みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

聖所での務め

2017年11月09日 | エゼキエル書

エゼキエル書 44章1−14節

 エゼキエルが見た神殿の東の門は閉じたままにしておくようにと、主はエゼキエルに言われました。理由は、「イスラエルの神、主がそこから入ったから」というものです。ただし、君主だけは主の前でパンを食べるために、通ることが赦されたのです。「パンを食べる」というのは食欲を満たすためのものではなく、神に供えられたパンを食べるという儀式的なものです。本来祭司がする務めを、この幻では君主がすることになっています。

 次に、主はエゼキエルに反逆のイスラエルの家に告げるべきことばを授けます。それは、神殿での務めに割礼を受けない者たちを就かせてはならないということです。これはおそらく、エルサレムがバビロンによって破壊される原因の一つになっていた祭司たちの罪を指しているのです。割礼を受けていなかった外国人は、神殿の下働きのようなものをさせられていたようです。このことについて「みことばの光」は、「この程度の仕事なら外国人に任せればいい」との思いが祭司たちにあったと説きます。

 神の聖さの前に、いい加減な姿勢でいることへの戒めとしてこの箇所を受け取ることができると思います。この神殿の中央にある祭壇は、新約聖書の光に照らすならば、すべての罪人のためのささげ物となったイエス・キリストの十字架を象徴しています。そして、イエスをメシヤだと信じる人は、誰もが罪を赦され、聖い者とされて神に仕えることができるのです。ユダヤ人とか異邦人とかの区別はありません。

 しかし、それはきよい神に仕える者が「何でもあり」であってはならないということも忘れてはならないのだと促しているのではないかと、これらのことばが響きます。きよい神の前に生きる、歩むとはどのようなことなのだろうかと、心探られる箇所です。


2011-2024 © Hiroshi Yabuki