みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

ただ信じていなさい

2023年01月31日 | マルコの福音書

マルコの福音書 5章35−43節

 お借りしている教会のホールにあるオルガン。鍵盤が1段の小さなものなのですが、オルガニストの方が弾くと美しい曲を奏でます。小さい割には、しっかりと音を出せるオルガンとのことでした。見直しました。

 イエスとともに家に急ぐ会堂司ヤイロのもとに、絶望的な知らせが届けられました。娘が亡くなったのです。それならば、イエスに来ていただかなくてもよいという家からの使いのことばのとおりです。

 この時のヤイロの気持ちについて、聖書は何も書いていません。ただ、私もここを読むたびにもう少し早かったならば…と思ったのではないかと想像します。もしかしたら、長血で苦しんでいた女性とのやりとりさえも、ヤイロの悲しみを大きくしたのかもしれません。

 ところがイエスは、ヤイロに言うのです。「恐れないで、ただ信じていなさい。」

 家からの使いだけでなく、周囲にいた人々だれもが、望みは消えたと思ったことでしょう。けれどもイエスは、その知らせには構わず、ヤイロにことばをかけられました。気休めでしょうか。そうではありません。

 何事かが起こった時、私たちは解決のために知恵を尽くします。力も用います。そのようにすることで恐れが紛れるということもあるかもしれません。そのような時に、静かに神に信頼などできるだろうかと考えます。まだできることがあるのではないかと動き続けます。しかし、死はそのような努力が空しいという事実を突きつけます。

 「ただ信じていなさい」とのことばは、私の心に響きます。じたばたするな…と。


安心して行きなさい

2023年01月30日 | マルコの福音書

マルコの福音書 5章21−34節

 4月から小学生になる孫の、「ランドセル開封ビデオ」が送られてきました。箱の中から包みに覆われたランドセルを見つけた時の喜びが伝わってきます。あんまり嬉しくて、ピアノのレッスンにも背負って行ったとのこと。

 一人を救うために湖の向こう岸に渡られたイエスが戻って来ると、そこにも大勢の人々がイエスを待っていました。娘が病気なので来てほしいと頼みに来たのは会堂司のヤイロ。

 24節に「そこで、イエスはヤイロと一緒に行かれた」ということばに目が留まります。イエスはご自分のところに来る人を選別して断るということをなさいません。いっしょに行動している弟子たちにとっては、一つ一つが驚きだったのではないかと、想像してしまいます。

 ヤイロの娘についての話の間に、12年間病に苦しんでいる女性が割り込んできます。42節には娘が12歳だったとあります。この女性が病気で苦しんで来たのは12年間。ヤイロの娘が生まれてからこの歳になるために、この女性はずっと苦しんできました。

 女性は、すがるような思いでイエスの衣に触れました。すると12年の苦しみがたちどころに止んだのです。話はそれで終わりではありませんでした。彼女は身体の癒やし以上のものを、イエスからいただいたのではないでしょうか。

 「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」彼女にかけられたイエスのことばの一つ一つは、愛に基づく優しさに満ちています。


向こう岸に渡ろう

2023年01月28日 | マルコの福音書

マルコの福音書 4章35−41節

 月に一度の家庭での聖書の会。前半はともにルカの福音書を読んでいます。後半はいっしょにお昼をいただきます。参加者は当地で生き抜いてきた方々。それぞれのお話をゆっくり聞いてみたいと思うほどの経験をお持ちです。写真は参加者が持ち寄った昼ご飯の一つです。食欲も旺盛、お元気です。

 ガリラヤ湖は、イエスの働きの中ではしばしば大切な舞台となります。私の印象では、特に弟子たちの訓練の場ではなかったかということです。

 ここで舟に乗る弟子たちは、激しい風に悩まされます。彼らの中にはこの湖で魚を捕っていた者たちもいたのですから、たいていのことには対処できるのです。けれども、この風は彼らに恐れを抱かせました。恐れとは、自分の体験、経験をはるかに超えた出来事に遭遇した時に抱くのだと思いました。

 弟子たちがいのちの危険を覚えるほどの嵐の中、しかしイエスは船尾で眠っておられたのです。そんなイエスの姿に、もしかしたら弟子たちは腹立たしさえ覚えたのかもしれません。

