みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

確かな励まし

2023年07月31日 | コリント人への手紙第一

コリント人への手紙第一 15章50−58節

 日曜日の昼時、「夏休みユースの会」がありました。みんなが揃うまでゲームを…と、いくつかのボードゲームを楽しみました。そのあとでお昼ご飯。持ち寄ったものをいただきました。手巻き寿司各種、鳥唐揚げ、赤飯、お好み焼き、そしてデザートはブラウニー、飲み物はジュースや紅茶。企画し、準備してくださった方のご苦労に神が応えて祝福してくださいますように…。でも、ボードゲームって面白いですね!

 キリストの復活が、キリスト者や教会に、いやこの世界にどのような大きな意味をもたらすのかをパウロは書いてきました。ここはその締めくくりです。

 締めくくりにふさわしく、すべての人を縛っていた死がついに敗北する時が来ると、パウロはいくぶん興奮した調子で書いています。

 57節の「私たちの主イエス・キリストによって」ということばが目に留まります。私たちが…ではなく、私たちによってではないのです。キリストの復活によって、私たちを苦しめ続けている死が、死をもたらす罪がついに敗北する、弱い私たちがなんと勝利する日が間違いなく来るのです。

 その確かな希望に基づいて、パウロはコリント教会に、いや、すべてのキリスト者に書いています。「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。」このことばに何度励まされ、支えられてきたことでしょう。

 「いったい何をしているのだろうか」と自分で自分を責めるようなとき、「無駄だった」と落ち込むようなとき、やっとのことでこの聖句にたどり着きました。それはただの慰めではなく、キリストが復活したという事実に基づいた励ましなのです。


初穂であるキリスト

2023年07月29日 | コリント人への手紙第一

コリント人への手紙第一 15章20−34節

 この夏も、日本からわが家に孫が二人滞在することになり、昨日無事に着きました。子どもだけの旅なので入国審査の折りに提出する書類、そして出口で私たちが待っているとのメモも持たせました。案の定入国審査官から確認の電話があり、無事に迎えることができました!

 ここでは、「初穂」ということばが使われています。出エジプト記23章19節には、「あなたの土地から取れる初穂の最上のものを、あなたの神、主の家に持って来なければならない」とあります。

 ここでパウロは、キリストが復活されたことを「初穂」と表現しています。キリストの復活が「初穂」だとしたら、キリストを信じる者たちの復活が間違いなくあるのです。それが「来臨の時」に起こるとパウロは続けます。そして彼は、「それから終わりが来ます」言います。

 キリストの復活は、そのあとの歴史で必ず起こることの「初穂」なのですから、ここでパウロが明らかにしている一つ一つのは間違いなく起こるのです。「終わり」ということばからは悲観的な未来を描きやすいのですが、そうではありません。初穂であられるキリストが、王として治める時を指しているからです。そして「神が、すべてにおいてすべてになられる」のです。

 26節に目が留まります。死は私たち誰もが直面するものです。愛する家族も死を免れません。いや、ほかならぬ私も死を免れることはできません。人間の前に立ちはだかる死という厚い壁。しかし、やがてその壁は崩れ去るのです。キリストの復活は死が滅ぼされることは確実だと、約束しています。

 「神は彼らの目から 涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前の者が過ぎ去ったからである。」ヨハネの黙示録21章4節

 


決定的な「もし」

2023年07月28日 | コリント人への手紙第一

コリント人への手紙第一 15章12−19節

 しばらく眠っていたミラーレス一眼レフカメラを使い出しました。ずいぶん前のもので解像度も高くありませんが、マニュアルモードにすると思ってもみなかった画になります。

 コリントの教会に「改めて福音を知らせ」ているパウロ。福音とは…について、彼は「キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです」と書きました。

 12節から58節までで、パウロはキリストが復活されたことに焦点を絞って書いています。教会の基礎は福音、そして福音がほんとうに力があるのは、キリストがよみがえられたという事実があることだと話を進めていきます。どんなに聖書を巧みに教えることができても、どんなに豊かな賜物があったとしても、キリストの復活を信じることをしなかったら、宣教は空しく、信仰も空しいとパウロはことばを変えて強調しています。

