みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

その恵みはとこしえまで

2017年09月30日 | 詩篇

詩篇 136篇

 束の間の一時帰国を終え、このブログをお読みの頃は帰路にあります。この間、いろいろな方とお目にかかれて感謝でした。

 詩篇135篇と136篇は、主を賛美せよとの勧めと主に感謝せよとの勧めとがそれぞれの主題になっているので、兄弟のような関係にあると、きょうの「みことばの光」に書いてあります。まるで「合いの手」のように入る「その恵みはとこしえまで」ということばとともに、この詩篇の作者は神に感謝するようにと呼びかけています。

 人は誰に、何を感謝するのだろうかということを、この詩篇は私たちに問いかけているように思います。感謝は、「ありがとう」というように言い換えても大きく意味を違えるということはないでしょう。

 神が私たちが生きるための環境を整えてくださっていることに、歴史の中で自分たちを守り導いてくださっていることに、のけ者にされ孤独の中に投げ込まれた者をみこころに留めていてくださることに、日ごとの糧を与えてくださることに、……ここにあるのは、数え切れないほどの神への感謝のほんの一握りなのかもしれないと思わされます。

 人間同士は「ありがとう」「感謝!」ということばを交わしていながら、私たちの存在のかなめであられるお方には、「感謝」しないということが何と多いことでしょう。それとともに、神への感謝をする者が人への感謝を忘れてはならないということについても、考える機会となりました。


賛美の理由

2017年09月29日 | 詩篇

詩篇 135篇

 帰国して三日目。きのうは夕方に来年1月から新しい5年サイクルがスタートする「みことばの光」の打ち合わせのために、発行している聖書同盟の事務所に出かけました。デザインをしてくださった方といろいろ確認し、いくつかの課題も見えてきました。読者の方が1月号を手にされてどのような印象を持つのか、楽しみでもあり、不安でもあります。それは、今の表紙に変更する前にも味わった思いだったと、打ち合わせの中で思い出しました。

 きょうから少しの間、詩篇を読みます。

 「みことばの光」が書くように、本篇は賛美を呼びかける詩篇だということができます。「ハレルヤ」、「主の御名をほめたたえよ」と何度も呼びかけられ、その間に賛美の理由が挟まれています。

 ここには、天地の造り主である主をほめたたえよとの呼びかけとともに、歴史を動かし治める主をほめたたえよとの呼びかけもあります。歴代の諸王の力にはるかにまさって、主はこの世界、歴史を収めておられるのだとの理由もみられます。この詩篇に限らず、旧約聖書にはイスラエルの民の歴史を回想する場面が多くあります。

 私にとっては、人生という歴史に神がどのように関わり、いや、治めてこられたのかということを静かに思い巡らすきっかけとなる詩篇です。


あなたがしるしとなる

2017年09月28日 | エゼキエル書

エゼキエル書 24章

 エゼキエル書は、1—24章までが南王国ユダとエルサレムへのさばき、25−32章がユダの周辺諸国へのさばき、33—39章がユダとエルサレムへの回復、さらに40—48章では未来に起こることについての預言、となっています

 さばきの預言は本章でクライマックスに達します。これまでエゼキエルがことばと行為とで伝えてきたとおりになる日がきました。1節の「第9年の第10の月の10日」は紀元前588年1月15日のこと。この日、バビロン王ネブカデネザルはエルサレムを攻めに来て、包囲し始めます。

 この章前半では、エルサレムが血が流されたためにさびた鍋にたとえられています。さびた鍋で煮られる肉や骨はエルサレムの指導者たちを指しています。そして、さびた鍋で煮られ取り出されるのは、彼らがさばかれることを伝えています。

 後半では、エゼキエルの妻が死んだことが記されます。しかし、自分の妻が死ぬという深い悲しみのときでも、彼は自分の悲しみを人々の前に表現することは許されません。悲しむな、ということではありません。

 最愛の妻の死を通してさえも、彼は預言者として人々に神の心を伝えなければならないのです。「なぜ妻が亡くなったのに悲しまないのか」と人々が問いかけることを受けて、彼は同胞にエルサレムの崩壊とその意味をはっきり語るのだというのです。ここに、預言者であるということの厳しさを改めて見る思いがするとともに、ご自分の御子を十字架に架けられた父なる神の悲しみに通じるように思います。

 自分の何をもって主のあかしとなるのだろうかと、27節を思い巡らしています。


私が飲むべき杯を

2017年09月27日 | エゼキエル書

エゼキエル書 23章29−49節

 昨日「みことばの光」執筆者の研修会を持ちました。正式にこのような研修の機会を持つのは初めてなのだそうです。執筆は孤独な営みですが、このようにして「みことばの光を書く」ということで集まってみますと、「私たちが書く」という結びつきを覚えるようになり、その意味でも開催して良かったと思いました。

 ところで、会場としてお借りした教会の玄関ホールを見てらびっくり。たくさんのかぼちゃが並んでいました。教会が運営している障がい者支援施設の北海道の農場で収穫した物だそうです。今年は実り豊かだとおっしゃっていました。

 前日に続き、北王国イスラエルを姉オホラ、南王国ユダをオホリバにたとえて、彼女たちが主に背を向けて神々を拝み慕っているのを神がおさばきになるということがここに記されています。

 「みことばの光」が書くように、ここには姉のオホラが飲んだ恐怖と荒廃の杯を妹のオホリバも飲まなければならないということが記されています。「杯を飲む」というのは神のさばきを受けるということです。

 十字架を前にして、ゲッセマネの園でキリストは祈られました。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、私の願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」マタイの福音書26章39節

 オホラやオホリバの淫らなふるまいを読むと、「自分は違う」と他人事のように考えようとするかもしれません。けれども、キリストが十字架を前にしてこのように祈られたということは、私も罪ゆえの「恐怖と荒廃の杯」を飲むべき者だったのだということを表しているのです。

*このブログでよく引用する「みことばの光」は、聖書全体を5年で通読する手引きです。購読をご希望の方は、ブログのリンク先「聖書同盟」にお申し込みください。


愛ゆえのねたみ

2017年09月26日 | エゼキエル書

エゼキエル書 23章1-28節

一時帰国するために、空港行きの電車に乗ろうとしたら、遅れているとの表示が。沿線で電気関係のトラブルがあったとのことでした。乗り遅れるのでは、との思いが一瞬頭をよぎりましたが、間に合いました。土曜日に戻ります。

きょうの箇所には、北王国イスラエルをオホラという姉に、南王国ユダをオホリバという妹にたとえ、神ならぬものを慕い拝む様子を淫行にたとえて、神がさばきを下すことが記されています。恋い慕った相手によって滅ぼされるというのは、なんと皮肉なことかと思います。

25節の「わたしはあなたをねたみとする」とのことばを目に留めました。ねたむというのは、互いに大切に思っている、愛しているということ前提にして湧いてくる感情です。

 そのような間柄になければ、何をしようがそのような感情は湧いてきません。相手への熱い思いがあればこそのことです。ここを、新共同訳聖書は「わたしは熱情をもってお前に立ち向かい」と訳しています。愛するゆえのねたみなのです。

「愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。」エペソ人への手紙3章17ー19節

この愛を裏切るわけにはいかないのです。


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