ヨハネの福音書 8章12−20節
月に一度の家庭での聖書の会が金曜日にありました。例の「9ユーロ切符」を活用して向かったのですが、思いのほか接続がよく、路面電車に乗るはずの停留所から目的地まで歩くことができました。帰りの乗り換えもスムーズで自動車の時より少し時間がかかっただけで帰宅できました。
ヨハネの福音書は、イエスの「わたしは…です」という宣言を7つ記していますが、「わたしは世の光です」は「わたしはいのちのパンです」に続く、二つ目の宣言です。
仮庵の祭りの夜、エルサレムの神殿の婦人の庭に4本の黄金の燭台が築かれ、祭司がはしごで上って火を灯します。煌々(こうこう)と輝く灯は神殿全体を照らし、さらにエルサレムの街を照らしたと言われていました。仮庵の祭りは、エジプトを脱出したイスラエルの人々が40年間荒野を旅した時、神が昼は雲の柱、夜は火の柱で彼らを導かれたことをおぼえるためのものでした。このような時に、「わたしが世の光です」とイエスが言われたのです。あの光ではない、わたしが暗い世を照らすのだと宣言しておられるのです。
このことばに、またまたパリサイ人の非難の声が上がります。。自分で自分のことを証言しているので、イエスの証言は真実ではないという「突っ込み」です。もっともらしい非難ですが、一つの大切なことを彼らは知ろうとしませんでした。それは、イエスは神であられるので、だれの証言も必要がないという事実です。17−18節でイエスは、律法に基づいて二人の証人が必要だとしたら、わたしと、わたしの父とだとも言っておられます。
実のところ、確かなことが分からない私たちは、真実を証明するためには証言を、証人を必要とします。しかし、イエスはそれを全く必要としないのです。
20節の「イエスの時がまだ来ていなかった」ということばにも目が留まります。時を支配しておられるお方のことばです。私たちには、時についても確かなことが分かりません。だからこそ、私のための時をイエスが治め、定めておられるのだと知るならば、こんなに心強いことはありません。