詩篇10篇
昨日、「聖書を読むのだ!」との意欲に満ちた方から質問がありました。熱心に聖書を読んでおられます。お読みになる聖書のあちこちについて次々と質問されるので、できる限りお答えしました。
そして、「これはどういう意味ですか?」と取り出したのが、「みことばの光」3月号。何と、3月号の分まで読み進めておられたのです!
3月号39頁10行目「ラケルは 父イサクのテラフィムを盗み」の「イサク」にマークがついています。「ここがわからないのですが…」何と、それは編集ミス。正しくは「ラバン」なのです。一心に聖書を読んでおられて、どうもわからない、「もしかしたら元々はイサクのものだったのかしら…」と想像していたそうなのです。
すみません。編集者が書き加えたことばが間違っていました。
聖書をこんなにもよく読んでおられる方に感動しつつも、ミスを犯したことでしばらく落ち込んでいました。
詩篇10篇は、私たちの祈りの視野を広げてくれます。
ダビデは、神が自分から遠く離れてしまったように感じています。神を畏れない者が、神などいないとうそぶいています。「私はゆるぐことがなく、代々にわたって、わざわいに会わない」とは、ここでは神に拠り頼む者の確信ではなくて、神などいないという者の高ぶりから出たことばです。
彼はことばの暴力で弱い人や貧しい人々をしいたげ、暴利をむさぼります。それでいて「神は忘れている、決して見はしない」と神を畏れることをしません。
ダビデは「主よ。立ち上がってください」と祈ります。そして「貧しい者を、忘れないでください」と続けます。「みことばの光」には、「私たちにもその祈りが必要ではないだろうか」と勧められています。「不幸な人」のためにあれをしなければ、これもしなければとの思いはあっても、いざとなると実行できないことが多いのです。「…ねばならない」と思えばそれだけ、できない自分が偽善者のように思えることもあります。
「それなら祈ろう」とこの詩篇は前に進めさせてくれます。
昨日、「聖書を読むのだ!」との意欲に満ちた方から質問がありました。熱心に聖書を読んでおられます。お読みになる聖書のあちこちについて次々と質問されるので、できる限りお答えしました。
そして、「これはどういう意味ですか?」と取り出したのが、「みことばの光」3月号。何と、3月号の分まで読み進めておられたのです!
3月号39頁10行目「ラケルは 父イサクのテラフィムを盗み」の「イサク」にマークがついています。「ここがわからないのですが…」何と、それは編集ミス。正しくは「ラバン」なのです。一心に聖書を読んでおられて、どうもわからない、「もしかしたら元々はイサクのものだったのかしら…」と想像していたそうなのです。
すみません。編集者が書き加えたことばが間違っていました。
聖書をこんなにもよく読んでおられる方に感動しつつも、ミスを犯したことでしばらく落ち込んでいました。
詩篇10篇は、私たちの祈りの視野を広げてくれます。
ダビデは、神が自分から遠く離れてしまったように感じています。神を畏れない者が、神などいないとうそぶいています。「私はゆるぐことがなく、代々にわたって、わざわいに会わない」とは、ここでは神に拠り頼む者の確信ではなくて、神などいないという者の高ぶりから出たことばです。
彼はことばの暴力で弱い人や貧しい人々をしいたげ、暴利をむさぼります。それでいて「神は忘れている、決して見はしない」と神を畏れることをしません。
ダビデは「主よ。立ち上がってください」と祈ります。そして「貧しい者を、忘れないでください」と続けます。「みことばの光」には、「私たちにもその祈りが必要ではないだろうか」と勧められています。「不幸な人」のためにあれをしなければ、これもしなければとの思いはあっても、いざとなると実行できないことが多いのです。「…ねばならない」と思えばそれだけ、できない自分が偽善者のように思えることもあります。
「それなら祈ろう」とこの詩篇は前に進めさせてくれます。