みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

見捨てないでください

2023年09月30日 | 詩篇

詩篇 22篇

 トルコ旅の実質四日目の金曜日は、コロサイ、ラオディキア、そしてエペソを訪ねました。同労の方が「コロサイは見つけにくい」と言っておられたので懸念していましたが、道路標識に表示されていましたので、無事到着。ほとんど発掘などされていない丘の上に……。そこで、コロサイ人への手紙1章を読むことができたのは、大きな喜びでした。

 詩篇22篇は、メシアであるイエスが十字架につけられることによって実現する預言です。

 1節は、イエスが十字架上で話された七つのことばの一つです。神の御子イエスが神に見捨てられる、つまり神が十字架につけられたご自分の御子を見捨てるなどありえません。しかしこの時父なる神は御子を助けることなく、見捨てられました。しかし、それは私たちが神に見捨てられていないということを意味しています。

 8節の「主に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから」も、イエスの十字架において成就しました。マタイの福音書27章43節に「彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから」とあります。

 18節の「彼らは私の衣服を分け合い 私の衣をくじ引きにします」は、マタイの福音書27章35節の「彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いてその衣を分けた」に通じます。

 見捨てられることがどんなに辛いかは、味わった人でなければ分かりません。御父が御子を見捨てることなどありえないということが起こったのです。神に見捨てられるのがどれほどのことなのかを、イエス自らが経験してくださった……。それは、私たちが神によって見捨てられることはないということの希望なのだと考えました。


ヨシャファテの谷で

2023年09月29日 | 創世記

ヨエル書 3章

 水曜日は、サルディス、フィラデルフィア、そしてパムッカレを訪ねました。途中峠付近で地元の農家の夫妻が野菜や果物を直売している所で停車。大きなメロンを6人でいただきました。甘くて美味しいメロンでした。

 ここには「主の日」には、諸国の民がさばかれることが描かれます。それによって、神がすべての民の主であるということが明らかにされます。

 この時すべての国々が集められるのは、ヨシャファテの谷。これはキデロンの谷のことだと考えられています。ちなみに「ヨシャファテ」の意味は「主はさばかれる」。

 さばきの理由は、神ご自身の民であるイスラエルの民に何をしたかということ。2節に「彼らはわたしの民を国々の間に散らし、わたしの地を自分たちの間で分配したのだ」とあります。ここではツロ、シドン、ペリシテの名が挙がりますが、それはい擦れもイスラエル・ユダにとって隣国なのです。

 トルコ旅を続けていますと、時代の変遷とともに、大切なものとして建てられた物の材料が、やがて別の権力者が建てようとした建物の材料になったということを知ります。

 しかし歴史上の出来事も、実は神が彼らに知恵を与えて物事を動かしておられるだと信じること、神はご自分の民を徹底的に守っておられるのを知るのは大切なことだということに気づきたいものです。

*写真 「サルディス」


老人は夢を見、青年は幻を見る

2023年09月28日 | ヨエル書

ヨエル書 2章18−32節

 水曜日は、ヨハネの黙示録2−3章にある、七つの教会のうちペルガモン、ティアテラを訪ねました。宿泊したエーゲ海沿いの町にあるホテルは古い建物を改築したものです。一泊ではもったいないと誰もが思いました。朝6時の目覚ましではなくて、モスクからの祈りを勧める「アザーン」の大きな音で目が覚めました。するとそのあとに鶏が一斉に鳴き出します。不思議な目覚めでした。

 ヨエル書2章後半からは、これまでとはトーンが変わり、神による回復の預言が届けられます。「主の日」について、それは神がすべての人を正しくさばく時です。これについてある人が「主の日はすべての人が主が神であるということが分かる日、それが何よりも嬉しいことで、待ち望んでいる」と話していました。そう思います。

 25節の「わたしはあなたがたに償う」ということばが目に留まります。ここでのこのことばは、これまでにいなごの大軍勢によって失われてしまったものが完全に回復されるという意味で用いられています。「主の日」は、ご自分に民にとってはそのような日なのです。

