みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

主はそこにおられる

2022年11月18日 | エゼキエル書

エゼキエル書 48章

 激しい雨が降ったかと思うと青空が、そしてまた黒雲が…という目まぐるしく天候が変わる木曜日でした。

 エゼキエル書は本日が終章。ここは、イスラエルの各部族への土地の分割がテーマです。すでに45章で奉納地についての割り当てが書かれてありましたが、その奉納地を中央にして北に6部族、南に6部族が土地を相続するのです。レビ部族に相続地が割り当てられない代わりに、ヨセフの二人の子の子孫のマナセとエフライムにそれぞれ相続地が割り当てられるというのは、かつてのカナンの地の相続地と同じです。

 興味深いのは、各相続地がすべて同じ大きさだということです。改めて、この幻を見ているのは捕囚の民の間にいる預言者エゼキエルであるということを覚える時に、すべてを失ったと失意の中にいた人々に、神が相続の地を約束しておられるというのは大きな慰めであり、希望を抱かせることだったと想像できます。

 ここにあるのは、これまでの歴史で実現を見たことはありません。本日の「みことばの光」が書くように、私たちが仰ぎ見る天の理想を表しているのです。きょうも、領土をめぐっての戦いが続きます。国と国とだけでなく、私たちの日常でも、お隣との土地の境界を巡っての争いは少なくありません。ですから余計に、同じように割り当てられるということの意義を覚えるのです。

 本書最後の「主はそこにおられる」ということばに心を留めます。この事実を確信できるのならば、どんなに私の生活が豊かなものになるのだろうかと思いつつ、エゼキエル書を閉じましょう。


すべてのものが生きる

2022年11月17日 | エゼキエル書

エゼキエル書 47章

 留守中に枯れてしまった紫陽花の鉢植え、水を補給してしばらくしたら、下の方から新しい芽が出てきて、今は緑色の葉が増えつつあります。水の力を改めて思いました。

 御使いはエゼキエルを神殿の入り口に戻します。新しい幻を見せるためです。そして、ここでエゼキエルが見るのは、神殿の祭壇の南から流れ出る水です。

 この水は次第に水量が多くなりやがて川になります。川の水量が多くなるのは、途中で流れ込む支流によるものですが、ここにはそのような描写はありません。神殿の祭壇の南から流れ出る水が、次第に水かさを増して川となるのです。不思議です。

 さらに驚くのは、この川が海、この場合は死海に注ぎ込まれると水は良くなり、あらゆる生物は生き、非常に多くの魚が棲むようになります。ありえない光景をエゼキエルは見るのです。

 12節は、ヨハネの黙示録22章1−2節を思い起こさせます。「御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。」

 これは、イエス・キリストによる祝福を描いた景色です。祭壇のそばから流れ出る水がすべてを生かすのです。

 ここから、イエスがサマリアの井戸のそばで一人の女性に語られたことばを思いました。ヨハネの福音書4章14節です。「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」

 喜びが湧き出る箇所です。


わたしの民

2022年11月16日 | エゼキエル書

エゼキエル書 46章

 どんよりとした、この時期らしい天候が続いているのですが、それでも思い切って外に出ると、いろいろな発見があり、歩いていると体が温かくなります。

 40章以降の新しい神殿の幻では、君主が祭司のような務めをすることが特徴的です。国を治めるだけでなく、民を代表して神の前に立つのがここでの君主の役割です。しかし、君主といえども神殿の中庭にはいることは許されませんでした。外庭と中庭とをつなぐ門の敷き居の所で、君主はささげものを祭司に渡し、祭司がそれを祭壇でささげる(焼く)のです。そして、君主は門の敷き居の所で神を礼拝します。

 この章にはさらに、君主についてのいくつかの規定があります。君主への相続地はその一部を奴隷に贈り物とすることができるのですが、逆に民の相続地を奪うことは許されていませんでした。その理由が18節にあります。「わたしの民がその所有地から一人でも散らされないようにするため」なのです。

 力のある者は力のない者に分け与えるべきであり、力のない者から奪うことは許されないというのは、どの時代にも変わらない、権力者のあるべき姿なのではないでしょうか。ここにある君主の理想像とも言えるあり方は、裏を返せば、エゼキエルの時代までのイスラエルの歴史では実現できなかったということです。


何を最初に

2022年11月15日 | エゼキエル書

エゼキエル書 45章

 窓取り替え工事で残っていた南側の屋根窓を新しくしてもらいました。従来は木枠の窓で風情があったのですが、新しいものは白。部屋が一気に明るくなりました。暖房費節約で移動した仕事部屋。気持ちも明るくなります。

 45章では、民が自分たちへの相続地の中から主への奉納地をささげるべきこと、そのうちのある領域を聖なる所とし、その回りを祭司たちのものとするべきこと、さらに5節でレビ人のものとするべきことが語られています。そのうえで、6節にはイスラエルすべての部族が共有する土地が割り当てられています。さらに7節には、それらの両側に君主の土地が置かれます。

 この後の48章で、イスラエルの各部族に相続地が割り当てられるのですが、その前に主の聖所、祭司、レビ人、そして君主の土地が決定されるということに目が留まります。まず自分たちのためのもの……ではなく主にささげることが優先されるというのは、私たちの生活にも適用すべきことです。

 時間についても、富についても、まず主のものを取り分けるということが始めです。

 日本では今、ある宗教団体の強圧的な献金、政治家を動かそうとしていたことなどがニュースなどで取り上げられています。 動機も目的も全く異なるものでありながら、「献金」ということばが大きく響くことによって、同じように見られているのではないかと懸念する人も一部にはいます。

 このような中だからこそ、神の民にはみこころにかなうあり方や行動が求められているのです。暴虐と暴行をしてはならないと、君主が強くいさめられているのも、彼が治める民は自分のものではなくて、主のものだからなのです。9節の「わたしの民を…」ということばが心に残ります。


二度と……

2022年11月14日 | エゼキエル書

エゼキエル書 44章

 教会のクリスマスの準備が少しずつ始まっています。きのうは子どもたちの朗読劇の練習日。緊張気味のお友だちが、いっしょうけんめい台本を読んでいました。いわゆる「クリスマスストーリー」は何度聞いても感動します。

 主の栄光が神殿の中に入った時に、東の門は閉ざされました。それは、主の栄光が二度とここを去らないということを表しています。

 この章を読んで思うのは、主はなぜ祭司たちが神殿を汚したことを厳しく責めておられるのだろうかということです。エゼキエル書の中でこの部分には回復、そして新しい神殿の幻が記されています。なぜ再び、神殿奉仕者の罪を責めておられるのでしょうか。神殿に主の栄光が満ちたということとつながりがあるのです。

 ここで主は、ご自分の栄光に満ちた神殿を二度と汚してはならないと、念を押しておられます。特にイスラエルの家が異国の民を連れて来て神殿を汚したことを取り上げて、聖所に仕える者を制限します。ここに書かれていることから、クリスチャンが主に仕えるということについて考えます。

 私たちは、特定の場所を聖域とはしません。どこででも神を礼拝できると考えています。だからこそ、主の聖さを心に留め続ける必要を覚えるのです。きょうの「みことばの光」に、「主なる神の栄光と聖さについて考えよう。私たちが聖なる栄光の神に近づくことができるのは何によるのだろうか」との問いかけを、どのように聞くでしょうか。


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