みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

ヨナの怒り

2018年04月30日 | ヨナ書

ヨナ書 4章

 35年にわたってヨーロッパを中心に、音楽によって福音を届けてこられた工藤篤子さんがきのうの礼拝でご自分がどのようにしてイエス・キリストを信じ、今に至ったのかを話してくださいました。かつての罪を包み隠さずに話すことができるのは、ほんとうに罪がキリストの十字架によって赦されているからだと、聴きながら神さまをほめたたえました。

 4章には、ヨナと神との対話が綴られています。それは、遠慮のない対話です。ヨナはニネベが都を挙げて罪を悔い改めてことで不愉快になり、怒りを神にぶつけます。

 読みながらクスッとしたのは、2節のヨナのことば。「あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直される方であることを知っていた」として彼は怒っているのです。喜ぶべきなのに…と誰もが思うでしょうが、いざ、自分がいやでいやでたまらない人が神の恵みを受けたときに、「ほんとうに良かった」と心から喜べずに複雑な思いになる、人間の心の狭さのようなものを、ヨナの態度から知るのです。

 2節でヨナは、ニネベの人が悔い改めたので神がわざわいを思い直されたことに怒り、8節では1本の唐胡麻が枯れてしまったことに怒ります。しかし、彼の怒りには通じるものがあります。自分の思いどおりに物事がならないことに怒るのです。

 神の愛の想像もつかないほどの大きさと人間の心の小ささとが浮き彫りにされるやりとりとして、ここを読みました。


大魚の腹の中で

2018年04月28日 | ヨナ書

ヨナ書 2章

 ヨナは大魚の腹の中で三日三晩過ごしました。2章には、その時に彼が何を祈ったのかが書かれています。

 彼は、神の命令を聞かずに反対の場所に向かう所で嵐に遭い、海の中に投げ込まれました。ここでヨナは、海に投げ込まれた彼がどんなにもがき苦しんだのかを祈っています。6節の「地のかんぬきは、私のうしろで永遠に下ろされました」ということばは、海の深みに閉じ込められてしまったという絶望の様子です。その深みから彼は、天の神に扶けを祈り求めました。

 もっとも深い所から最も高い所へと祈りは届くのです。そして、彼は助かったのです。「あなたは私のいのちを滅びの穴から引き上げてくださいました」と6節の後半で祈ります。同じ節に絶望と救いとが並んでいます。絶望の中からの祈りを神は聞いてくださるのです。

 祈りの終盤はヨブの決意です。「私の誓いを果たします」と彼は決意し、「救いは主のものです」とほめたたえます。この時、神は魚に命じてヨナを陸地に吐き出させました。彼の姿勢が変わったからです。

 ヨナにとって大魚の腹の中は、神とのかけがえのない結びつきを持てる恵みの場所でした。それは、どんな所ででも神との豊かな結びつきを持つことができると、私を励まします。

[おわびと訂正]

4月29日(日)の「みことばの光」5行目からの文章に誤った記述がありました。おわびとともに、次のように改めさせていただきます。

(誤)「さて、ヨナが吐き出されたタルシシュの海岸からニネベは、、おおよそ八百キロである。」

(正)「さて、ヨナが吐き出された地からニネベは、おおよそ八百キロである。」


主の御顔を避けて

2018年04月27日 | ヨナ書

ヨナ書 1章

 旧約聖書の中でも特異な書の一つがヨナ書です。

 「みことばの光」の「ヨナ書を読む前に」には、主が預言者に与えられたことばではなく、預言者が自ら経験したことを伝えている書だとあります。預言者なのに、神に従わずに働きを放棄して逃げようとしました。人を呑み込む大きな魚が出てきます。神がヨナに託したことばが人々の心を刺して悪から立ち返ったにもかかわらず、預言者ヨナは機嫌を損ねました。

 本章は、神からの使命を託されたにもかかわらず逃げる預言者の姿を描きます。

 神はヨナに、イスラエルの東にあるアッシリヤの首都ニネベに行って叫べとお命じになります。なぜなら、「彼らの悪が私の前に上って来たから」です。何を叫ぶのかはここには記されていませんが、3章4節には「あと四十日すると、ニネベは滅びる」とあります。アッシリヤはイスラエルにとっては脅威。やがてこの時から数十年後にヨナが活動していた北王国イスラエルはアッシリヤによって滅ぼされてしまうのです。

