが上手に、もっともらしく社会の中に浸透しているのではないでしょうか。


同胞なのに

2023年08月30日 | 士師記

士師記 19章

 スイス東部の町から休憩を含めておよそ5時間で無事帰宅しました。途中眠くなりましたが、ちょうど良いタイミングでコーヒー休みを取ることができて、眠気が覚めました!

 士師記17−21章には、士師たちは登場しません。しかし、ここには士師の時代がどのようなものだったのかが明らかにされます。それは「闇の時代」と言えるものでした。

 17、18章にあったように、19章にも「イスラエルに王がいなかった時代」ということばがあります。ここから推察できるのは、士師記は王の時代の著者が王がいなかった時代を振り返っているということです。しかし、このことばはどんなにひどい者であっても、王がいればそれで良いということを伝えたいのではありません。士師記の作者が生きていた時代には、王が国を良く治めていたということも想像することができます。

 17章6節には「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた」とあります。王がいなくても、イスラエルには神がおられるから問題がないのではないかというような「突っ込み」も聞こえてきそうですが、やはり、神を恐れる指導者の必要が、この章に描かれる惨事を通しても読者に語られます。19章の登場人物だれもが、自分の目に良いと見えることを行っているのです。

 「自分の目に良い」とは今なら、それで良いではないか! どこが間違っているの? と言われるようなことです。多くの人がそのように生きています。しかしそのような姿勢が、弱い立場にある人のいのちを奪うのだとここに書かれています。

 レビ人は日が暮れて、エブス人の地にではなく、同胞ベニヤミンの町ギブアで一晩を過ごすことにしました。しかし、これが悲劇に通じます。ここに登場する人々はどこかちぐはぐな印象とここを読んで思ったのです。


王がいなかった

2023年08月29日 | 士師記

士師記 18章

 雨の月曜日、日本で長い間宣教師として働かれた方を訪ねました。驚いたのは、私たちのことを覚えておられ、日本語でいっしょうけんめい話をしようとしておらたことです。心くばりも日本人のよう、いや、日本人以上でした。

 「そのころ、イスラエルには王がいなかった」で、本章は始まります。前章に登場したミカの家、ミカに「雇われた」祭司が、ダン族の割り当て地奪還に巻き込まれます。ダン族はヨシュアの時代に相続地を割り当てられていました。しかし、その地はペリシテ人を追い払うことによって割り当ての地として自分たちの者になるものでした。

 ところが、ダン部族には力が、いや、神に信頼して前に進むという姿勢に欠けていました。そこで彼らは別の所に映ってそこを自分たちの土地とすることを決めました。聖書の地図で確認してみますと、彼らは当初割り当てられていた地からずいぶん北に移り住もうとしたことが分かります。後にイスラエルを指すものとして「ダンからベエル・シェバ」と呼ばれるのは、士師記の時代にダン部族が移り住んだことによるものです。

 そして、彼らの「移住作戦」にミカや祭司が絡みます。ダン部族の偵察隊がミカの家を訪ね、祭司がいることを知り、自分たちの作戦が成功するかどうか、神に伺ってほしいと頼みます。6節に「安心して行きなさい。あなたがたのしている旅は、主がお認めになっています」とあります。

 「にわか祭司」が果たして神に伺ったかどうかはここには何も記されません。もしかしたら、彼は相手が喜ぶことばを伝えようとしたのかもしれません。祭司や偶像を勝利のために奪うダンの者たちといい、神に聞かずに神の名によって安直な約束を伝える祭司といい、自分のために好き放題をする者たちがここに並びます。


自分の目に良いこと

2023年08月28日 | 士師記

士師記 17章

 スイスを訪ねています。ちょうど土曜日から天候が変わり、気温もぐっと下がったそうです。前にも書きましたが、こちらは木の葉の色が秋の到来をより感じさせます。

 17章から後は、士師記では付録の部分だと考えられています。士師が登場しないのが理由です。この箇所には、ミカというエフライム部族の人物とその家族のことが書かれています。ここを読んでいて「おやっ」と思う方は少なくないのではないでしょうか。

 まずミカが母親に、銀1100枚を盗んだことを告白します。ミカは、母親が銀が盗まれた時にのろいの誓いをしたことを恐れて、自分のしたことを告白したのかもしれません。それを聞いた母親は「主が私の息子を祝福されますように」と言います。

 のろいと祝福とは対極にある事柄です。母親は息子が正直に盗みを告白し返したことで、息子のために祝福を主に願ったのでしょう。しかし、盗んだ息子が何のとがめを受けることがなかったこと、母が戻って来た銀の一部を使って偶像を造らせたことに、これで良いのかという疑問が湧いてきます。

 さらに、ミカの家に神の宮があり、祭司が身に着けるエポデやテラフィムを作って、息子を祭司とするなどはあってはならないことでした。そして、出会ったレビ人を祭司にしたことも、そのようにした自分を「主が幸せにしてくださった」と考えるなどということは、かなりずれています。

 そんなゆがみについて、士師記は「自分の目に良いと見えることを行っていた」と説明します。そんな6節のことばを繰り返し声を出して読んでいるうちに、この今の世界についても、このように言えるのだということに気づくのです。


力の秘密

2023年08月26日 | 士師記

士師記 16章1−22節

 今日から火曜日までスイスを訪ねます。今回も一緒に聖書に聴き、祈り合えることを楽しみにしています。

 イスラエルに強い圧力をかけ続けていたペリシテ人の地を一人で訪ねるサムエルの姿は、ペリシテ人たちにとって脅威でした。1節は、さらっと読みすぎてしまうような箇所ですが、ちょっと立ち止まってみましょう。彼は、自分がナジル人として、ペリシテ人を混乱させるためにいるのを前面に出すことなく、自分の興味や関心、欲望のままに行動しています。ガザに行ったのは、遊女と関係を持つため。ガザの人々はサムソンを殺そうと一晩中鳴りを潜めているのですが、そんな彼らの策略をあざ笑うように、サムソンは持ち前の怪力を彼らの前で「披露」して圧倒してしまいます。「かっこいい!」場面かもしれません。

 しかし、そんなサムソンにも危機が訪れます。デリラとの出会いです。デリラはサムソンにとってそれほど魅力に満ちた女性だったのでしょう。サムソンがデリラを愛したことを、ペリシテ人の領主たちはチャンスと考え、デリラを用いてサムソンの力の源を聞き出そうとしました。そうすれば、サムソンなど怖くありません。

 デリラとサムソンとのやりとりが繰り返されますが、ここにはサムソンのデリラへ一途な思いもにじみ出ています。サムソンは自分の力が髪の毛が剃り落とされていないことにあると信じていましたので、デリラへの一つ一つの答えも、弓の弦、綱、そして髪の毛と核心へと近づいていきます。人が罪に誘われる時のやり方はこのようなものだと考えさせられます。そしてついに、彼は自分でずっと考えていた怪力の秘密を打ち明けます。そして、彼は捕らえられ目をえぐり取られてしまいます。

 20節を読むと、彼の怪力の秘密は髪の毛にあったのではなくて、主が彼とともにおられたことにあることが分かります。それでは、22節をどう説明するのでしょうか。このことばは、サムソンが主なる神とのつながりの中にいるようになったということを象徴しているのです。


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