 15節から、マタイが記した出来事を思いました。マタイの福音書28章11−15節です。祭司長たちは墓が空っぽだと報告に来た兵士たちを買収して、「弟子たちが……われわれが眠っている間にイエスを盗んで行った」と言わせたのです。このでっち上げはユダヤ人の間に広まっているとマタイは記しています。

 パウロは言います。人は果たして嘘のためにいのちを懸けられるだろうかと…。パウロも、そして使徒たちの多くはイエスが復活したことを、福音を伝えたためにいのちを落とします。彼らの姿もまた、イエスの復活が紛れもない事実だということの証しなのです。


出発点

2023年07月27日 | コリント人への手紙第一

コリント人への手紙第一 15章1−11節

 隣に新しい家が建築中です。基礎工事から観ているのですが、地面をかなり深く掘っていました。地下室を設けるからなのでしょう。その上に大きめなブロックのような物を積み上げていきます。遮音や断熱の効果がありそうな部材。日本の住宅とはずいぶんと建て方が違うのようなのですが、基礎をしっかり据えるというのは共通なのだと思いました。

 パウロはこれまで、コリント教会の深刻な問題を診断し、助言を与え、戒め、励ましてきました。手紙を終えようとする時、彼は福音とは何かを明らかにしています。教会の基礎を認識しないままに、自分たちにゆだねられた神からの賜物を自慢し、蔑んだり羨んだりして教会の本来のあり方から遠くはずれてしまっていたのがコリントの教会。彼らにはもう一度教会がなぜそこに立っているのかを教えられる必要がありました。

 ここには「福音」ということばが繰り返されます。コリントに福音を宣べ伝えたのはパウロ。パウロは自分を「最後に、月足らずで生まれた者のような私」「使徒の中では最も小さい者」「神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに価しない者」と書きます。

 これは、「パウロさん、そんなことはありませんよ!」という答えを期待したものではありません。彼は心底自分がそのような者だと考えています。そんな彼を、福音は、すなわち十字架にかかり復活したイエスは愛し、顧みてくださったのです。これがパウロの出発点。彼はいくつになっても、どこに行ってもこのことを忘れることはなかったのです。


平和の神なのだから

2023年07月26日 | コリント人への手紙第一

コリント人への手紙第一 14章20−40節

 昨日は四人で、来週開催されるクリスチャンの集まりのための準備をしました。ハンドブックに誤りを発見、修正ラベルを一冊ずつ貼って行く作業も加わりましたが、3時間半かけてほとんどの準備を終えることができました。

 コリント教会を混乱に陥れていた「異言問題」について書いてきたパウロは、異言を否定しているのではありません。賜物が誤って用いられることの弊害の大きさに気づくようにと促しています。

 26節に「すべてのことを、成長に役立てるためにしなさい」とあります。パウロは異言だけでなく預言する場合にも、秩序を重んじることを勧めています。意味が分からないことばの場合でも、意味が分かることばの場合でも、教会の公の集まりの時にはわきまえなければならないことがあるのです。

 「女の人は教会では黙っていなさい」とのことばが気になる人は少なくありません。このことばだけ切り取って用い、キリスト教は差別をしていると声を荒げる人が出てくるかもしれません。あるいは、このことばのゆえに教会で女性が発言すること、教えることが許されないということもありました。今でもあるかもしれません。

 しかし、このようなことばが出てくるときには、歴史的な背景や前後関係などを考える必要があります。33節にある「神は混乱の神ではなく、平和の神なのです」、また40節にある「すべてのことを適切に、秩序正しく行いなさい」などのことばが、「女は教会では黙っていなさい」の意味を解く鍵となるようです。

 コリント教会のある女性が、所構わず意味の分からないことばを発して混乱をきたしていたのかもしれないと想像されます。語るべき時に語り、黙しているときには黙しているのは大切なこと。語るべきときに語らないままでいるのも問題だということにも、気づきたい、です。


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