みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

それなら祈ろう

2013年02月28日 | 詩篇
詩篇10篇


 昨日、「聖書を読むのだ!」との意欲に満ちた方から質問がありました。熱心に聖書を読んでおられます。お読みになる聖書のあちこちについて次々と質問されるので、できる限りお答えしました。
 
 そして、「これはどういう意味ですか?」と取り出したのが、「みことばの光」3月号。何と、3月号の分まで読み進めておられたのです!
 3月号39頁10行目「ラケルは 父イサクのテラフィムを盗み」の「イサク」にマークがついています。「ここがわからないのですが…」何と、それは編集ミス。正しくは「ラバン」なのです。一心に聖書を読んでおられて、どうもわからない、「もしかしたら元々はイサクのものだったのかしら…」と想像していたそうなのです。

 すみません。編集者が書き加えたことばが間違っていました。
 聖書をこんなにもよく読んでおられる方に感動しつつも、ミスを犯したことでしばらく落ち込んでいました。

 詩篇10篇は、私たちの祈りの視野を広げてくれます。
 ダビデは、神が自分から遠く離れてしまったように感じています。神を畏れない者が、神などいないとうそぶいています。「私はゆるぐことがなく、代々にわたって、わざわいに会わない」とは、ここでは神に拠り頼む者の確信ではなくて、神などいないという者の高ぶりから出たことばです。
 彼はことばの暴力で弱い人や貧しい人々をしいたげ、暴利をむさぼります。それでいて「神は忘れている、決して見はしない」と神を畏れることをしません。

 ダビデは「主よ。立ち上がってください」と祈ります。そして「貧しい者を、忘れないでください」と続けます。「みことばの光」には、「私たちにもその祈りが必要ではないだろうか」と勧められています。「不幸な人」のためにあれをしなければ、これもしなければとの思いはあっても、いざとなると実行できないことが多いのです。「…ねばならない」と思えばそれだけ、できない自分が偽善者のように思えることもあります。

 「それなら祈ろう」とこの詩篇は前に進めさせてくれます。

   


神を忘れた国々

2013年02月27日 | 詩篇
詩篇9篇


 きょうの朝刊「天声人語」は、イタリアの総選挙の結果を取り上げていました。緊縮策に嫌気をさした国民が、あのお騒がせ前首相が掲げた露骨なばらまき政策に飛びつき、緊縮策を貫けなくなってしまいました。
 そのために、昨日の市場で円が対ドル対ユーロとも高くなってしまったことを受けて、「グローバル時代の地球は狭い」「アベノミクスがイタリアの暗雲でしぼむやもしれない」と書いていました。何千キロ離れた国の選挙の結果が、自国の経済に影響を与えるような世の中に生きているのだと、改めて思わされました。

 「みことばの光」には、「神を忘れた国々」というタイトルがついています。
 詩篇9篇を読み、「毎日聖書を読む聖書同盟の方法」を参考にMacにある「聖書通読ノート」にメモします。それから「みことばの光」を読むというのが、毎日の聖書通読のスタイルです。

 「国々」を作者ダビデの敵として、神のさばきの対象としか見ていなかったのですが、「みことばの光」の解説を読んで、ダビデが国々を神の怒り、さばきの対象としてだけでなく、宣教の対象であり祈りの対象として見ていたことに、気づかされました。
 「どうせ神を知らない人々はさばかれてしまうのだ」という冷ややかな態度が、自分の中にあるのではないかと問われます。

 この箇所から、「人間が勝ち誇らないために」「人間にすぎないことを」ということばを、心に留めました。それは、神を忘れた国々だけでなく、神を主とする者が、「主よ」と祈り求めるたびごとに自覚すべき、人間の基本のかたちなのだと思います。
 


心に留められるとは

2013年02月26日 | 詩篇
詩篇8篇


 特養ホームでの会議中に、私のiPhoneからけたたましい音が。初めは何だろうと慌てましたが、すぐに隣の席の園長さんのiPhoneも鳴りました。「緊急地震速報」でした。間もなく揺れがきました。会議を中断して職員の方は安全確認に向かいました。
震源に近い地方でも、幸い人的な被害はなかったようですね。お近くの方、お大事になさってください。