 28節から32節(新共同訳聖書などでは3章1−5節)のことを使徒ペテロは引用しました。聖霊がイエスを信じる人々の上に臨まれたという出来事は、ここでの預言の実現だとペテロは語ったのです。16節での、「…老人たちを呼び集め、幼子と乳飲み子たちを集め…」ということばと28節は呼応しているように読みました。

*ペルガモンアクロポリスの劇場


あわれんでください

2023年09月27日 | ヨエル書

ヨエル書 2章

 火曜日は長い旅路でした。イズミールを出てアレキサンドリア・トロアスへ。聖書で「トロアス」として登場する地です。そこでは、パウロ、ルカ、そしてユテコの名前が重なります。そしてローマ時代のトロアスの港の跡を訪ねました。倒れた円柱や建物を構成する石が並の中にある景色は、10年前とほとんど変わりありませんでした。最後はアソスに。第三次伝道旅行の帰路、トロアスから陸路で向かったパウロと、船で向かったルカたちがここで会い、パウロはそこから船でミレトスに向かって行ったと使徒の働きに書いてある場所です。

 ヨエル書2章にタイトルをつけるなら、私は「神のあわれみ」とします。

 1節に「地に住むすべての者は、恐れおののけ。主の日が来るからだ。その日は近い」とあります。ここで恐れおののけと呼びかけられているのは、イスラエルの人々だけではありません。「地に住むすべての者」です。私とは関係がないとは多くの人々の考えだと思います。しかし、主の日が来るのは一部の人々のためではなくて、あらゆる人々と関係のあることなのです。

  そしてここには、「あわれみ」「あわれむ」ということばも見られます。主「の日の」さばきの前に胸を張って「私はだいじょうぶです」「私には関係がありません」と言える人はいません。主のあわれみにすがるほか術はないのです。

 だとしたら、私たちができるのはただ一つ、「主よ、あわれんでください」「主を、こんな私をあわれんでください」と祈ること。あれもしました、これもできましたなどということではないのだと、ここから気づきます。

*写真はアソスの夕景 


わたしの国

2023年09月26日 | ヨエル書

ヨエル書 1章

 月曜日に、トルコのイズミールに飛びました。火曜日から6人で、パウロの伝道の旅とかかわりのあるトルアスやアソス、そしてヨハネの黙示録2−3章に書かれている、アジアの七つの教会跡をたどる、スタディ・ツアーです。

 「みことばの光」は今日からヨエル書を読みます。「ヨエル書を読む前に」には、ヨエルの名前が「主こそ神である」という意味を持つとあります。「主こそ神であり、人は神ではない」という事実を、ヨエルの時代に生きた人々も、そして現代の私たちも受け入れなければならないのだと、身の回りに起こるさまざまな出来事を見る時に、思います。

 1章の初めにはいなごの被害の様子が描かれます。4節のいなごの被害の描き方と3節の「あなたがたの子どもたちに伝え……子どもたちはその子どもたちに……その子どもたちは後の世代に……」という語り方には何か似たものを感じます。伝えるべきメッセージが重要であって、何が何でも世代を超えて伝えなければならないことと、いなごの被害が深刻であって、食い尽くされてしまうということとが対応しているようなのです。

 さらに、いなごの被害は、外敵の侵入を象徴してもいます。6節に「ある国民がわたしの国に攻め上って来た」とあります。「わたしの国」ということばが心に留まります。ここでの「わたし」とは主なる神のこと。イスラエルを神は「わたしの国」と読んでおられるのです。その事実を忘れるのが人間。自分たちの国、自分たちのもの、ではなくて、すべては主のものなのです。

 そして、15節には「主の日は近い」とあります。それは「全能者による破壊の日」だと解かれます。「主の日は近い」はヨエル書のテーマ。その日に備えて人は何を考え、何を為すべきかを、この書から考えていきたいと思います。


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