みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

未練があるから

2019年07月31日 | マタイの福音書

マタイの福音書 22章23−33節

 昨日は、遠路おいでくださった方と近郊の小さな街を訪ねました。木組みの家並が残る旧市街地は、迷い歩きを楽しめる場所。小さな路地を抜けると、さっき通った路に出ます。アイスクリームで暑さをしばし忘れてから、空港までお送りしました。

 街歩きで道に迷うのはむしろ楽しみの一つかもしれませんが、人生ではそうはいきません。ここでイエスに問答を仕掛けているのはサドカイ人たちです。彼らは復活はないと言っていました。そんな彼らは、「復活の際には…」と尋ねるのですから、不誠実な質問だと言えます。

 それはまた、彼らがこの地上の繁栄や栄達のみに生きがいを見いだしていることも明らかにしています。復活などあるはずがなくこの世がすべてなのです。しかし、イエスの答えは彼らのそのような身勝手な妄想を打ち砕きます。「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」ということばがそれです。

 神のこのことばは、アブラハムもイサクもヤコブもいなくなったのではないことを明らかにしています。これこそ、サドカイ人たちの考えを砕くものです。

 イエスは「思い違い」「聖書も神の力も知らない」と彼らに言われました。人の勝手な思い違いを正すのは神のことばなのだと思わされます。永遠とは比べものにならない地上の人生に未練を残すならば、生きるか死ぬかという大切な真理を曇らせ見えなくしてしまうのです。


見抜いて語る

2019年07月30日 | マタイの福音書

マタイの福音書 22章15−22節

 きのうは日本から訪ねてくださった方々と、街歩きをしました。そのために電車に乗ったのですが、行き先は同じなのですが、路線番号を間違えて乗り、結局40分ほど遅れて目的地に着きました。遠回りでした。

 22章15節以降には問答が記録されています。第一の問いかけは、パリサイ人たちとヘロデ党の者からなされました。多くの方に知られている「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」というイエスのことばは、この問答の中から出てきました。

 この問答の発端は、パリサイ人たちがイエスをことばの罠にかけようとしたことに始まりました。ことばの罠とは何でしょうか。どちらと答えても、イエスの信頼や評判が落ちてしまうような問いかけをしたことです。罠にかけようとする彼らの心の中にある思い、しかしそれは、イエスにはまったく通用しませんでした。それは、イエスが彼らの悪意を見抜かれたからです。

 人は良いことでも、ここに登場するパリサイ人のように悪いことでも、さまざまなことを考え、心の中で企てたことについて、私たちの主イエスがすべてを見抜かれるのです。見抜かれているお方が私たちと一緒に歩んでくださるのですから、クリスチャンとしてはこれほど心強いことはありません。

 イエスが見抜かれるお方なのだという事実を、まず私が受け入れなければならないと学びます。


婚礼の礼服

2019年07月29日 | マタイの福音書

マタイの福音書 22章1−14節

 五日ぶりに戻って来ましたら、空気がヒンヤリとしています。金曜日までは酷暑だったそうです。

 「みことばの光」はマタイの福音書に戻ってきました。「イエスは彼らに対し、再びたとえを持って話された」ということばから、22章は始まります。このたとえを聞いている「彼ら」とは、主イエスに敵対する祭司長たちとパリサイ人たちのことです。この人々は、イエスのたとえを聞いて、主イエスを捕えようとしたのです。

 再びたとえをもって話されたこの話は、「天の御国に招く王である神の熱心」を生き生きと描いてます。このたとえでの「王」とは神のこと、王の息子の結婚披露宴に招待された客とはここでイエスのたとえを聞いている祭司長とパリサイ人、さらにユダヤ人を指しています。

 王がしもべを招待したにもかかわらず、招待された者はなぜ王の招待を無視しのだろうか…。王の招待とは無視するようなことだったのでしょうか。王の招待など知ったことかとばかり、招待者は自分のことに夢中になっています。そればかりか、王が遣わしたしもべを殺してしまう者さえいたのです。無視どころか明らかな敵対行為です。

 この話を律法学者たちはどのような思いで聞いたのでしょう。

 たとえの後半で王は、誰でも良いから大通りで出会った人々を皆連れて来るようにとしもべたちに命じます。急に招かれた人々に王は、婚礼にふさわしい礼服を用意してこれを着るようにと招いたのですが、けれども、礼服を着ないで披露宴に入ってきた人は外の暗闇に放り出されてしまいます。

 この婚礼には礼服が必要です。その礼服を身にまとった人だけが披露宴に入ることができるということを思います。ガラテヤ人への手紙3章27節には「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです」ということばがあります。

 神はすべての人のために、身にまとうべきキリストをお与えになったのです。


心が探られる

2019年07月27日 | サムエル記第二

サムエル記第二 14章1−17節

 ルーマニアで開催されている「ヨーロッパキリスト者の集い」は三日目。200名ほどの方々が欧州各地、日本などから集っています。「解放」というテーマを証言や講演から一緒に考えます。持参した聖書同盟発行の書籍があっという間に完売しました。

 ダビデ王の軍事面での最高責任者ヨアブは、ダビデ王とアブサロムとの関係がこのままでは、イスラエルにとって良くないと考えていました。そして二人が再び会うタイミングを窺(うかが)っていたのです。そのようなヨアブですから、ダビデのそばにいる者として、王の心が逃げて行った息子に傾いているのを見逃すはずはありません。

 彼は知恵のある女性をダビデのもとに遣わすのです。すでにこの出来事がどのように展開するのかをすでに知っている私たちにとっては、テコアの女性の訴えは、見え透いているのように思えます。しかし、女性の話はダビデの心をを強く突いたのです。

 「言いなさい」とのダビデのことばに目が留まります。何か大きな問題が生じた時の、誰かからの話やアドバイスは大変ありがたいことです。神は語る方、そして私たちは聞く者たちです。それはダビデと知恵ある女性との対話のように…。

 耳を傾ける勇気を持ちたいと、心から願う者です。


沈黙の意味

2019年07月26日 | サムエル記第二

サムエル記第二 13章20−39節

 アブサロムは妹のタマルが異母兄アムノンに辱められたことについて、沈黙しました。この沈黙は何を意味していたのかを考えますと、彼はもちろんアムノンを赦せるはずはありません。彼はアムノンへの憎しみを募らせていったのです。

 人のした悪にどのように対処するのか、当然当事者は怒りを覚えます。法の支配に任せるというのはあるべき姿です。アブサロムがアムノンを訴えて裁きの場に連れて行くのです。けれども、アブサロムは沈黙します。それは、悪に対して悪で報いる者がしばしば取る行動、態度なのではないか、と考えます。

 2年間沈黙を保っていたアブサロムは、その間ずっとアムノンをどのようにして殺すのかを考え続けていました。ある意味での心の強さを感じるのですが、人が自分を強く強く主張し続けることの先に、何が待ち構えているのでしょう。

 三人の父であるダビデは、当然アブサロムが何を考えていたのかをわかっていたはずです。しかし、ダビデはこの時点で介入しません。介入できないのです。それは、ダビデ自身が犯した罪のゆえではなかったでしょうか。

 私の心に留めている「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます」という勧めに歩むことは、ここにある悲劇から人を守るためにどうしても必要なことなのです。


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