 詩篇8篇3、4節は、夜空を見上げたときに度々口ずさむ聖句です。冬の夜空はほかの季節に比べて、星がたくさん見えるように思えます。このシーズンも何度か夜空を見上げ、この聖句を口ずさみました。
 その度に思うのは、自分の小ささとはかなさ。だからといって、心細いという思いに縮こまってしまうのではありません。「あなたがこれを心に留められるとは…あなたがこれを顧みられるとは」とのことばに、暖かなものが内に満ちるような喜びが湧いてきます。

 子どもの頃、屋根(といってもお隣の屋敷の塀の上の屋根でしたが)の上に仰向けになり空を見上げては、自分はなんてちっぽけなんだろうかと、不安に駆られたことが何度かありました。宇宙の大きさを考えれば考えるほど、自分なんていてもいなくてもいいのかもしれない、と思ったのです。

 けれども、創造主なる神を信じてからはそうではありません。自分の小ささは相変わらずです。けれども、この宇宙を想像されたお方が、ちっぽけな自分を心に留め、顧みてくださるということを、夜空を見上げる度に思い、感動しています。

 幼子、乳飲み子もちっぽけな人間のそのまた小さな存在。けれども、神は彼らの口によって力を打ち立てられたと歌うのです。「みことばの光」が書くように、小さな子どもたちもりっぱな礼拝者だと、礼拝を受けられるイエス・キリストがお認めになりました。

 小さいことや、弱いことに嘆くことはないのだと、励ましを得ることができます。


    


私の義、神の義

2013年02月25日 | 詩篇
詩篇7篇


 日曜日、教会にはドイツにある日本人教会の牧師をしておられるT先生ご夫妻がおいでになりました。つい先日80歳の誕生日を迎えられたT先生は、豊かな経験に基づいて、永遠の都への希望を語ってくださいました。ご夫妻は今回、金婚を記念して帰国されたとのことです。相変わらずのベストカップル。先生ご夫妻を囲んでのお昼は、とてもおいしくまた楽しいものでした。
 これからもお元気に! またお伺いします。

 詩篇7篇を読み、心に留めたのは8節の「私の義」と17節の「その義にふさわしく」ということば。
 ダビデは、自分は神の前に人の間に正しく誠実な態度を貫いたと訴えています。しかし、彼は自分の義を絶対のものとはしていません。「正しい神は、心と思いを調べられます」と続けているのです。それは、「神さま。私は間違いがないのです。悪いのはあいつです!」とばかり、自分の正しさに固執するのでなくて、正しい審判者である神の裁断にゆだねているのです。

 人と人との間には、いつも緊張があります。夫婦の間でも、親子の間でも、自分の正しさと相手の正しさとが衝突します。強い者同士であればぶつかり合って勝った負けたと決しますが、「空気を読む」傾向の強い人ならば、緊張から生じるストレスは内に蓄積し、やがては病となって噴出するかもしれません。

 「私の義」を「正しい神」の上に置かないようにと、「さばき主である神よ。あなたの前に謙虚に生きる者であれますように」と祈ります。


   


神のために備える

2013年02月23日 | 詩篇
詩篇5篇


 今朝メールをチェックすると、長年日本で宣教し今は故国に戻っておられる方から、久しぶりのメールが届いていました。見ると、iPadを手に入れたのでアドレスの変更を知らせますとの内容でした。
 「iPad仲間」が増えたことに喜び、高齢になってなお新しいものに挑戦するお姿に感動し、早速近況とともに何枚かの写真を送りました。

 詩篇5篇を読み、おやっ? と思い心に留めたのは、3節にある「…朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします」という一言。「みことばの光」には、「朝、自分のために備える人は多い。それも大切であるが、ダビデは、神のために備えると言ったのである。自分がどう生きることが神の栄光になるのか、それをいつも考えていたのであろう」とありました。
 
 確かに、気づかないうちに、自分のために備えて聖書を読み祈ろうとする自分がいます。果たして私は、神のために備えるとしてデボーションをしていたのだろうかと、問われました。
 自分がうまくやれるように、切り抜けられるように、失敗しないようにという思いは、知らず知らずのうちに自分中心という罠の中に自分を追い込んでいるように思えます。
 そこからきっぱりと解放してくれたのが、「あなたのために備えをし」との一言でした。

 「みことばの光」52-53頁に「詩篇を味わう」というタイトルの特集記事があります。併せてお読みください。詩篇をよりゆたかに味わえるようになるための示唆に富んでいます。

 
  


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