 それを聞いたヨナの決断はすばやいものがありました。神のことばに従ったのではなくて逆らって、しかも地理的には正反対の地中海の西の端へと逃れようと船に乗り込んでしまいます。なぜヨナがこのような行動をとったのか、単純に考えるならば行きたくなかったのです。そこには、自分の宣言があるいはニネベの人々の心を打って滅ぼされないための行動をとるかもしれないとの思いが、ヨナの心の中に生じたのかもしれません。

 行くべき所だと神が指し示した地を避けて逃げようとするヨナを、そうではなくてあなたが行くべきはここなのだととどめようとする、方向を何としてでも変えようと働かれる神のお姿が表れているような箇所。私にとっては、これまでの歩みを振り返り、「そうなのです」とうなずかなくてはいられないような箇所です。


私の心を調べ

2018年04月26日 | 詩篇

詩篇 17篇

 一か月ほど前、耳の具合が悪いので耳鼻咽喉科を受診しました。診療所にはHNOと書かれているので、そのような名称の医療機関のグループなのかと思っていたのですが、そうではありませんでした。ドイツ語の喉(のど)の頭文字H、鼻の頭文字N、そして耳の頭文字Oを並べたものでした。ですからそのまま日本語にすると、「咽喉鼻耳科」ということでしょうか。頭の中の単語帳が一行増えました。

 この詩篇はダビデの熱心な訴えのことばから始まります。三行にわたって自分の願いを神に申し上げているのです。「聞いてください」「耳に留めてください」「耳に入れてください」ということばを並べてみると、ダビデの訴えが次第に強くなるようにも響いてきます。

 正しい訴えを聞いてほしいと祈り始めるダビデは、自分には神の前に一点の曇りもないと潔白を証言しています。ここから、ダビデの生涯のどこで祈られたものなのかを考えてみますと、おそらくサウル王に執拗に追われて何度もいのちの危険にさらされていた時と結びつきます。「みことばの光」は「ダビデは楽しいピクニック気分でこの詩を書いたのではない」と書いています。ダビデには自分に向かい立つ者、自分を襲う悪しき者、自分を取り巻く貪欲な敵がいて、知恵と力をもって押しつぶそうとしてたのです。

 3節の「夜 私を問いただされました」とのことばに目が留まりました。逃亡に次ぐ逃亡という一日を終えた時、荒野で床に就こうとするダビデが一日を振り返り、神の前にことばにおいて行ないにおいて自分はどうだったのかと顧みるのです。

 神が夜を与えてくださるのはこのようなことのためでもあるのだと、気づかされます。


主を前に、主が右に

2018年04月25日 | 詩篇

詩篇 16篇

 ひんやりとした空気が、先週の暑さにほてった身体を休ませてくれるような火曜日でした。当地は花粉の真っ盛り。路上駐車の愛車の屋根にもフロントガラスにもびっしり。わが家の天窓にも…。天窓三枚を掃除しました。

 この詩篇からは幸いな喜びが伝わってきます。しかし、その喜びは問題の何もない平穏無事の中にあるからということではありません。彼の喜びの鍵は、自分の思いどおりになるとか、手に入れたいものを手にするとか、成功するとかいうことにはなくて、神に身を避け、神を主とし、神を自分の前にしていることにあるのです。

 8節の「私はいつも、主を前にしています」ということばに目が留まります。このことばは以前の翻訳聖書では「私はいつも、私の前に主を置いた」でした。ことばの感じ方ですが、「主を前にしています」ということばは、自分の前に主がおられるという思いをより強くおぼえます。難しいことばを使うと「神の臨在の前にある」ということでしょうか。神に聞き、神に従いますという姿勢がこのことばに現れているように響きます。

 またダビデは、「主が私の右におられる」とも歌います。日本語でも「右腕」とは頼りになるとの意味ですが、ここでダビデは、主は自分を助けてくださるお方だとの信仰を明らかにしているのです。

 誰を、何を自分の前にしているのか、誰を、何を頼りにしているのだろうかと、本篇は問いかけています。ダビデのあふれるほどの喜びを知る時に、答えは出ています。


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