 今回心に留まるのは、最初のイエスの呼びかけのことば。「向こう岸に渡ろう。」ガリラヤ湖での別の出来事では、弟子たちを先に舟に乗り込ませたこともありました。でも、ここではイエスがいっしょに向こう岸に渡ろうと言っておられるのです。

 ですから、舟の中には常にイエスがおられるのです。大風の中でもイエスがおられるのです。しかも、イエスは眠っておられます。「ああ、だから安心だね」と言えないのが弟子たちであり、私なのだと思いました。それが「どうして怖がるのですか、まだ信仰がないのですか」というイエスのことばにまとめられています。

 私が不安で夜眠れないでいる時に、イエスは眠っておられると知ったら、眠りに就けるのではないだろうか……。


聞く耳

2023年01月27日 | 創世記

マルコの福音書 4章21−34節

 当地でも、木曜日は冷蔵庫の中にいるような寒さでした。隣市に向かう途中、目の前には山が迫って来るのですが、上半分には積雪が…。写真に収めたい景色でしたが、運転中なのであきらめました。

 イエスはさらにたとえを語ります。「灯を燭台の上に置く」、「秤(はかり)」、「芽を出し実を結ぶ種」、そして「からし種」と続くのですが、「聞く耳をもって聞く」ということを教えるためのたとえだとするなら、何をイエスは教えようとしているのかと、興味が湧きます。

 聞く耳をもって神のことばを聞くなら、いつか必ずわかる時が来るというのは、これらのたとえによって届けられる教えであり、励ましです。

 このようなことを書きながら、若い頃に牧師になるために学んだ時、「神のことばはわからなくても、それを読み続けるなら聞き続けるなら、わかる時が来る」とある教師が機会あるごとに言っていたのを思い出しました。

 その時は、心の中で「わからないことはきちんと調べなければならない。学び調べればわかるようになる」と反論していました。その反論はある意味でもっともなのですが、知的に理解したからといって神のことばがわかるということでもありません。

 また、牧師だから教師だからよくわかっているということでもありません。いっしょに聖書を読み分かち合う中で、「そうなんだ!」と教えられるのは度々のこと。

 「聞く耳」はキリスト者に必要なものなのです。


聞く耳のある者は…

2023年01月26日 | マルコの福音書

マルコの福音書 4章1−20節

 日本ではこの冬一番の寒波が襲っていると報じられていました。お住まいのところはいかがですか。当地の水曜日も、日中はほとんど気温が上がりませんでした。でも、外歩きから戻って来ますと、それほど暖房を効かせていない部屋も暖かく感じます。春が待ち遠しいですね。

 マルコ4章は、イエスがたとえを用いて教えられた四つのことを記します。何かを教えるとき、ふさわしいたとえがあるとよくわかりますね。しかし、大切なのはたとえではなく、たとえを使って伝えようとしている教えなのです。四つのたとえのうちの三つは、種を蒔くことについてです。種蒔きはそれだけ聞く人々に身近なものだったからでしょう。

 そしてさらに、はじめの二つの教えは、「聞く耳のある者は聞きなさい」ということばでたとえが終わります。ということは、イエスは聞き方を、神のことばを聞き方を教えておられるということがわかります。

 非常に多くの群衆が押し寄せて来ました。この人々はイエスの教えを聞きたいとして押し寄せてきたのでしょうか。「聞く耳のある者は聞きなさい」というイエスのことばは、そうではなかったことを明らかにしています。3章10節に「イエスが多くの人を癒やされたので、病気に悩む人たちがみな、イエスに触ろうとして、みもとに押し寄せてきたのである」とあります。

 群衆は、たとえを聞いて満足し、あるいはがっかりして戻って行きました。しかし、彼らは肝心なことを聞かなかったのです。11節に目が留まります。神の奥義が与えられる弟子たちと、すべてがたとえで語られる外の人とがいるとイエスは言っておられます。神がそのように分けておられるということでしょうか。いやむしろ、たとえで語られる人々の心の頑なさによるものでしょう。

 人は、自分の関心、そして自分が得をする情報には興味を示します。しかし、神のことばに対してはどうでしょう。私たちも同じように、耳を開いたり蓋をしたりしているのではないか、聞くべきことばを聞かずじまいではないかと問いかけられますね。


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